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第十章 突然の誘い



どんなに難しい講義でもノートを取るのを怠ったことはない。語句が知識として頭の中に入ってくれなくても書き漏らしはない。ノートは取るのが俺の役割で、人脈を生かして過去問を分けてくれるのが勇太。テストを乗り越えるために二人で編み出した最強の技だ。


教授が壇上をゆったりと動き回る。ホワイトボードに書かれるよれよれの字。机に置かれた数百ページのミニ六法全書。



「責任能力なければ刑罰なし。これが現代においての原則だと覚えてください。あーちなみにこれは成立要件の有責性にも及ぶ問題で……」



金曜の二限。教授の声はマイクを通してもか細い。いつもならうつらうつらするけど、今日ばかりは違う意味で集中ができない。



──ちなへの気持ちが、心の中で膨れ上がっている。



それを恋だと断定するのに時間がかかった。初めての感情に向き合おうとすると、母のシルエットが脳裏によぎった。ちなと一緒にいたいと思えば思うほど、サッカーや小説家になる夢同様に叶わなくなる気がした。


〝幹人がお母さんの言葉に縛られるなら、その呪いは私が解く〟


ちなはそんな俺の臆病さも溶かしこんでくれた。



「……その中で心神喪失や神経衰弱といった状態がポイントになるということを押さえてください。また更に近年この精神鑑定も非常に議論が必要となってきているわけで……」


それでもまだ迷う。気持ちを伝えて、ちなの隣を理由なく歩きたい。


でも上手くいかないくらいなら気持ちなんて伝えない方がいい。


「……医療との連携が必要不可欠になってくる……」


ちなへの想いで脳内は溢れ返りもはや教授の声は意味を持たない。


想いに応えてくれるようにポケットが振動した。絶対ちなだ。今日辺り電話が来る気がしていたのに、い

ざ来るとぶわっと全身が喜びでうち震える。


相変わらずウイイレに夢中な勇太に囁く。


「ちとトイレ行ってくる」

「おっすーいってら」


後ろのドアから忍び足で出ると、吹き抜けから空が見えた。ちなから電話が来るときはいつも天気がいい。通話ボタンをタップすると、躍るようなちなの声がした。


『もしもっしー。今ね、キャンパスをお散歩中』

『うん、今日は特にいい天気だな』

『思ったの。こんないい天気なのに、遠出しないのはもったいないって』

『つまり?』

『今から江ノ島水族館に行こう!』


想像の斜め上からのワードにとっさに腕時計を見る。


『一応聞くけど、マジで言ってるんだもんな』

『もち。一応電車の時間は調べてみた。一時間くらいで着くみたい』


片道一時間。往復と水族館で過ごす時間も合わせたら数時間じゃ済まない。

でも単純な俺の脳みそはもう勇太への謝罪文句を考え始めている。


『じゃあ、正門集合で』

『やったあ! また後でねー』


電話を切ってから全身に現実が覆いかぶさってきて、ぶるぶると肩が武者震う。


音が鳴らないようにドアをやさしく引いて、教授に見られないように身をかがめて中腰で席まで進んだ。目が合った勇太にその姿勢を崩さずに言う。


「わりい、俺出るわ」


さすがに勇太も呆れた顔をした。


「またかよ」

「すまねえ。彼女のことを想うと、どんな法律だって破ってしまうっぽい」

「うるせえ、はよ行け」


荷物を持って中腰のままドアを開け放つ。


空気が澄んでいた。生きるのが楽しい。講義をサボるのもバイトを始めたのも、ちなに会いに行くのも全てが楽しい。むさぼるように人生を取り戻している。


それは全てちなのおかげだ。ちなの言葉とまっすぐな思いに救われた。思えば、「あと1か月で死ぬとしたら?」ってなんて強烈なワードなんだ。でもそのおかげで今の俺がいる。


足の親指に力を込めて強く地面を蹴る。彼女を待たせるなんてこの世で一番の罪だ。



正門前。ちなはネモフィラの隣に座っていた。


「おーい!」


呼ぶとちなは振り返ってから左隣にちょこんと並んだ。近すぎず遠すぎずの彼女の定位置。


ちなは軽く頬を膨らませる。


「ごめんね、急に水族館行きたいなんて言い出して」

「気にすんなよ、急なのはいつものことだし」

「わは、それもそうか」

「それに、どこへでも飛んでいくって約束したし」

「幹人ってつんつんしてそうなのに、中身優しすぎるよね」


俺という人間はちっとも優しくない。優しいと感じるのならそれはちなにだけだし、勇太に代返を頼んでこっちを選ぶくらいのカスだけど、彼女が気付かないのならそれでいい。奥底で抱えている下心を誰にでも親切だと勘違いされるなら、その方が都合がいい。


ちなは気付きそうにもなさそうだ。腕を大きく振りながら小さな歩幅でのんきに歩く。


ふと、彼女の状況が気になった。


「ちなって単位とか大丈夫なの」

「こう見えて、ちゃんと講義は受けてるよん」


俺は報道記者みたくこぶしで作ったマイクを彼女の口元に近付ける。


「それと引き換えに、俺の出席が死んでいってる件についてはいかがでしょうか?」

「それは非常に、感謝の極みといったところであります」

「もし俺が単位を落としたらどう責任を取られるんでしょうか!」

「いざとなったら後期もありますし、来年だってあるのであります!」

「責任取ってそうで取ってねえ!」


腑に落ちないけど、ちなの誘いに全力で乗っかっているのは自分だから何も言えない。それに、単位はいつでも取れるけれど彼女がいつまで俺を〈死ぬやり〉に誘ってくれるかは分からない。電話が届く限り、俺はいつだって彼女の元へ飛んでくんだろう。


昼時の改札前は健康的ににぎわっていた。夕方に比べて明らかに年齢層が低くて、時折通る学生服はつい数か月前まで着ていたくせにやたらと若く輝いている。


改札の前でティッシュを目の前に差し出されて、反射的に受け取る。


「こういうのってつい受け取っちゃうんだよな」

「え、分かる。捌くの大変なんだろうなって思うとね」

「俺、思わず二周したことあるもん」

「それは優しすぎ。バイトの人大喜びしてるよ」

「あ! そういえば俺バイト始めた」

「え! なんの」


ちなは興味津々なつぶらな瞳を容赦なくぶつけてくる。


「近所のお寿司屋さん。まだ二回シフト入っただけなんだけどさ。聞いてよ、そこのバイトリーダー永田さんだったんよ」

「誰だっけ?」

「俺らが出会った飲み会のサークル長。金髪の」

「わ、あの人かあ。世間は狭いねえ。上手くやれそう?」

「ジョッキのこといじられたけど、悪い人ではなさそうなんだよな」

「頑張って見返したらいいよ。昔の幹人とは違うんだから」


ちながグーを作って差し出してきてそれに合わせる。楽しい。


やりたいことを言葉にするのがずっと怖かった。周りの青春を見下し続けてきた。自分を殺して生きていた。


あの飲み会の夜に全てが一変した。こんなにも日常が色を持つなんて、胸がどうしようもなく(たかぶ)って誰かを思って寝られないなんて、誰かからの着信を待つ日が来るなんて、本気で思っていなかった。


昔の俺見てるか? ちょっと自分の気持ちに素直になれば世界は変わってくれるよ。そんで、そう変えてくれたのはちなっていう普通の女の子だ。


「なあ、ちな。いつも振り回してくれてありがとうな」


突風で髪が揺れる。ちなはホームにいる中でとびきり綺麗なえくぼを見せる。



「〝振り回して〟は余計だから!」




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