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第十一章 江の島という街



電車に乗り込んで、運よく二人分の座席を確保して横に揺られること数十分。流れる景色が無機質なコンクリート色から鮮やかな自然に移り変わってきた。近くに山しかなかった地元を思い出す。高い建物といえば、駅の隣にあるヤマダ電機くらいだった。


乗り換え地点の藤沢駅で降りて切符を買い、江ノ島電鉄の改札を通り抜ける。


ホームでは当駅発の列車がお出迎えしてくれていた。自然をイメージさせるような深い緑色に、車窓だけ爽やかなレモンイエローで縁取られている。かっこいいって言うよりかはかわいい。つぶやくまでもなくそう思っていると、隣でちなが「なにこの電車かわいい」とぼそっとこぼして同じ感想を抱いた自分が誇らしくなる。


車内に乗り込むと、平日の昼間だからか、並んでいた人全員が座ってもあまりある余裕があった。


がたんごとん。緩やかな揺れにはそのオノマトペがぴったり似合う。いつも乗っているJRの列車とは明らかに違うゆっくりな揺れに身を任せていると、心地よくて眠くなってくる。


ちなは揺れに合わせて肩に頭を預けてきて、鼻孔に広がるカモミールティーの匂いに、まだ緊張して肩に力が入る。


数分して窓の外に水面が見えた。空にも負けない一面の青が広がっていて鳥肌が立つ。


ちなが身を乗り出した。


「ねね、海が青い理由って知ってる?」

「知らんなあ。地元海なし県だったし。でもあれ、たしかに水って透明なはずよな……?」

「実はね、ほんとは海自体に色なんてないんだけど、空の色を反射して青く見えてるんだって。そのおかげで海もあんなに真っ青に見えるの」

「なるほど! うわめっちゃ不思議だわ。鳥肌立った」


俺のリアクションにちなは満足げに頷く。


強くて明るいコバルトブルーをした空と、やわらかな印象すら感じさせるエメラルドグリーンの海。まったく違う色に見えるけど、本来は一つ。同じ色なのにまったく違う表情をしているなんて不思議でたまらない。


「空がお兄ちゃんで、海が弟ってことか」

「どういうこと?」

「同じ色だけど、先に空があって、そこから海が色を借りてるって。なんか兄弟みたいじゃん」

「……また幹人は面白い表現するね」


窓の外を広がるどちらの青もきれいで、その優劣をつけるのはおこがましい気さえした。



景色を見ていたら一瞬で時間は過ぎて、江ノ島駅で降りた。改札を抜けてすばな通りをゆったりと横断する。


生しらすの刺身定食、うなぎのかば焼き、瓶ビール。外に掲げられたメニューを眺めるだけでも楽しい。


橋を渡り切ったところでちなが大きな声を上げた。


「わ! 猫ちゃん! そこ! 駐車場の隅っこ!」


彼女が指を差す辺りでシルエットを探すと、駐車場の隅に身の細い猫を見つけた。香箱座りでひなたぼっこをしていて、全身まっしろな毛はまるでたんぽぽの綿毛みたいだった。


「よく見つけたなあー」


ちなはいたって真剣な表情でそろりそろりと抜き足差し足で近付く。猫は目を細めたまま逃げ出さない。距離が詰まる。あと少し。


触れる距離になって、ちながおそるおそる人差し指を鼻の先に持っていった。猫はそれをクンクンと嗅いで、つんと合わせる。ブラボー!小さな手のひらで顎の下や目元をわしゃわしゃと撫でる。


「やばい。もふもふ。これを人は幸せと呼びます」


可愛いものと可愛いものが組み合わさると見ているだけで満足してしまえるのか。


ちなは緩んだ頬を直そうともしなかった。


「今日で〈死ぬやり〉二つ叶っちゃうよ」

「水族館と、もう一つは?」

「〈野良猫に触らせてもらうこと〉」


ノートに〈・野良猫に触る〉と書かれているのを想像して笑ってしまう。過去のちなが綴ったほほえましい願い。


「そのノートさ、いつか見せてくれない?」

「見せないよ、恥ずかしいもん」


あえなく撃沈した俺を尻目に、白猫は他人事みたいにぐるぐると喉を鳴らしていた。






水色基調の看板を見上げる。江ノ島水族館と漠然としたイメージで呼んでいたけど、正式名称は〈新江ノ島水族館〉らしく、新しい些細な発見に胸が弾む。


ロープで区切られた順路に人はいない。飛ばして進むと、窓越しにスタッフが軽やかな笑みを浮かべていた。


「学生二人でお願いします」

「かしこまりました。学生証の方、ご提示お願いします」

「だって。持ってる?」


促すと、ちなはカバンから財布を取り出して、俺の心の中で悪戯心が囁いた。


「ちなの学生証の写真見せてよ」

「やだ。絶対無理だから。ほんとに無理だから」

「なんで、いいじゃん。俺も見せるし」

「盛れてないから!」


ちなに背中を叩かれてばしんと音が響いた。地味に痛い。スタッフが笑いながらチケットを発券してくれる。


「めっちゃ笑われた」

「幹人が悪いんでしょ!」


まだ背中がじんじんと痛む。手加減ってやつがない。でも幸せな痛みだ。スタッフに「馬鹿なカップルだなあ」なんて呆れられていたらもっと嬉しい。



館内は水族館特有の独特の暗闇が広がっていた。階段を上がってチケットをまた別のスタッフに渡すと、手の甲に入館証代わりにスタンプを押してくれる。ブラックライトで照らすと光る仕組みで、再入場もできるらしい。


ちなが誇らしげに手の甲を見せつけてきた。


「私、クラゲのマークだった」

「俺、チンアナゴのマーク」

「じゃあ私の勝ちだ」

「どういう意味だよ。え? マジでどういう意味?」


返事せずちなは小走りで魚たちを観に行く。見るからにはしゃいでいていい。


館内はどうやら相模湾を代表する魚たちが注目らしかった。俺の背よりずっと大きい水槽の中でサンゴ礁と海藻があやしくうねる。普段見ることのない水中は青だけではなく色で溢れている。赤。オレンジ。黄色。縞々。サンゴ礁に招かれるように小さな魚が集まる。


「魚見てるとさ、お腹すいてくるよなあ」

「うるさい、そういうこと言わないよ」

「あそこ泳いでるエビとか普通に食えそう」

「食べられたとしても、水族館では特に黙っとくんだよ」


ちなの繰り出すツッコミが気持ちよくてついふざけてしまう。彼女はやや半笑いのまま。


「もう。先に進んでるからね」


すてすてと順路を歩いていってしまう。今日はどうも空回りしている気がして、突っ立ったままエビと数分間顔を合わせた。


子供の頃、あまり遠出をした記憶がない。一番古い記憶は小学五年生の頃、親の運転で連れられて行った諏訪の花火大会。帰りの車の中で渋滞にイライラする父の姿を覚えている。肝心の花火についてはよく覚えてない。


だからか、目の前に広がる空間がたまらなく新鮮でどきどきした。一つ一つの水槽に丁寧に施された生き物の説明の隅から隅まで読みたい。水槽の中の生き物と照らし合わせてどれがどれなのか一つ一つ知りたい。自分の中にもこんな知的探究心みたいなものがあったのか。新しい自分に出会えた気がしてちょっと誇らしい。


離れるのが惜しいけどそれなりにして進む。焦らすように何もないコーナーを曲がると場が開けた。


──マジか。


大きなドーム式の空間にクラゲのシルエットが浮いていた。まんなかに大きな水晶の球体があって、無数のクラゲがぷかぷかと泳ぐ。ちなはそこにくぎ付けになっていた。


三方向から射す照明の演出のおかげか、まるで意思を持っているようにクラゲが緩やかに舞う。見つめているだけで平気で時間が溶ける。ミズクラゲ、アカクラゲ、カラージェリー、サムクラゲ。名前と生態がそれぞれ書かれている。


付近に気配を感じて横を見ると、ちなが隣にそっと寄り添ってきていた。


「幹人、私より楽しんでない?」

「想像以上に楽しいわ。俺、考えてみたらこういう場所あんま来たことなかったんだ」

「集中してる横顔、ちょっとかっこよかったよ」


いきなり言われて頭が沸騰する。あれだけクラゲの生態に想いを馳せていたのに、思考が完全に途切れた。


頭の中ピンクな俺のことなんか気にすることなくちなは言葉を続ける。


「クラゲってね、人が存在するよりずーっと前から存在してたらしいよ」

「人より前って、二千年前とか?」

「それよりもっと。人間より長生きだから、不死身の象徴でもあるんだって」

「へー。ちなみにどんくらい生きるの?」

「何百年も。厳密に言うと、自分でクローンを作れるから実質一生生きられるんだって。もちろん、天敵に食べられちゃうとかはあるらしいんだけどね」


水槽に触れる。すごくひんやりとしている。たゆたう白色のクラゲたちは、天敵もいない水槽の中で人が生きてる限りここで生き続ける。そう考えると恐ろしい。


あのまま地元にいたら、俺は窒息してただろうから。


「永遠に閉じ込められるって怖い話だな。俺は絶対無理だ」

「そう?」

「うん。地元にいた頃の自分と重なるわ。このまま何も楽しいこと起きずに真っ暗なまま死んでくのかなって」

「そうかあ。私はなれるもんならクラゲになりたいよ」

「え、なんでさ」


聞いてから、しまったと思った。



「時間があるって羨ましいことだよ。それがたとえ水槽の中でも」



ちなは心底願うように言う。病気をしていた彼女の時間への執着は、それこそ病的なくらい強い。


順路を進む。チンアナゴ。マグロ。手長エビ。サケ。


水槽に反射するちなの表情が冷たかった。照明のせいもあって青白い。何かを諦めているかのような眼差しで遠くを見ている。どうにかしてあげたいのに、動けない。


今の俺に分かるのは、今まで病気をしてきた彼女が〈死ぬまでにやりたいこと〉をノートに綴ったこと。周りの人が息をするように経験してきたことを、見るしかなかったこと。


俺にできることはないのか。俺だからこそできることはないのか。


考え込んでいたら、視界に光が入ってきた。外の展示に移る。


ロードマップには、ウミガメとペンギンのマーク。


後ろから明るい声がした。


「ペンギンいるんだって! 急ごう!」


小走りで追い抜いていく彼女にさっきまでの悲壮感は見られない。ちなはやっぱり表情がころころと変わる。


でも。できることなら笑顔だけを見ていたい。悲しい顔はさせたくない。エゴだとしても。


そのためなら俺はピエロにだってなれる。



ちなの笑顔を見ると、俺はいつもよりも強くなれるんだ。



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