第8話 あなたが不快なら
「その点については、俺に考えがある」
ルークが言った。
「俺も一緒に領地へ行く」
「叔父上も?」
「ああ。お前から正式に解任を告げたあと、俺がジャンと話す」
リュシオンが眉を寄せる。
「何を話すのです?」
「今後、同じことをしないと本人が誓えるなら、王宮で働ける口を紹介する」
マリナは目を瞬いた。
「王宮で?」
「書類を見る限り、仕事の能力そのものはある。人員を欲しがっている部署もいくつかあるから、紹介状を書くことくらいはできる」
「ですが……」
マリナは戸惑った。
「解任されたあとに、王宮のお仕事をご紹介するということですか?」
「ああ。ただし、無条件じゃない」
ルークの目がわずかに鋭くなった。
「自分が何をしたのか理解していること。マリナ夫人に対して二度と同じような真似をしないこと。それから、王宮でも身分や性別を理由に他人を侮るような言動をしないこと。その三つを本人に確認する」
リュシオンが腕を組んだ。
「もし、反省していなければ?」
「紹介しない」
ルークは即答した。
「それだけだ」
「……なるほど」
「それに、王宮で同じ真似をしたら、今回のようには済まない」
ルークは淡々と言った。
「自分が何をしたのかは、俺からよく言っておく。今回は領地から出ていくだけで済んでよかったと思え、と。王宮で同じ真似をしたのなら、冗談では済まない。下手をすれば首が飛ぶ」
「そこまで言いますか」
「言うべきだ。……本人のためにもな」
ルークは肩をすくめた。
「能力があるなら、能力は使えばいい。だが、仕事ができることと、人に何をしても許されることは別だ」
その言葉に、マリナは黙った。
仕事ができる人なら、多少嫌なところがあっても我慢する。
自分一人が困るだけなら、仕事が回る方を選ぶ。
ずっと、そうしてきた。
「王宮勤めとなれば、ジャン本人にとっても悪い話ではないでしょうね」
マリナの言葉にリュシオンが頷いた。
「領地管理人より、むしろ出世と受け取られるかもしれない」
ルークが釘をさした。
「王宮の仕事を紹介してやるのは、あくまで、しこりを残さないように――マリナ夫人がやりやすくするためだ。そいつの出世のためじゃない。ジャンの一族には、そのことをよく説明しろ」
マリナは少し考えてから、頭を下げた。
「……ありがとうございます」
正直、ありがたかった。
ジャンと今後領地で顔を合わせずに済む。
しかも、領地内の人間関係を大きく損なわずに処理できる。
それでも、まだ落ち着かない気持ちが残る。
「ですが、管理能力そのものには問題ありません。それに、ジャンがいなくなれば、後任も必要になりますし――」
「違う」
ルークが遮った。
「あなたが不快な思いをした。それで十分だ」
マリナは目を瞬いた。
「……それだけで、ですか?」
「”それだけ”ではないだろう。十分な理由だ」
ルークは当然のように頷いた。
「五年間、あの男の上に立って領地を管理してきたのはあなたなんだろう。管理する側が安心して一緒に働けない相手を、わざわざ置いておく必要はない」
「でも――」
自分が嫌だったから――ただ、それだけの理由で人を動かす。
マリナには、その発想がなかった。
これまでもそうだった。
自分一人が我慢すれば仕事が回るのなら、その方がいい。
自分一人が譲れば誰かが困らないのなら、譲ればいい。
それが一番簡単で、正しいことだと思っていた。
「……では、せめて後任が決まるまでは、私が一人で――」
「たぶん、あなたはできるだろう」
ルークは即座に答えた。
マリナは口を閉じた。
「できるからといって、全部あなたがやる必要はない」
「……ですが」
「王都から一時的に補佐を送る。領地の事情が分かる人間が必要なら、あなたが指示を出せばいい。後任が決まるまでの話だ」
マリナは黙った。
できるからといって、やる必要はない。
そんなことを言われたのは、初めてだった。
できるならやる。
困っている人がいるなら助ける。
自分が我慢して済むなら我慢する。
そうやって生きてきた。
「……分かりました」
マリナはゆっくりと頷いた。
「では、お言葉に甘えさせていただきます」
「ああ。そうしてくれ」
ルークはそれだけ言って立ち上がった。
「では、一度自宅へ戻る。領地へ行く日が決まったら連絡をくれ」
「お帰りですね」
エルシーは立ち上がると、使用人に見送りの準備をするよう指示を出し、席を立った。
リュシオンも立ち上がると、ルークに一礼した。
「叔父上。ジャンの件、ありがとうございます」
「俺に礼を言う話じゃない」
ルークはちらりとマリナを見た。
「奥方に言え」
そう言い残し、応接間を出ていった。
マリナは閉じていく扉を見つめた。
――できるからといって、全部あなたがやる必要はない。
もう一度、頭の中でその言葉を繰り返す。
「マリナ」
リュシオンに呼ばれて振り返った。
「何でしょう?」
「……ジャンとは、本当に何もなかったんだよな?」
何を聞かれたのか、すぐには理解できず、マリナは目を白黒させた。
「……はい?」
「いや、その……」
リュシオンが視線を泳がせる。
「ジャンが君に言い寄っていたというから。まさか、以前から何かあったということは――」
マリナは目を見開いた。
「本気でおっしゃっていますの?」
「いや。疑っているわけじゃない」
「でしたら、なぜそんなことをお聞きになるのですか」
「悪かった」
リュシオンはすぐに謝った。
けれど、何かが気になるらしく、今度は別のことを尋ねた。
「……王都まで、叔父上と一緒に来たんだよな?」
「ええ」
「道中は?」
「ルーク様のお知り合いの貴族の方のお屋敷に泊めていただきました」
「叔父上と同じ屋敷に?」
その聞き方に、マリナは眉を寄せた。
「もちろん別々のお部屋ですわ」
「ああ、いや。そういう意味じゃ……」
「とても親切に応対していただきました。温かい食事もいただきましたし、きちんとベッドで休むこともできました。大変助かりましたわ」
「そうか……」
リュシオンは目に見えて安堵した。
その様子を見て、マリナの胸に小さな苛立ちが湧いた。
自分は二年も領地へ帰ってこない。
妻が何を食べているのか、きちんと眠れているのかなど、尋ねたこともない。
それなのに、ほかの男と一緒だったと聞けば気になるらしい。
「マリナ」
リュシオンが一歩近づいた。
そして、確かめるようにマリナの頬へ手を伸ばした。
「久しぶりに君に会えて、嬉しいよ」
「――」
顔が近づく。
その瞬間、マリナは反射的にリュシオンの胸へ手を当てていた。
押し返されたリュシオンが、驚いた顔をする。
「マリナ?」
「……申し訳ありません」
マリナ自身も、自分の行動に戸惑った。
「長旅で疲れておりますので。私も、今日は休ませていただきます」
「ああ……」
リュシオンはしばらくマリナを見つめていたが、やがて手を下ろした。
「そうか。ゆっくり休むといい」
「ありがとうございます」
リュシオンが部屋を出ていく。
一人になったマリナは、しばらくその場から動かなかった。
(……ご自分は領地に戻ってこないのに、嫉妬のようなことはなさるのですね)
以前なら、少しは嬉しかったかもしれない。
リュシオンが自分を妻として見ている証拠なのだと、そう思えたかもしれない。
けれど、今は違った。
頬に触れられたとき、嬉しいとは思わなかった。
顔を近づけられたとき、胸が高鳴ることもなかった。
むしろ――触れられたくないと思った。
マリナは自分の頬に手を当てた。
そして初めて、自分の中で何かが変わり始めていることに気づいた。




