第6話 羨ましい
「――マリナ、新しい薬は持ってきてくれたか?」
そう聞かれて、マリナは頷いた。
「……もちろんです。――その前に、少し診させていただいてもよろしいでしょうか」
マリナは鞄の奥から、小さな水晶を取り出した。
透明な石を細い紐で吊しただけの、医療器具と呼ぶにはあまりに簡素なものだった。
「それは?」
後ろから声がして、マリナは振り返った。
いつの間にか、ルークも部屋へ入ってきていた。
「……精霊力を調べる水晶です」
マリナは答え、レベッカの胸元へ水晶を近づけた。
透明だった石の内側に、じわりと色が広がる。
赤でも青でもない。
鈍い銀灰色――
「……君は精霊医療を使うのか?」
ルークが意外そうに尋ねた。
「いいえ。私の実家の病院で行っているのは、基本的には学術医療です。精霊医療について、私はほとんど知識がありません」
「では、それは?」
「半年ほど前に領地の方からいただいたものです」
マリナは水晶を見つめながら答えた。
「治療をしたお礼に、と。お母様が昔、“魔女”をしていたというご老人からいただきました」
「魔女?」
リュシオンが眉をひそめる。
――無理もない。
精霊医療は、医師たちが行う学術医療とはまったく異なるものだ。
精霊には火、水、風、木、鋼など、それぞれ異なる性質がある。
人間の身体にもそれらの力が宿っており、病はその均衡が崩れることで起きる――というのが、精霊医療の基本的な考え方らしい。
地方の村々では、今でもその知識を受け継ぐ女性を“魔女”と呼ぶことがある。
もっとも、薬草の効能や病の知識など、学術医療と重なる部分もあれば、何の根拠があるのか分からない迷信のようなものもある。
だからマリナも、最初は水晶を治療に使うつもりなどなかった。
ただ、せっかくもらったのだからと、父と一緒に入院患者を相手に試してみたのだ。
そこで、妙なことに気がついた。
「……やっぱり」
「何か分かったのか?」
リュシオンが身を乗り出す。
マリナはすぐには答えなかった。
もう一度、水晶をレベッカの胸元へ近づける。
近づけるほど、銀色は濃くなっていくように見えた。
「病院に入院している《鋼心病》の患者さんにも、これを試したことがあります」
「それで?」
「皆さん、鋼属性の精霊力が強く出ました」
マリナは水晶を持ち上げた。
「ですが……レベッカ様は、それよりもずっと強いです」
「悪いということか?」
「分かりません」
マリナは首を振った。
「まだ症例が少なすぎます。そもそも精霊力と《鋼心病》に本当に関係があるのか、それすら分かっておりません。ただ――」
視線を水晶からレベッカへ戻す。
――そのときだった。
レベッカの胸元で、七色の光がきらめいた。
虹色の輝きを宿した大粒の宝石。
ロレンス領の山間部でわずかに産出する、虹彩ダイヤモンドだ。
非常に珍しく、貴族の女性たちに好まれ、高値で取引されている。
マリナも結婚したころ、リュシオンから虹彩ダイヤモンドが一つついた指輪を贈られた。
レベッカのつけているものは、全体に虹彩ダイヤモンドが施され、きらめきを放っている。
「お義姉さま?」
レベッカに呼ばれて、マリナは顔を上げた。
「……いえ。何でもありません」
視線を鞄へ戻す。
今は、根拠のないことを考えている場合ではない。
「こちらをお持ちしました」
取り出したのは、病院から持ってきた薬だった。
「風鈴草を煎じて作った薬です。昔から呼吸が苦しい時によく使われているもので……最近、《鋼心病》の患者さんに使い始めています」
「効くのか?」
「治るわけではありません。ただ、服用すると呼吸の苦しさや動悸が軽くなる方が多いのです」
リュシオンの顔にわずかに希望が浮かぶ。
「だったら、すぐに飲ませてくれ」
マリナは薬を用意しながら、水晶へ目を落とした。
「精霊医療では、風鈴草には強い風属性の精霊力があるとされています。《鋼心病》の患者さんは鋼属性が強い。風鈴草を服用すると、一時的にその値が下がることも分かりました」
「では、精霊力が病気の原因なのか?」
ルークが尋ねる。
「まだ分かりません。ただ、薬効があるのは確かです」
マリナは薬をレベッカへ差し出した。
レベッカは薬を見つめた。
「……苦いですか?」
「少し」
「まあ……」
困ったように眉を下げる。
「レベッカ」
リュシオンが隣から優しく声をかけた。
「頑張って飲んでみよう」
「……お兄様がそうおっしゃるなら」
レベッカは素直に薬を受け取った。
少しずつ時間をかけて飲み干す。
リュシオンがレベッカを抱きかかえ、ソファに横たえる。
一時間ほど経つころには、浅かった呼吸が少し落ち着いていた。
頬の色も、先ほどよりいい。
「どうですか?」
「……少し、楽になりました」
レベッカが自分の胸へ手を当てる。
「さっきより、息が吸えます」
「よかった……」
「……呼吸が落ち着いておりますな」
老医師がレベッカの脈を取り、意外そうに呟いた。
「先ほどより脈にも力がある。風鈴草に、このような効能があるとは」
「まだ症例は多くありません。ただ、父の病院では同じような改善が何例か確認されています」
「なるほど……」
リュシオンが大きく息を吐いた。
その表情を見て、マリナも安堵した。
「マリナ」
リュシオンが振り返った。
「この薬は、まだあるのか?」
「ええ。ですが、一日に飲んでいい量は決まっています。多く飲めばいいというものではありません。……とりあえず、一か月分を持ってまいりました」
「一か月分か……」
リュシオンは眉間に皺を寄せた。
「――病院に入院されている患者様も使いますので。……母を中心に薬を作っておりますが、量産できる状態ではないので……」
「少ないのではないか」と責められている気がして、マリナはとっさにそう返した。
リュシオンは頷いた。
「それならば、仕方ないな」
そして、マリナを見つめる。
「薬がなくなる前に、次の分をこちらへ寄こしてくれ」
マリナの頭に、父の言葉が浮かんだ。
『レベッカ様も連れて、こちらにいらしていただければ、よい治療ができると、何度もお伝えしているのに――』
「リュシオン様、レベッカ様を病院に入院させては? 父からも提案があったかと思いますが――」
「嫌よ」
言葉を遮ったのは、レベッカだった。
目にきらきらと涙を浮かべて、リュシオンを見つめている。
「お兄様……私、この屋敷を離れるのは嫌なの……。死ぬなら、お兄様やお母様やお父様と過ごした思い出がたくさんあるこの屋敷で死にたいの……」
「死ぬなんて」とマリナは口を開きかけて、息を吐いて心を落ち着けた。
「レベッカ様。病院には何人か《鋼心病》で入院されている患者さんもいらっしゃいますが、皆さん、入院されてよかったとおっしゃっていますし……」
「レベッカ。お前が嫌だと言うなら、入院させないよ」
マリナの言葉をリュシオンが遮った。
「――君が落ち着く環境にいるのが一番だ。先生も心労が一番悪いと言っているし」
老医師が頷いた。
――一般的には、そうだ。《鋼心病》は心身に負荷がかかると悪化すると言われている。
けれど、父の病院では、この病について、国で一番熱心に治療に取り組んでいるはずだ。
それは、リュシオンのたっての願いで。
――だから、病院に入院してもらった方が――
(いいえ、言っても仕方がないわ)
マリナは息を吐いた。
少なくとも、今、言う話ではない。
「――今夜はできるだけ安静に。発作が起きたら、すぐに呼んでください」
「ああ」
リュシオンは頷いた。
「母上と使用人にも伝えてくる」
そう言って部屋を出ていく。
ルークもリュシオンに話があるらしく、その後を追った。
扉が閉まる。
部屋には、マリナとレベッカ、老医師、それから少し離れて控えている侍女だけが残った。
「……お義姉さま」
レベッカが呼んだ。
「何でしょう?」
「領地は、大丈夫なのですか?」
「領地?」
「お義姉さまがこちらへいらしてしまって」
レベッカは心配そうに眉を下げた。
「お義姉さまがお一人でも、領地のことは大丈夫なのでしょう?」
一瞬、質問の意味が分からなかった。
「……ええ。急ぎのことがあれば、向こうから連絡が来ますし、しばらくなら問題ありません」
「そうですか」
レベッカはほっとしたように微笑んだ。
「よかった」
「……?」
「でしたら、お兄様がこちらにいても困りませんものね」
マリナはレベッカを見た。
レベッカも、こちらを見ていた。
先ほどまでの儚げな笑顔は変わらない。
けれど、妙に胸に引っかかる言い方だった。
「リュシオン様は、領主です」
マリナは静かに答えた。
「本来であれば、領地にいらっしゃるべき方ですわ」
レベッカの笑みがわずかに消えた。
「……でも、領地のことはお義姉さまがお一人でできているのでしょう?」
「それは――」
「わたくしには、お兄様しかいないのです」
レベッカは細い指で毛布を握った。
「いつ発作が起きるかも分かりません。次に眠ったら、もう目を覚まさないかもしれないと、毎晩思っています」
「レベッカ様……」
「お義姉さまは、明日も明後日も生きていけるのでしょう?」
青い瞳がマリナを見つめる。
「領地のお仕事もできる。お父様も、お母様もいらっしゃる。どこへでも行けるし、これから先も、ずっと生きていける」
レベッカは微笑んだ。
泣きそうな、弱々しい笑みだった。
「……お義姉さまが羨ましいわ」
マリナは何も言えなかった。
――まただ。
五年前、白い花嫁衣装を着ていた自分に、リュシオンが言った言葉を思い出す。
『君にはまだいくらでも時間があるだろう。あの子にはないんだよ』
レベッカの言っていることは、間違っていない。
健康な自分には明日がある。
来年も、その先もある。
レベッカには、それが約束されていない。
ならば、今くらい彼女が兄を必要としても、譲るべきなのだろう。
「……そうですわね」
マリナは静かに答えた。
「今は、治療に専念なさってください」
「ありがとうございます、お義姉さま」
レベッカは嬉しそうに微笑んだ。
その胸元で、虹彩ダイヤモンドが七色の光を放った。
窓から差し込む夕日のせいだろうか。
先ほど見た水晶と同じように、その光が一瞬だけ、鈍い銀灰色を帯びたように見えた。




