第5話 夫と義妹
領地から王都までは遠い。
翌日もルークの知り合いの貴族の屋敷に滞在し、王都のロレンス侯爵家の屋敷へ着いたころには、日が傾き始めていた。
馬車が止まると、マリナは窓の外を見た。
五年前から何度も訪れている屋敷だ。
けれど、自分の家だと思ったことは一度もない。
使用人に案内されて玄関を入ると、ほどなくして廊下の向こうから足音が聞こえた。
「マリナ」
ルークと同じ銀色の髪の男が早足で近づいてくる。
夫、リュシオンだった。
「リュシオン様――」
夫を見て、マリナは何と言うべきか迷い、小さく呟いた。
「――お久しぶりです」
《鋼心病》の研究報告や領地の様子を手紙で伝えることはあっても、直接会うのは半年ぶりだ。
「ああ。来たか」
けれど、リュシオンの反応はそれだけだった。
長く会っていなかった妻の顔を見るより先に、リュシオンは廊下の奥を振り返る。
「レベッカを診てくれ。昨日から発作を繰り返している」
「分かりました」
マリナは頷いた。
そのとき、後ろから入ってきたルークに気づいたらしく、リュシオンが足を止めた。
「叔父上?」
「久しぶりだな、リュシオン。視察にお前の領地に行ったら、奥方しかいないので驚いた」
「――申し訳ありません。レベッカの体調が優れず、そちらまで気が回っておりませんでした……」
ルークは何か言いたげに口を開いたが、結局それには触れず、一言だけ言った。
「――お前の領地の“数字が良すぎる”という懸念は、少し見ただけで解消したぞ。単に、管理が行き届いている結果だ」
ルークは頷いた。
「そうでしょう。マリナがよくやってくれているから、僕は何の心配もしていないんです」
「――だから、俺が行くという話も、奥方に一言も伝えていなかったのか」
ルークの言葉に、リュシオンは表情を硬くした。
「申し訳なかった、と僕は詫びましたよ。叔父上。レベッカの調子が悪く、それどころではなかったのです」
「――俺ではなく、奥方にも詫びた方がいいのではないか? 突然の訪問に驚いていたようだ」
ルークの言葉にリュシオンは一瞬「何を言っているのかわからない」と言う顔をして、それから「――ああ」と呟いた。
「マリナ。連絡ができずに悪かったよ」
マリナは首を振った。
「……構いませんわ」
(リュシオン様が私のことを気遣うだなんて)
一瞬感動し――それからマリナは、そんな自分に対して急に冷静になった。
(……一言はあっても、当然ではないのかしら)
リュシオンを見つめるが、夫はもうマリナの方を見ていなかった。
心配そうに廊下の奥を見つめている。――レベッカのいる方だ。
マリナは首を振った。レベッカの命がかかっていたのだ。
視察の対応なら、自分にもできる。仕方がない。
「マリナ」
リュシオンが先を急かすように呼んだ。
「早く来てくれ」
「はい」
マリナはその後を追った。
廊下を歩きながら、ふと背後を振り返る。
ルークはその場に立ったまま、こちらを見ていた。
何か言いたげな顔をしていたが、マリナにはその理由がわからなかった。
◇◇◇
案内されたのは、二階の南向きの部屋だった。
リュシオンがノックをしてから扉を開けた。
「レベッカ。マリナが来てくれたぞ」
中にいた白衣の老医師がマリナに礼をした。
ロレンス侯爵家主治医の老医師だ。
窓辺に置かれた車椅子に、一人の若い女性が座っていた。
柔らかく波打つ金色の髪。透けるように白い肌。淡い水色のドレスには繊細な刺繍が施され、細い首には七色の光を放つ宝石の首飾りが輝いている。結い上げた髪にも、小さな宝石がいくつも飾られていた。
頬には薄く紅が差され、唇にも色が乗せられている。
「お義姉さま」
レベッカはマリナを見ると、儚げに微笑んだ。
「お忙しいところ、申し訳ありません。わたくしのために、こんな遠くまで……」
「いいえ。それは構いませんけれど……」
マリナは目を瞬いた。想像していた姿とは、ずいぶん違う。
急ぎの使者をよこしたのだ。てっきり、ベッドに寝ているものかと思っていた。
「……容体が悪いのではなかったのですか?」
思わず尋ねると、リュシオンが険しい表情になった。
「四日前に大きな発作を起こしたんだ」
「呼吸ができなくなりましてな。一時は危険な状態でした」
老医師が眼鏡を持ち上げる。
「四日前に危険な状態に?」
マリナは改めてレベッカを見た。
化粧に隠されていて気づくのが遅れたが、確かに顔色は悪い。
頬に紅を差しているにもかかわらず、その下の肌は青白い。細い手を膝の上に置いているだけなのに、指先がかすかに震えていた。
「レベッカ様。失礼します」
マリナはレベッカの前に膝をつき、その手首に指を当てた。
――脈が弱い。一つ一つの拍動に力がない。
「……着替えてください」
マリナはレベッカを見つめて、言葉を強めた。
「え?」
「もっと身体を締めつけない、緩い寝間着にしてください。髪もほどいて、横になった方がいいです。これだけ呼吸が浅いのに、身体を締めつける服を着て車椅子に座っている場合ではありません」
レベッカの青い瞳が不安そうに泳いだ。
「……でも、お義姉さまがいらっしゃると聞いたので」
「私が?」
「せっかくお会いするのに、寝間着のままでは失礼かと……。みっともない姿をお見せしたくなかったのです」
泣きそうに眉を下げられて、マリナは言葉に詰まった。
「そんなことを気にする必要は――」
「マリナ」
リュシオンが遮った。
「先生からも、精神的な負担はできるだけ避けるように言われているんだ」
老医師が横で同意するように眼鏡を持ち上げた。
マリナは頭を抱えた。
「それは分かります。ですが、このドレスは――」
「本人がこれを着ていた方が落ち着くと言っている。だったら、好きな格好をさせてやればいいだろう」
リュシオンはそう言いながら、レベッカの膝からずれかけていた毛布を掛け直した。
「寒くないか?」
「ええ。大丈夫です、お兄様」
「喉は乾いていないか?」
「少しだけ……」
「待っていろ」
リュシオンはすぐに卓上の水差しへ手を伸ばした。グラスに水を注ぎ、レベッカが受け取りやすいよう、その手元まで運んでやる。
「ありがとうございます、お兄様」
レベッカが微笑んだ。
マリナは二人を見つめた。
――結婚したときから、ずっとそうだ。
リュシオンはレベッカのことになると、驚くほどよく気がつく。
寒くないか。喉は渇いていないか。疲れていないか。
その一つ一つを先回りして世話をする。
――私には、ルーク様が訪ねてくるという連絡一つ寄こさないのに。
その言葉が口元まで出かかって、マリナはごくりと飲み込んだ。




