第4話 君にはまだ時間がある
「やあ、ルーク! 久しいな。ゆっくりしていってくれ」
道中で立ち寄ったルークの知り合いだという貴族は、マリナたちも歓迎してくれた。
温かい食事を出してもらい、部屋を用意してもらって、マリナはゆっくりと休むことができた。
(――いつもの、街道沿いの宿屋で寝るのとは段違いね……)
リュシオンの使者もルークに余程感謝をしたのか、ルークの従者を差し置いてルークの荷物を運ぼうとして、ルークの従者に睨まれていた。
(……ずいぶんと、人の心を掴むのが上手な方なのね)
客間のソファの対面で寛いだ様子のルークを見て、マリナは心の中で呟いた。
(……リュシオン様と違って、周りをよく見ているのだわ……)
リュシオンは、レベッカのことになると盲目的で、他のことが見えなくなる。
領地のことも。王都と領地を往復する使者のことも。――妻である、マリナのことも。
それからはっとして首を振った。
(……自分の夫を、他の男性と比べるなんて……)
「マリナ夫人」
声をかけられて、マリナははっと顔を上げた。
「……何でしょうか?」
「あなたが病院に行っている間に、帳簿や記録を見たのだが――、屋敷の近くの病院だけではなく、離れた場所にも診療所を作っているのだな?」
「ええ……南部の村には、医師がほとんどおりませんでしたから。父の知り合いのお医者様に診療所を担当していただきました」
「――井戸の整備も、あなたが?」
「ええ。二年前に熱病が流行した村を調べたところ、井戸水に問題がありましたので。古い井戸を閉鎖して、新しく掘り直しました」
「それで翌年から死者が減ったのか」
ルークは感心したように呟いた。
「農作物の収穫量だけじゃない。税収も人口も増えている。耕作放棄された土地も減っているし、病気で亡くなる人間まで減っている」
「……皆さんのお力を借りただけです」
マリナは苦笑した。
「私は、領地のことを旦那様に任されましたから。役目を果たしているだけですわ」
「任された、か」
ルークが表情を厳しくした。
「……リュシオンは、領地へ戻ってくることはあるのか?」
「――もちろん――」
そう答えてから、マリナは言葉に詰まった。
結婚した当初はリュシオンも年に数度は領地に顔を見せていた。
けれど、ここ数年は――
「……この二年程は、お帰りになっていませんけれど……」
「二年も?」
「――レベッカ様のご容体がありますから」
「それは聞いているが……」
マリナは窓の外へ視線を移した。
レベッカの病気がなければ、そもそもマリナがリュシオンと結婚することもなかっただろう。
五年前まで、マリナは貴族ですらなかった。
父は王都近くの街で診療所を営む医師で、母はそこで薬を調合していた。
父は近くでは腕が立つと評判の名医で、患者は後を絶たなかった。
マリナも幼いころから両親の仕事を手伝い、薬草を刻み、包帯を巻き、患者の熱を測った。
大きくなってからは父について診察を学ぶようにもなった。
もっと広い診療所があれば。
もっと薬を揃えられれば。
金のない患者からも治療費を取らずに済むなら。
そんなことを家族で何度も話していたころ、診療所を訪ねてきたのがリュシオンだった。
『病院を作るつもりはないか』
初対面の挨拶もそこそこに、彼はそんなことを言った。
あまりに唐突で、父もマリナも呆気に取られたのを覚えている。
『土地はこちらで用意する。建物も建てる。必要な医療器具や薬についても、できる限りの費用を出そう』
『……なぜ、そこまでしてくださるのですか?』
父が尋ねると、リュシオンは少し黙った。
『妹が病気なんだ。《鋼心病》だ』
それが、レベッカのことを聞いた最初だった。
《鋼心病》――呼吸が苦しくなり、やがて死に至るとされる原因不明の病だった。
死後、患者の心臓から、本来人体には存在しない鋼のような硬い結晶が見つかることから、その名がついた。
『治療法がないと言われている。――だが、ないなら探せばいい』
リュシオンは真剣だった。
『妹だけを診てくれとは言わない。病院を作って、好きなだけ患者を診てくれていい。その代わり、《鋼心病》について研究してほしい』
その言葉を聞いたとき、マリナはリュシオンに好感を持った。
大切な家族を助けたいのだ。
そのためなら、自分の金も立場も惜しまない。
それは医療に携わってきたマリナにとって尊敬できる考え方だった。
父も申し出をありがたく受けた。
病院を建てるだけなら、侯爵家の金でできる。
けれど、《鋼心病》には治療法がない。研究が何年続くかも分からない。
マリナの一家に領地へ移り住んでもらい、侯爵家が長くその研究を支援していく。そんな話を進めていくうちに、持ち上がったのがマリナとリュシオンの縁談だった。
領主の妻の実家が領内の医療を担うのであれば、病院の整備にも継続的に予算をつけやすい。
随分と実務的な理由で決まった縁談だった。
――それでも、マリナに不満はなかった。
リュシオンは穏やかで家族思いの誠実な人間に思えた。
マリナは自分や家族の話に熱心に耳を傾けてくれる彼に、確かに好意を抱いていた。
恋をしていたわけではない。
それでも、リュシオンから話があると呼び出され、「僕と君が結婚してはどうだろうか」と提案されたときは、嬉しかった。
「もう少し改まって言ってほしいですわ」と微笑んだら、後日、リュシオンは大量の薔薇の花束を抱えて父と母に話をしに来た。その姿には、思わず笑ってしまったくらいだ。
……これから夫婦として暮らしていくうちに、少しずつ家族になっていければいい。
そんなふうに思っていた。
――まさか、結婚式すら中止になり、新婚の妻を領地に置いたまま、ほとんど帰ってこなくなるとは思っていなかったけれど。
「……どうかしたか?」
ルークの声で、マリナは我に返った。
「いいえ。昔のことを思い出していただけです」
「昔?」
「リュシオン様と結婚したころのことです」
その言葉を口にすると、もう一つの光景が浮かんだ。
五年前――結婚式の日のことだった。
◇◇◇
『マリナ様、とてもお綺麗です』
領地の教会にある控え室――その鏡の前で、マリナは白い花嫁衣装を身につけていた。
ドレスはリュシオンがせっかくだから好きな物を作ってくれと言ってくれたものだった。
ドレスを仕立屋に作ってもらうなどマリナは初めてだった。
リュシオンは式までずっと王都にいたので、ドレス姿を見せるのは初めてだった。
緊張はしていた。
けれど、それ以上に少し楽しみでもあった。
今日から自分はリュシオンの妻になる。
夫婦として暮らし、領地の病院を大きくしていく。
いつか《鋼心病》の治療法も見つけたい。
そうすればリュシオンも喜んでくれるだろう。
そんな未来を思い描いていたときだった。
廊下の向こうが急に騒がしくなった。
『リュシオン様!』
使者がリュシオンに駆け寄った。
『レベッカ様が発作を起こされました――』
マリナは立ち上がった。
直後、扉の向こうをリュシオンが駆けていく姿が見えた。
彼の血のつながらない妹のレベッカは、体調が優れず母親と王都の屋敷に残っていたはずだ。
『リュシオン様?』
呼び止めた。
彼は一度だけ足を止めた。
『すまない、マリナ』
リュシオンの顔から血の気が引いていた。
『式は、中止だ』
マリナは一瞬、何を言われたのか分からなかった。
『……中止、ですか?』
『レベッカのところへ行かなければ』
理屈は分かった。
《鋼心病》の発作は命に関わる。
それでも。
白い花嫁衣装を着たまま、マリナは自分でも驚くほど傷ついていた。
延期――ですらなく、中止。
その言葉に。
『今すぐ、行かなければならないのですか』
思わず尋ねてしまった。
リュシオンが目を見開く。
『……何が?』
『リュシオン様が、ずっとお側にいなくてはならないのでしょうか。お医者様もいらっしゃるのでしたら、容体が落ち着いたあと、式だけでも――』
言いながら、自分はなんて冷たいことを言っているのだろう、とマリナは思った。
病人と結婚式を比べるなんて。
案の定、リュシオンは眉を寄せた。
『レベッカに残された時間は多くないんだ』
マリナは黙った。
『君にはまだいくらでも時間があるだろう。あの子にはないんだよ』
――そう言われれば、何も言えなかった。
『……そうですわね』
マリナは頷いた。
『失礼なことを申し上げました。レベッカ様のお側にいて差し上げてください』
『ありがとう。君なら分かってくれると思っていた』
リュシオンはそう言って、去っていった。
白い花嫁衣装の裾を握りながら、マリナはその背中を見送った。
病人を優先するのは正しい。
命より大切な結婚式などない。
自分は健康なのだから、また別の日に式を挙げればいい。
――そう自分に言い聞かせた。
そして、それから五年が経った。
◇◇◇
「――明日も私の知人の家に泊まろう」
ルークの言葉にマリナは頷いた。
「――本当に、ありがたいです」
客人として滞在し、食事や寝床を用意してもらえる。
酒場での宴会の騒ぎ声が壁の隙間から聞こえてくることもない。
(――レベッカ様のところに急いでいるというのに、旅行でもしている気分だわ)
王都には苦しんでいるレベッカがいるのに、こんなことを考えてはいけないと、マリナは首を振った。




