第33話 エピローグ2 南部の領主宅にて
リュシオンは執務机に向かい、今年の収穫量をまとめた報告書に目を通していた。
王家に買い上げられた旧ロレンス領の北部とは違い、リュシオンの手元には王都に近い南側の僅かな土地が残された。
元あった領地の館は、病院の管理事務所としてマリナに引き継がれたので、リュシオンは 農民が暮らしていた古い家を買い取り、館として移住した。
隙間風を感じ、振り返ると、窓枠の歪みから風が吹き込んできていた。
「寒いな」
思わず苦笑し、上着を羽織る。
「明日、修理するか……」
独り言ちると、机に座って、書類を開いた。
「東の用水路も直さないといけないな……」
管理人が取りまとめてきた要望書と予算書を見ながら、呟いた。
要望書の一文に目が止まる。
『どうして南部は王領にならなかったのかと不満多数』
リュシオンは苦笑した。
マリナに領地運営を任せていた五年間の間に、領地内の暮らしは大幅に改善した。
リュシオンとマリナが離婚し、ロレンス領の大部分が王領になり、王領になった部分の管理は引き続きマリナを中心としたエヴァンス家が行うことになったという大ニュースは領民の間を駆け巡った。
王領になった部分の領民たちは喜び、自分に残された南部の領地の領民が「不運だ」と嘆いていることは、リュシオンの耳にも入っていた。
『――私は、あなたにこれ以上、失望したくないのです』
マリナに言われた言葉が頭の中に反復する。
リュシオンは左手を見つめた。
外した結婚指輪の跡が、じっと見ると、薬指にまだなんとなく残っている気がする。
それを見て、鼻の奥につんとした痛みを感じながら、呟いた。
「――せめて、残されたところは、できるだけ……」
これ以上、失望されないように。
それだけはやらねば、と机に向かい直した。
街道の整備に、冬になる前には、北の村の橋も補修しなければならない。
「……これを全て、彼女に投げていたんだな、僕は……」
思わず漏れた言葉に、リュシオンは苦笑した。
今の領地はかつてよりかなり狭い。
それでも毎日、何かを決めなければならなかった。
どこに金を使うのか。
何を今年やって、何を来年に回すのか。
誰に任せるのか。
何かを選べば、別の何かを諦めなければならない。
マリナは、これを五年間やっていた。
――もっと広い領地で。
そして、自分の帰りを待ちながら。
(――待っていてくれたんだ、当時は……)
コンコン、と扉が鳴った。
「どうぞ」
「旦那様。お荷物が届いております」
使用人が小さな木箱を抱えて入ってきた。
「僕に?」
「療養所のレベッカ様からです」
リュシオンは思わず立ち上がった。
「レベッカから?」
箱を受け取り、すぐに蓋を開ける。
中には小さな紙包みと、一通の手紙が入っていた。
紙包みを開くと、ふわりと甘い香りが漂う。
乾燥させた薔薇の花びらだった。
『お兄様へ。
こちらは元気にしています。
最近は午前中なら、杖を使って庭を一周できるようになりました。
療養所の花壇で育てた薔薇を使って、隣の病室のマリアンさんたちとローズティーを作りました。
お兄様にも少し送ります。
来月には、もう少し長く歩けるようになっていると思います。
お兄様もお身体に気をつけてください。
レベッカ』
リュシオンは何度も手紙を読み返した。
「……そうか」
口元が緩んだ。
「……元気にやっているのか」
胸の奥に、温かいものが広がる。
少し前までなら、すぐにでも様子を見に行きたいと思っただろう。
本当に苦しくないのか、無理をして歩いていないか。
食事は取れているのか、夜は眠れているのか。
自分の目で確かめなければ、安心できなかった。
けれど今は、手紙の向こうに、自分の知らないレベッカの生活がある。
マリアンというのは、確か隣の病室に入院していた二十代の女性だったはずだ。
いつの間に、一緒に茶を作るほど親しくなったのだろう。
一抹の寂しさを感じつつ、呟いた。
「――それで、いいんだよな」
リュシオンは小さく笑った。
レベッカには、レベッカの生活がある。
自分がいなくても、花を育て、一緒に茶を作る人がいる。
それはきっと、喜ぶべきことなのだ。
リュシオンは使用人に湯を頼んだ。
しばらくして運ばれてきた陶器のポットに、薔薇の花びらを入れる。
淡い香りが、狭い執務室に広がった。
一口飲んでみて、苦笑した。
「……薄いな」
おそらく、まだ作り方に慣れていないのだろう。
それでも二口目を飲んだ。
レベッカがこれを作れるほど元気になった。
それだけで十分だった。
カップを置く。
机の端には、まだ何枚もの書類が積まれている。
その中の一枚を手に取ったところで、リュシオンの手が止まった。
古い報告書だった。
王家への領地譲渡の際に、必要な資料として持ってきたものだ。
五年前の収穫量、井戸の数、診療所を利用した住民の数。
マリナの字で細かな書き込みが残っていた。
――東の村、井戸の水量が減少。春までに調査。
――診療所、薬草の在庫不足。母に相談。
――北側の農地、新しい農具を試験導入。
――来年度、用水路の延長を検討。
リュシオンは指先で、その文字をなぞった。
当時も、報告書は王都へ送られてきていた。
読んではいた。
収穫量が増え、死者も怪我人も減り、人口が増えた。
うまくいっている――だから安心していた。
――マリナに任せておけば大丈夫だ。
そう思っていた。
自分がいなくても、領地は問題なく回っていたから。
だから、任せていいのだと思った。
リュシオンは目を閉じた。
『君にはまだいくらでも時間があるだろう』
――結婚式の日に、自分が言った言葉を思い出す。
あのときは、本当にそう思っていた。
レベッカには時間がない。
マリナにはある。
だから今日でなくてもいい。
来月でも――来年でも。
レベッカの病気が落ち着いてからでも。
マリナは待っていてくれる。
目を開けると、しんとした隙間風の吹きこむ部屋に、自分だけが立っていた。
「……なかったんだな」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
「君にも、時間はなかった」
自分が王都でレベッカのそばにいたあいだ、マリナの時間だって同じように流れていた。
――分かっていなかった。
レベッカの残り時間ばかりを数えて、マリナの時間だけは、いつまでもそこにあるもののように思っていた。
リュシオンは椅子の背にもたれた。
狭い執務室を見回す。
今日はこのあと、一人で夕食を取る。
明日の朝になれば、また領民が相談に来る。
この部屋の窓枠の修理は早朝に自分でやってしまおう。
午後には橋の補修について、職人と話さなければならない。
――そんな毎日が、これからも続いていく。
もう、取り戻すことはできない。
自分にできるのは、残されたものを、今度こそきちんと引き受けていくことだけだった。
リュシオンは、レベッカから届いた手紙を丁寧に畳んだ。
そして、マリナの古い報告書も閉じる。
レベッカは快方に向かい、自分がそばにいなくても、自分の生活を築き始めている。
それでいい。
――心からそう思えるようになるには、まだ少し時間がかかりそうだった。
リュシオンは冷めかけたローズティーを一口飲んだ。
やはり少し薄かった。
リュシオンは部屋の寒さを紛らわせるためにもう一枚上着を羽織ると、一人机に向かった。




