第32話 エピローグ1 どこかで元気でやっていてくれれば
――一年後。
かつてロレンス領と呼ばれていた土地の一部は、王家直属の《鋼心病》療養地となっていた。
森の中を抜ける道はきれいに整備され、その先には新しい療養所が建っている。
以前の療養所は、農家だった建物を改修した小さなものだった。
今では病棟がいくつも並び、少し離れた場所には、患者の家族が長期間滞在するための住居も作られている。
病院も大きくなった。
その裏手には薬草園が広がり、森の中には患者が無理なく歩けるよう、緩やかな散歩道が作られている。
「マリナ様。西の病棟の井戸ですが、予定通り来週から工事に入ります」
「分かりました。ブラウンさんにも伝えておいてください」
「はい」
職員が頭を下げて去っていく。
マリナは手元の書類に一つ印をつけた。
エヴァンス家は王家から爵位を授けられ、この特別療養領の管理を任されている。
領地全体を取りまとめているのはマリナだった。
もっとも、以前とはずいぶん仕事の仕方が変わった。
農地や村の管理は、ブラウン夫妻を中心とする役人たちに任せている。
病院では、父のルシオが弟のレオンたち医師を取りまとめていた。
薬草園や薬剤の管理には、母のサナが携わっている。
王家との折衝や、新しい制度を作るときには、ルークにも相談する。
マリナが自分でするのは、それらをつなぎ、全体を見ることだ。
ついやりすぎてしまうことはまだあったが、そのたびにレオンから、
「姉さん、それ俺の仕事」
と書類を取り上げられた。
今では、ずいぶん慣れた。
――できるからといって、全部自分でやる必要はない。
ようやく、その意味が分かってきた気がする。
◇◇◇
「殿下。今日はここまでにしておきましょう」
父の声が聞こえて、マリナは足を止めた。
病院の庭を、一人の女性が侍女とともに歩いている。
王太子妃だった。
初めてここへ来たころは、少し歩いただけでも息を切らし、顔色を悪くしていた。
今では休憩を挟みながらではあるものの、自分の足で庭を一周できる。
「ずいぶんお元気になられましたね」
マリナが声をかけると、王太子妃が振り返った。
「ええ。昨日はあちらの薬草園まで歩けたのですよ」
「まあ。それは素晴らしいですわ」
「でも、ルシオ先生には歩きすぎだと叱られました」
王太子妃は微笑んだ。
その顔色は、一年前よりずっと良かった。
早い段階で原因となるものから離れることができたため、心臓への負担も徐々に減っている。
マリナは視線を落とした。
――今、助けられる患者がいるのは、これまでの患者たちから得たものがあったからだ。
――クララ。
虹彩ダイヤモンドを飲み込んだことで急激に悪化し、それが身体の中に鋼属性の精霊力を取り込む危険性を教えてくれた。
――鉱山で亡くなった鉱夫たち。
彼らの心臓にも、同じ鋼のような硬い結晶が形成されていた。
それ以前にも、原因が分からないまま亡くなった人々が大勢いたのだろう。
《鋼心病》は貴族の若い女性が罹る「美人病」とも呼ばれていた。
だが今では、そんな呼び名を耳にすることも少なくなった。
《鋼心病》は、鋼属性の精霊力を吸着しやすい体質の人間が、強い鋼属性に長期間曝露することで発症する。
まだ仮説の段階だ。
精霊力を吸着しやすい体質と、吸着しない体質の違いはなんなのか。
どの程度まで心臓に結晶が形成されると、元に戻らなくなるのか。
――できてしまった結晶を、治すことはできないのか。
分からないことは、まだ多い。
それでも、一年前とは違う。
虹彩ダイヤモンドそのものが禁止されることはなかった。
その代わり、鉱山では労働者の精霊力を定期的に検査するようになった。
鋼属性を強く吸着する者は、別の仕事へ移ることができる。
一日に坑道へ入る時間や、連続して働ける期間にも制限が設けられた。
宝石を販売する店では、虹彩ダイヤモンドを長期間身につけ続ける危険性を説明することが求められている。
病院では、《鋼心病》を疑う患者に対して、宝石の使用歴や仕事について尋ねるようになった。
父たち医師だけではない。
精霊力の測定を学術医療に取り入れ、これまで別々だった医学と精霊に関する知識を組み合わせる研究も始まっている。
もう少し早く、原因に気づいていれば。
――クララも助けられたのかもしれない。
いまだにベッドに横たわるクララの姿が瞼を過る。
そんな患者を、二度と出さないために。
マリナたちは研究を続けていた。
◇◇◇
病院から執務室へ戻る途中、マリナは散歩道の脇の花壇で見慣れた顔を見つけた。
レベッカと母親のエルシーだった。
レベッカは淡い生成り色の作業着を着て、麦わらの帽子を被っていた。
金色の髪は簡単にまとめられ、首にも耳にも宝石はない。
化粧もほとんどしていなかった。
王都の屋敷にいたときには、考えられない姿だった。
今のレベッカは、杖を手に花壇の間を行き来し、椅子に腰かけては薔薇の枯れた花びらを手で摘み取っていた。
「マリナ様!」
母親のエルシーがマリナに気づき、顔を上げた。
続けて、レベッカも顔を上げた。
「お義姉様――」
そこまで言って、口をつぐむ。
マリナとリュシオンの離婚は、すでに成立している。
レベッカは少し困った顔をしてから、
「……マリナ様」
と言い直した。
「こんにちは、レベッカ様」
「こんにちは」
会話はぎこちないが――これでいいのだと思う。
仲良くなりたいとは思わないが、レベッカが元気になっていく様子を見ると安心する。
マリナは花壇を見て、いつも患者たちにそうするように、柔らかく微笑んだ。
「綺麗な薔薇ですね」
レベッカとエルシーが手入れをしていた花壇には、見事な薔薇がいくつも咲いていた。
一年の療養を経て、レベッカは日中なら庭を散歩できるほどに回復していた。最近では花壇の手入れもしていると、父から聞いている。
「……ええ。とても綺麗に咲いて、嬉しいです」
「薔薇は手入れが大変ですからね。こんなに綺麗だと皆さん、喜んでくれそうですね」
マリナがそう言うと、レベッカは少し照れたように笑った。
エルシーがレベッカと花を見比べて言った。
「……今度、花を乾燥させて、ローズティーを作ってみようかと、隣の病室のマリアンさんたちとお話しているのです」
「……それは、素敵ですね」
マリナはリュシオンがいないことに気づき、首を傾げた。
今までレベッカを見かけるときは、たいていリュシオンも傍にいたのに。
「……リュシオン様は今日はご一緒ではないのですね」
「――お兄様は、領地のお屋敷にいます」
「ああ」とマリナは頷いた。
ロレンス領はすべて療養地になったわけではない。王都に近い南部の一角は残されている。
リュシオンはそちらに家を移したと聞いた。
「――お忙しそうですわ。マリナ様ほどではないでしょうけれど」
レベッカは小さく呟いた。
これまではマリナが領地を守っていたからこそ、リュシオンは長く領地を離れることができた。
だが今は、リュシオン自身が残された領地を治めなければならない。
それは、領主として当たり前のことだった。
「そうですか。無理しないようにとお伝えくださいね」
思わずそう返してから、マリナは(少し、嫌味だったかしら)と苦笑した。
エルシーとレベッカは気まずそうに笑ってから、マリナに聞いた。
「……マリアンさんたちとローズティーを作ったら、マリナ様も飲まれます?」
「ありがとうございます。楽しみにしていますね」
マリナは微笑むと、執務室に向かって戻っていった。
リュシオンもレベッカもどこかで元気でやっていてくれれば、もうそれでよかった。




