第31話 「領地は、私に任せてください」
「私……?」
「ああ」
ルークは当然のことのように頷いた。
「王家にも、そう報告してある」
「ですが、私は――」
侯爵夫人だから――そう言いかけて、マリナは口を閉じた。
もう、自分は侯爵夫人ではなくなる。
ルークは続けた。
「それに、《鋼心病》の治療を確立したのもエヴァンス家だ。ルシオ先生、サナ夫人、レオン。それから、あなた」
「……」
「王家は、買い上げた地域を王家直轄の特別療養領として整備するつもりだ。その管理を、新たに叙爵するエヴァンス家へ委ねたいと考えている」
マリナは目を見開いた。
「私たちに?」
「責任に見合った身分も必要になる。エヴァンス家を新たに貴族として叙爵する話も出ている」
「まあ……」
あまりにも大きな話だった。
医師である父が、貴族になる。
そして自分たち一家が、王家から土地を預かるということなのだから。
「当主はルシオ先生になる予定だ。だが、医療はともかく、領地経営まで先生に任せるつもりは王家にもない」
ルークがわずかに笑った。
「実際の管理責任者は、引き続きマリナ夫人に――というのが、王家の希望だ」
「私が……」
マリナはもう一度、地図へ目を落とした。
見慣れた土地だった。
五年前、何も分からないまま嫁いできた土地。
農民たちの話を聞き、井戸を掘り、診療所を作り、水路を直した。
収穫を増やすため、何度も畑へ足を運んだ。
――領民が減らないように。
病気で亡くなる人が少しでも減るように。
この土地を守ることが、自分の役目だと思ってきた。
それは、リュシオンの妻だから。ロレンス侯爵夫人だから。
けれど、これからは違う。
離婚すれば、自分はロレンス家の人間ではなくなる。
当然、この土地からも離れるのだと思っていた。
「……僕の領地だったんだ」
ぽつりと、リュシオンが言った。
マリナは顔を上げた。
リュシオンは地図を見つめていた。
王家から提示された買い上げ金額に、不満があるわけではないだろう。
侯爵位も残る。王都の屋敷も、本家の荘園も、他の所領も残る。
レベッカの療養にも困らない。
それでも――代々受け継いだ領地の主要部分が、ロレンス侯爵家の手から離れるのだ。
「……そうだな」
ルークが答えた。
「お前の領地だった」
リュシオンが顔を上げる。
ルークは静かに甥を見返した。
「だが、お前は五年間、ここで何をした?」
「……」
リュシオンが唇をつぐんだ。
「叔父上」
「……責めているわけじゃない。事実の話をしている」
ルークの口調は淡々としていた。
「お前がレベッカのそばにいることを選んだんだ。それ自体を、俺が責めるつもりはない」
「……」
「だが、その間に領主の仕事が消えてなくなったわけじゃない」
ルークが地図へ視線を落とす。
「お前が担うはずだった領主の仕事を実際に引き受けていたのは、マリナ夫人だ」
リュシオンは何も言わなかった。
マリナも黙っていた。
以前なら、夫を庇っていただろう。
――領主はリュシオン様で、私は侯爵夫人ですから、当然のことをしていたのです。
けれど――もう、その必要はなかった。
◇◇◇
「マリナ、お前はどうしたい?」
その日の夜、実家の食卓で、父のルシオがマリナに尋ねた。
「王家からの話だよ。私は医者だからね。爵位なんてものには、正直あまり興味がない」
「あなた」
母のサナが苦笑する。
「でも、王家が療養地を作ってくれるのはありがたいよ」
ルシオは続けた。
「今の施設では、受け入れられる患者の数に限界がある。資金も人手も足りない。王家が本気で整備するなら、助かる患者はずっと増える」
「俺も賛成」
レオンが手を挙げた。
「患者が増えるなら、医者も育てないといけないな」
弟はマリナを見つめた。
「けど、領地管理をぜんぶ姉さんがやるのは反対だ。せっかくだから、しばらくゆっくりしたら」
マリナは言葉に詰まってから、笑った。
「……私は、人に任せることを、覚えたのよ。レオン」
自分ならできるから。自分がやればいいから。
けれど、もうそれはやめようと思っている。
「医療のことは、お父様とレオンにお願いします。薬草や薬については、お母様に」
「任せてちょうだい」
サナが微笑んだ。
「領地の実務は、ブラウン夫妻にも引き続きお願いしたいと思っています。もちろん、人手は増やします」
「――それなら」
ルシオが頷いた。
「マリナは?」
「私は……」
マリナは少し考えた。
「皆さんが仕事をしやすいように、全体を見ます」
父が笑った。
「それが一番向いていそうだ」
「はい」
マリナも笑った。
自分で薬を作らなくてもいい。自分で患者を診なくてもいい。
自分で畑を回らなくてもいい。
できる人に任せて、その人たちをつなぐ。
――それもまた、自分にできる仕事なのだ。
「では、王家からの話を受けようか」
父が家族を見回して言った。
◇◇◇
――数日後。
マリナはリュシオンとともに、療養所の前に立っていた。
王家から派遣された者たちが、周囲の土地を調べている。
新しい病棟をどこに建てるのか。
患者の家族が滞在する建物をどうするのか。
薬草園をどこまで広げるのか。
――まだ何も決まってはいない。
それでも、この場所はこれから大きく変わっていくのだろう。
「レベッカは、数年はここで暮らすことになるそうだ」
リュシオンが言った。
「ええ」
「快方には向かっている。けれど……心臓への負担がなくなったわけじゃない。養父上……いや――」
リュシオンは一瞬黙ってから、言い直した。
「ルシオ先生にも、長く見た方がいいと言われた」
「……私もその方がよろしいかと思います」
マリナは頷いた。
レベッカはまだ若いのだから、焦る必要はない。
少しずつ身体を戻していけばいい。
「――僕はレベッカの傍で支えるよ」
リュシオンが言った。
その言葉を聞いて、マリナは目を細めた。
彼はずっとそうだった。
自分の夫だったときも、その前も、きっとこれからも。
そのために、父を訪ね、病院を建て、自分と結婚した彼を、マリナはかつて、好きだった。
「……そうですね」
マリナは頷いた。
「レベッカ様の療養に付き添って差し上げてください」
リュシオンがマリナを見る。
マリナは、その向こうに広がる土地へ目を向けた。
森の向こうに小川が流れている。
遠くには、畑が広がっている。
「領地のことは……」
リュシオンが言いかける。
マリナは真っ直ぐにリュシオンを見て微笑んだ。
「こちらの領地は、私に任せてください」




