第29話 あなたの愛を選んだのですから
リュシオンは離婚の申し出を聞いてもしばらく、何も言わなかった。
風が吹き、木々の葉が擦れる音だけが二人の間を通り過ぎていく。
「……なぜ?」
ようやく、リュシオンが口を開いた。
「今、お話ししたでしょう」
「――だって、レベッカは治るんだ」
リュシオンは困惑したように眉を寄せた。
「僕も領地へ戻る。今まで君に任せきりだった仕事もする。結婚式だって挙げる。これからは、君にばかり負担をかけない」
「……」
「君が望んでいた通りになるじゃないか」
マリナは目を伏せた。
(何も、分かってくれないのね)
「私が望んでいたのは、レベッカ様が治ったあとの、これからのあなたではありません」
リュシオンはごくりと唾を飲んだ。
「……私は、五年前から、あなたとずっと夫婦でいたかったのです」
マリナは淡々と言葉を続けた。
「毎日一緒にいなくてもよかった。王都へ行かなければならないことも、レベッカ様のそばにいたいことも理解していました。けれど、私もあなたの家族なのだと思えるくらいには、私のことも見てほしかった」
「僕は……」
「でも、そうではありませんでした」
マリナは静かに首を振った。
「あなたにとって私は、待たせてもよい相手だったのでしょう」
「そんなつもりじゃない」
「ええ。そんなつもりではなかったのでしょうね」
だからこそ、もういいのだ。
リュシオンはマリナを苦しめようとしたわけではない。
領地を押しつけて、妻を虐げようとしたわけでもない。
ただ、マリナなら大丈夫だと思った。
健康だから。仕事ができるから。一人でもやっていけるから。
だから、後回しにした。
――彼にとっては、それだけだったのだ。
「僕はこれから変わる」
リュシオンが言った。
「君に言われて、分かったんだ。僕は君に甘えていた。だから――」
「そのお気持ちはありがとうございます」
マリナは一礼した。
「でも、それを待つつもりはありません」
「マリナ」
「……もう、疲れました」
その言葉に、リュシオンが息を呑んだ。
マリナ自身も、口にして初めて気づいた。
怒っているのではない。
悲しいわけでもない。
ただ、この人の妻であり続けることに、疲れてしまったのだ。
「……叔父上のことが関係あるのか」
不意に、リュシオンが言った。
マリナは瞬きをした。
「何のことですか」
「叔父上だ」
リュシオンの声が低くなる。
「この前も王都で二人で食事をしていただろう。鉱山の調査にも一緒に行った。君は叔父上を頼りにしている」
「……はあ」
マリナは思わず、大きくため息をついて頭を抱えた。
リュシオンは本当に、何もわかっていない。
「ルーク様はいろいろと気を遣ってくださいました。とても助かりました。有難かったです。――それだけです」
正直に言えば、”それだけ”ではない。
ルークに助けられれば、助けられただけ、リュシオンは私に何をしてくれるのだろうという気持ちになった。
――本当は、夫であるリュシオンに支えてもらいたかった。
そうすれば、夫婦でいられたのに。
「だったら――」
「あなたは」
マリナはリュシオンの言葉を遮って、まっすぐ見つめた。
「あなたはずっと――私ではなくレベッカ様を選び続けたのに、私には嫉妬するのですね」
リュシオンの顔色が変わった。
「レベッカは妹だ!」
鋭い声が庭に響いた。
マリナは眉一つ動かさなかった。
「存じています」
「だったら、なぜレベッカのことを言うんだ。僕が妻として愛しているのは君だけ――」
「そういうことではありません。男女の愛か、兄妹の愛かを言っているのではないのです」
マリナは一度も、二人の間に男女の関係があると思ったことはない。
リュシオンがレベッカを見る目も、レベッカに触れる手も、兄が妹に向けるものだった。
「あなたは、妹としてレベッカ様を愛していらっしゃるのでしょう」
「……そうだ」
「それでいいのです」
マリナは穏やかに言った。
「愛には、いろいろな形がありますから」
男女だけではない。
親子でも、兄妹でも、友人でも。
大切な誰かのためなら、自分の時間も財産も惜しくないと思えることがある。
リュシオンにとって、それがレベッカだった。
――それだけだ。
「五年前の結婚式の日も」
マリナは続けた。
「あなたは私ではなく、レベッカ様を選びました」
「病気だったんだ。あのときは仕方が――」
「ええ。仕方がなかったのでしょう」
「だったら」
「そのあともです」
リュシオンが言葉を止めた。
「レベッカ様の具合が悪くなれば、あなたは王都へ戻った。領地とレベッカ様のどちらかを選ばなければならなければ、レベッカ様を選んだ。私とレベッカ様のどちらかに時間を使わなければならなければ、レベッカ様を選んだ」
「……」
「一度だけではありません」
五年の間に、何度も、何度も。
そのたびにマリナは、仕方がないと思った。
「それが、あなたの愛だったのでしょう」
リュシオンは何も言わなかった。
「あなたが愛する人を選んだことを、責めるつもりはありません」
「マリナ……」
「でも」
マリナは自分の胸に手を当てた。
「私の人生まで、そのために差し出し続ける義務はありません」
リュシオンの顔が歪んだ。
「僕は、そんなことを求めたつもりは……」
「求めていましたよ」
マリナは静かに言った。
「あなたは私に、待っていてほしかったのでしょう?」
「……」
「領地を守っていてほしかった。レベッカ様の治療法を探してほしかった。そしてレベッカ様が治ったら、今度は妻としてあなたを迎えてほしい」
返事はなかった。
「私は、あなたの望みに十分応えたと思います」
領地を守り、病気の原因を探した。
レベッカを救った。
「ですから、もう十分でしょう」
マリナは微笑んだ。
「私ではなく、あなたの愛を選んだのですから。お二人で幸せに生きてください」
「――待ってくれ」
「レベッカ様には、これから長い療養が必要です。傍にいて差し上げてください」
「そういう意味じゃない!」
リュシオンがマリナへ手を伸ばす。
けれど、その手は途中で止まった。
触れていいのか、分からなかったのだろう。
マリナはその手を見てから、夫の顔へ視線を戻した。
「僕は君を選ばなかったわけじゃない」
「では、いつ選んでくださったのですか?」
リュシオンが固まった。
マリナは待った。
けれどリュシオンの口から、言葉は出てこなかった。
「……ほら」
「違う。僕は……君なら分かってくれると思っていた」
「ええ」
マリナは頷いた。
「分かろうとしましたよ」
母親を亡くし、同じ病で妹まで失うことを恐れていたリュシオンのことをずっと理解しようとしてきた。
「だから、五年間待ちました」
「……」
「もう十分です」
リュシオンは俯いた。
「僕と別れて、君は、どうするんだ? 領地を出るのか? 病院はどうする?」
マリナはリュシオンを見つめた。
「リュシオン様――あなたは、私と離婚したからといって、病院への資金を打ち切るような方ではないですよね。レベッカ様の治療は途中です。――それに、他の患者様も治療を待っています」
リュシオンは、小さく呟いた。
「……そんなことは、しない。するわけがないだろう」
「ええ」とマリナは柔らかく微笑んだ。
「――あなたがそういう方だということは、わかっております」
リュシオンはレベッカを助けたいという熱意をもって病院を作った。
それは同時に他の人々を助けることにもつながった。
彼に尊敬できる善意があるのは確かなことで、――だからこそ、マリナも、できることなら、リュシオンと夫婦として幸せになりたかった。
(けれど、私はもう、これ以上、自分の時間をあなたにあげたいとは思わない)
「――私は、あなたにこれ以上、失望したくないのです。……ですから」
マリナはリュシオンを見据えた。
「別れましょう」
「マリナ……」
リュシオンは唇を噛んで、俯いた。
マリナは一歩踏み出した。
「――今後の話は、ゆっくりとしましょう」
マリナはリュシオンの横を通り過ぎ、病院へと戻っていった。




