第27話 綺麗に死ぬことなんて
マリナが先にロレンス領へ戻ってから、数日後。
レベッカはリュシオンとエルシーとともに、療養所へやってきた。
「ここが……療養所?」
馬車から降りたレベッカは、マリナが用意した療養所の車椅子に座り周囲を見回した。
「ええ。まだ試験的に始めたばかりですけれど」
マリナは周囲を見回した。
療養所として使っているのは、森と小川に囲まれた古い農家だった。
建物そのものは大きくない。王都のロレンス家の屋敷と比べれば、ずいぶん質素だ。
けれど窓は大きく開けられ、秋の風が室内を通り抜けている。
金属製の家具はできるだけ取り除き、寝台や椅子は木製のものを使っていた。食器も陶器で揃えている。
「現在、こちらで四人の方に療養していただいています」
「そのうち三人が、良くなっている方なのね?」
「はい」
マリナはまず、一階の部屋へ三人を案内した。
一人の女性は、窓辺の椅子に座って刺繍をしていた。
以前は少し歩くだけで息を切らしていたが、今では一日のうち何度か、自分の足で庭まで出られるという。
別の部屋では、年配の女性が窓を開けて本を読んでいた。
窓の向こうには小さな花壇がある。
「今日は外へ出ないのですか?」
マリナが尋ねると、女性は笑った。
「午前中に一度出ましたよ。久しぶりに歩いたら、少し疲れてしまって」
「そうですか。午後はゆっくり休んでくださいね」
そのやり取りを、レベッカは黙って見ていた。
「……普通なのね」
部屋を出たところで、レベッカがぽつりと言った。
「もっと……ずっと寝ているのかと思っていました」
「症状が改善してきた方には、体調を見ながら少しずつ身体を動かしてもらっています」
「刺繍もしていたわ」
「ええ」
「本を読んだりも……」
「好きなことをして過ごしていただいています」
レベッカは何も言わなかった。
けれど先ほどまでより、レベッカの表情が和らいでいる気がした。
療養する――その言葉から想像していたものより、ずっと穏やかな生活だったのだろう。
「庭も見ますか?」
「……ええ」
マリナは車椅子を押すリュシオンに「こっちです」と方向を示し、四人で庭へ出た。
小川から引いた細い水路のそばに、季節の花が植えられている。
風が木々の枝を揺らす。
その音に混じって、かすかに、人の声が聞こえた。
一定の調子で、同じ言葉を繰り返している。
「……何かしら」
レベッカが顔を上げた。
庭の奥に、小さな離れがあった。
療養所を作った際、症状の重い患者を静かな環境で診るために整えた建物だ。
入口に白い神官服をまとった者が数人いる。
「司祭様?」
エルシーが呟く。
マリナは足を止めた。
「……ええ」
「どうして司祭様が?」
レベッカが尋ねる。
マリナはすぐには答えなかった。
離れの中にいるのは、クララだった。
ほかの三人と同じ治療を始めたものの、クララの心臓は既に限界だった。
虹彩ダイヤモンドを飲み込んだことで一気に悪化した身体は、宝石が排出されても元には戻らなかった。
もう、治療によって回復させることはできない。
今はただ、できるだけ苦痛を減らして過ごしてもらっている。
「向こうは見なくて構いません」
マリナは言った。
「症状の重い方が休んでいますから」
「……重い方」
レベッカの顔が強張った。
リュシオンも察したらしい。
「レベッカ。戻ろう」
車椅子の向きを変えようとする。
そのときだった。
離れの扉が勢いよく開いた。
「マリナ様!」
一人の女性が飛び出してきた。
「クララさんのお母様?」
「クララが……クララが苦しみだして……!」
クララの母親は青ざめた顔で、マリナの腕に縋った。
――直後。
「う……、あ……あ」
建物の中から、屋外にまで響く低い呻き声が聞こえた。
続けて激しく咳き込む音。
「クララ!」
母親が振り返る。
「レオンを呼んできます!」
マリナはレベッカ達を置いて、医務室まで走った。
「レオン!」
扉を開けると、机に向かっていた弟が顔を上げた。
「姉さん?」
「クララさんの鎮静が切れたみたいなの。すごく苦しんでいるわ」
レオンはすぐに立ち上がった。
薬箱を掴むと、速足で部屋を出た。
「行こう」
二人で離れへ戻った。
病室では、クララが寝台の上で身体を丸めていた。
「うっ……げほっ……げほっ……!」
胸元を掴み、必死に息を吸おうとしている。
けれど、呼吸は浅く速い。
唇にはほとんど色がなかった。
「クララさん、今、薬を使うからね」
レオンが寝台へ駆け寄る。
「くる……し……」
「分かってる。すぐ楽になるから」
レオンは薬箱から小瓶を取り出した。
鎮静の作用がある麻痺薬だ。
クララの身体を支え、少しずつ口へ流し込む。
「ゆっくり飲んで」
「う……っ」
クララが喉元を押さえる。
苦しそうに身体をよじった。
「クララ!」
母親が寝台のそばで娘の手を握る。
「お母さん、ここにいるからね。大丈夫よ。ここにいるから……」
司祭の祈りの声が大きくなった。
一定の調子で、何度も祈りの言葉を繰り返す。
やがて――クララの身体から少しずつ力が抜けていった。
荒かった呼吸が、ゆっくりになる。
胸元を掴んでいた手が落ちた。
「……眠った」
レオンが呟く。
母親が娘の手を握ったまま、泣きながら何度も頷いた。
「ありがとうございます……ありがとうございます……」
「薬が効いているだけです。また苦しそうにしたら、すぐに呼んでください」
「はい……」
マリナは息を吐いた。
そこでようやく、開いたままの扉の向こうに人がいることに気づいた。
レベッカだった。
「……」
リュシオンが車椅子の後ろに立っている。
その隣にはエルシーもいた。
リュシオンは妹をここから離そうとしたのだろう。
けれどレベッカが拒んだらしい。
レベッカは青い瞳を大きく見開いたまま、寝台の上のクララを見つめていた。
◇◇◇
その日の夕方。
ロレンス家の屋敷へ戻ってからも、レベッカはほとんど口を開かなかった。
夕食にも手をつけない。
リュシオンとエルシーが何度か声をかけても、首を振るだけだった。
マリナが帰ろうとしたとき。
「……お義姉様」
レベッカが呼び止めた。
「はい」
「少しだけ、お話ししても?」
マリナは頷いた。
二人は窓辺の椅子に向かい合って座った。
レベッカはしばらく自分の指先を見ていた。
「……あの方――中庭の、奥の部屋の……」
沈んだ声に、マリナは頷いた。
「クララさんですか?」
「ええ」
レベッカは頷いた。
「……おいくつなの?」
「二十五歳です」
「……お義姉様と同じ」
マリナは視線を落として、「ええ」と頷いた。
「ずっと、あんなふうに苦しいの?」
マリナは首を振った。
「今は薬で苦痛を和らげています。眠っている時間も長くなっています」
「でも、薬が切れたら?」
「……今日のようになることがあります」
レベッカの顔が青ざめた。
「治らないの?」
「――クララさんは、もう難しいと思います」
「どうして? ほかの三人は良くなっていたでしょう?」
「治療を始めるのが、遅すぎたのです」
マリナは静かに答えた。
「心臓にできた結晶そのものは、今の治療では消せません。クララさんは病気が進みすぎていて、心臓がもう十分に働けない状態です」
マリナは眉間に皺を寄せて、拳を握った。
「だから、もっと早く原因に気づいていればと、私も何度も思いました」
レベッカは俯いた。
――しばらくして。
「……わたくしも」
レベッカは声を震わせた。
「わたくしも、ああなるの?」
マリナは答えを濁さなかった。
「――治療を受けなければ、その可能性は高いわ」
レベッカの唇が震えた。
「……嫌」
小さな声だった。
マリナはレベッカの言葉を、黙って待った。
「本では……」
レベッカがぽつりと言った。
「眠るみたいだったの」
「……ええ」
「愛する人に抱かれて、少しだけ微笑んで……そのまま目を閉じて」
涙が頬を伝う。
「綺麗だったのに」
マリナはレベッカを見つめて、呟いた。
「――物語のように綺麗に死ぬことなんて、できないのです。……この病気は」
レベッカが顔を上げた。
病が進めば、息ができなくなり、食べることも、眠ることも難しくなる。
やがては自分の身体を起こすことさえできなくなる。
それでも身体は、生きようとする。
レベッカの目から、次々に涙が落ちる。
マリナは静かに尋ねた。
「それでも、レベッカ様は、街へお戻りになりますか?」
レベッカの唇が震えた。
「……怖いわ」
掠れた声が漏れた。
「死ぬのが……怖い」
レベッカは両手で顔を覆った。
「わたくし、本当はずっと怖かった……」
嗚咽が漏れる。
「でも、治らないって言われたから……怖いって言ったって、どうにもならないから……」
マリナは何も言わず、その言葉を聞いた。
「だから、綺麗に死ねるって思いたかったの。お兄様がずっと覚えていてくださるなら、それでいいって……そう思わないと……」
言葉が涙に途切れる。
「でも……嫌……嫌よお」
レベッカが顔を上げた。
涙で濡れた青い瞳が、マリナを見る。
「苦しいのなんて嫌ぁ……まだ、死にたくない……」
マリナは手を伸ばした。
レベッカの手を取る。
細く、冷たい手だった。
「ええ」
マリナはレベッカの手を両手でしっかりと握った。
「ようやく治療法が見つかりました。……あなたは、まだ間に合うはずです」
レベッカはマリナの手を握り返すと、うな垂れた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
レベッカは泣きながら、何度も頷いた。
――翌日の夕方、クララは空へ旅立った。
マリナは家族と共に葬儀に参列した。
療養所の中庭で他の入院患者と育てていた花を、両手いっぱいに抱え、それを棺へと入れた。
墓地にすすり泣きが響く。
――もう、この病気で誰も泣かなくていい日が来ますように。
マリナはきつく目を閉じ、手を組んで祈った。




