第26話 静かな夜
「レベッカ様」
マリナは静かに呼んだ。
「はい……」
「一度、療養所へ来てみませんか?」
レベッカが顔を上げた。
「治療を受けるためではありません」
「……違うのですか?」
「ええ。今すぐ決めなくて構いません」
マリナは少しだけ表情を和らげた。
「《鋼心病》の患者さんたちが、どのような場所で、どのように療養しているのか。それを一度、ご自分の目で見てください」
「見るだけ……?」
「はい」
レベッカの表情が少し緩んだ。
「知らない場所へ行くのが怖いのでしょう?」
「……ええ」
「なら、まず知ってから決めればいいのです」
レベッカはしばらく考えていた。
やがて、小さな声で呟いた。
「……見るだけなら」
「ええ」
「行ってみます」
マリナは頷いた。
「分かりました」
その言葉を聞いて、壁際から小さく息を吐く音がした。
マリナはそちらを見て、少しからかう様に言った。
「……壁ではなかったのですか?」
「……壁にも呼吸くらいはさせてくれ」
ルークは頭を掻いた。
レベッカが、ほんの少しだけ笑った。
◇◇◇
リュシオンとエルシーを客間へ呼び戻すと、マリナは二人に説明した。
「まず一度、療養所を見ていただくことになりました」
「レベッカ!」
エルシーの顔が明るくなる。
「治療を受けるの?」
「まだ決めていませんわ」
「そうか……」
リュシオンは一瞬残念そうな顔をしたが、すぐに頷いた。
「いや、それでいい。まず行ってみよう」
「ええ」
「僕も一緒に行くから」
レベッカは小さく頷いた。
ひとまず話がまとまったところで、ルークが立ち上がった。
「では、俺も本来の用事を済ませたい」
「鉱山のお話ですね」
「ああ。ただ――」
ルークはマリナの顔を見る。
「少し外へ出ないか」
「外へ?」
「食事をしながら話そう。俺もまだ昼を食べていない」
そう言われて初めて、マリナは自分も朝からほとんど何も口にしていないことに気づいた。
「……そういえば、私もです」
「なら決まりだ」
マリナはリュシオンを見た。
リュシオンは「行っておいで」と言ったきり、何も言わなかった。
◇◇◇
ルークが案内したのは、王宮から少し離れた通りにある小さな料理店だった。
貴族向けではあるが堅苦しさはなく、昼を少し過ぎていたため、店内も静かだった。
温かいスープを一口飲んだ途端、マリナは思わず息を吐いた。
「……おいしい」
「それはよかった」
向かいに座ったルークが笑う。
「朝から食べていなかったのか?」
「馬車の中で少しだけ」
「それは食事とは言わないな」
「ルーク様は、そういうところに厳しいのですね」
「倒れられると困る」
「お仕事に差し支えるからですか?」
「それもある」
ルークはそれ以上言わず、パンをちぎった。
食事をしながら、二人は鉱山について話した。
王宮ではすでに、マーシャル辺境伯領の鉱山について追加の調査を検討していること。
亡くなった鉱夫だけでなく、現在働いている者にも水晶による検査を行いたいこと。
鉱山以外にも、虹彩ダイヤモンドの加工に携わる職人や流通業者の記録を調べる必要があること。
「王宮としても、放置はできないということですか」
「ああ。貴族の娘だけの病なら、各家の問題として扱われていたかもしれない。だが鉱山労働者にも同じ病気が出ているとなれば、話が変わる」
ルークは言った。
「採掘の方法や労働環境の問題にもなる。虹彩ダイヤモンドは王都にも相当な金を落としているからな」
「……そうですね」
「あなたたちの治療結果も、正式に記録しておいてほしい」
「もちろんです」
一通り話し終えたところで、ルークは水を飲んだ。
「ところで」
「はい」
「今夜は、あの屋敷に泊まるつもりか?」
マリナは瞬いた。
「……もちろん、そのつもりです」
「やめた方がいい」
ルークは「とんでもない」というように即答した。
「……なぜですか?」
「今日のあなたを見たからだ」
マリナは黙った。
「別に、怒ったことを責めているわけじゃない」
ルークは続ける。
「むしろ、よく今まで怒らなかったものだと思っている」
「……」
「しかし、あの屋敷に戻れば、またレベッカ嬢の様子が気になるだろう。リュシオンもあなたに話をしたがるかもしれない。エルシー夫人も悪気なく相談してくる」
否定できなかった。
「今夜くらい、誰のことも考えずに寝たらどうだ」
「でも、急に宿を取るのは――」
「王宮近くに、役人や地方貴族が使うホテルがある。広い湯舟があってな、いい宿だ。いつも知人が王都に来るときは、俺が部屋を手配をしているんだ。あなたがゆっくりできるよう、話をしておこう」
「……そこまでしていただかなくても」
「できるからといって、全部あなたがやる必要はない」
マリナは目を見開いた。
それは、以前にも聞いた言葉だった。
ルークは何でもないことのように料理へ視線を戻している。
「……では」
マリナは少し迷ってから言った。
確かに、今日はもう疲れ切ってしまっていた。
リュシオンとも、レベッカとも、今日はこれ以上話をしたい気分ではなかった。
「お言葉に甘えて――お願いしても、よろしいでしょうか」
ルークが顔を上げた。
「ああ」
「ありがとうございます」
そう答えると、不思議なくらい肩が軽くなった。
◇◇◇
ロレンス家の屋敷へ戻ると、マリナはリュシオンに今夜のことを伝えた。
「ホテルに?」
「はい。ルーク様が王宮近くの宿を手配してくださいました」
リュシオンの眉がわずかに動いた。
「叔父上が?」
「ええ」
マリナは苦笑して付け加える。
「もちろん、私が泊まる部屋をとってくださっただけですよ。――ゆっくりできるようにと」
「……屋敷でゆっくりしてくれれば……」
マリナは淡々と答えた。
「――今日の今日ですから。私がこの屋敷にいると、レベッカ様も落ち着かないかもしれません」
リュシオンは何か言いかけた。
けれど、今日の出来事を思い出したのだろう。
やがて視線を逸らした。
「――そうか。――ゆっくり泊まってきてくれ」
「ええ」
夫の屋敷へ来て、別の宿に泊まるなど考えもしなかっただろう。
夫から「その方がいい」と言われれば、少しは傷ついたかもしれない。
けれど今は、何も感じなかった。
「では、明日の朝、また参ります」
「ああ」
マリナは荷物をまとめ、屋敷を出た。
◇◇◇
ルークが手配してくれたホテルは、思っていたよりずっと静かだった。
部屋は広くないが、清潔な寝台があり、湯も用意されている。
夕暮れの王都を眺めながら湯に浸かり、寝間着に着替える。
誰かの薬を用意する必要もない。
領地の帳簿を確認する必要もない。
レベッカの呼吸を気にする必要もない。
寝台へ横になると、静かだった。
「……こんなに静かなのは、いつ以来かしら……」
自分の声だけが聞こえた。
マリナは目を閉じた。
思い出したのは、リュシオンではなかった。
『今夜くらい、誰のことも考えずに寝たらどうだ』
『できるからといって、全部あなたがやる必要はない』
「……ありがとうございます、ルーク様」
誰もいない部屋で、小さく呟いた。
その夜、マリナは久しぶりに、朝まで一度も目を覚まさずに眠った。




