第25話 治りたくない妹
「治療は、受けたくありません」というレベッカの言葉に、客間が静まり返った。
最初に口を開いたのはリュシオンだった。
「……何を言っているんだ?」
リュシオンは理解できないという顔で、妹を見つめた。
「治るかもしれないんだぞ。ずっと探していた治療法が、ようやく見つかったんだ」
「分かっていますわ」
「だったら――」
「怖いのです」
レベッカが俯いた。
「知らない場所へ行くのでしょう? 森と川しかないような場所で、宝石もつけられず、どのくらい続くかも分からない療養生活をするなんて……」
「僕も一緒に行くと言っただろう」
「――それでも、嫌なのです」
「レベッカ」
エルシーが娘の手を握る。
「今までだって、治りたいと言っていたでしょう?」
「……」
「あなたが元気になるなら、お母様だって何でもするわ。だから――」
マリナは拳を握った。
(私のやるべきこと――私は、レベッカ様に入院してもらうために来たのだったわ)
脳裏にクララの姿が浮かぶ。
もう起き上がることさえできない彼女は、こちらに来る前に、療養所の奥に作った、看取りのための部屋に移した。
命が尽きるまで、苦痛を和らげる薬を使い、穏やかに眠れるようにしている。
そして教会から司祭を呼び、安らかに死者の国へ旅立てるよう、祈りの言葉を捧げてもらっている。
(まだ間に合う人がいるのなら――間に合わせたい。それが、誰であれ……)
レベッカは何故、治療法が見つかったというのに、拒否するのだろうか。
(ただ、強く入院しろと言うだけでは――、駄目だわ)
マリナは口を挟んだ。
「……少し、よろしいでしょうか」
三人の視線が集まる。
マリナはレベッカを見つめた。
「……レベッカ様と、二人でお話しさせてください」
「二人で?」
リュシオンの表情が強張った。
先ほどマリナが本を投げ、声を荒らげたところを見たばかりだ。
エルシーも不安そうに娘を見る。
「マリナ。今はレベッカも動揺している。二人きりというのは……」
「俺が同席しよう」
ルークが言った。
「叔父上?」
「俺は壁際に立っている」
そう言って、本当に壁際を指す。
「話には口を挟まない。壁だと思ってくれ」
「ルーク様を壁だと思うのは、少し難しいですけれど……」
思わずマリナが言うと、ルークは肩をすくめた。
「努力する」
マリナは口元がほんの少し緩むのを感じた。
(大丈夫、今度は冷静に話せるわ)
――それからレベッカを見つめた。
「いかがでしょうか」
レベッカはしばらく迷っていたが、やがて小さく頷いた。
「……分かりましたわ」
◇◇◇
リュシオンとエルシーが客間を出ていった。
約束どおり、ルークは窓から離れた壁際に立った。
こちらへ視線を向けるでもなく、本当に会話に入るつもりはないらしい。
マリナはレベッカの向かいに座った。
「先ほどは、本を投げてしまって申し訳ありませんでした」
「……もう、よろしいですわ」
少し間を置いて、マリナはゆっくりとレベッカに問いかけた。
「レベッカ様。先ほど、知らない場所で療養するのが怖いとおっしゃいましたね」
「ええ」
「それだけですか?」
レベッカの指先が動いた。
「……どういう意味でしょう」
「リュシオン様も一緒に行くとおっしゃいました。エルシー様も、できる限りそばにいると。それでも、治療を受けたくないとおっしゃったからです」
「……」
「何が、一番怖いのですか?」
レベッカは答えなかった。
マリナも急かさない。
やがて、レベッカがぽつりと言った。
「……治ってしまったら」
「はい」
「治ってしまったら、お兄様はわたくしを一番にしてくださらなくなるでしょう?」
マリナは一瞬、言葉を失った。
「それが、治療を受けたくない理由ですか?」
「……分かりません」
レベッカは膝の上で両手を握りしめた。
「でも、怖いのです」
「何が?」
「だから……」
苛立ったように声を強めてから、レベッカは唇を噛んだ。
「治ったあとのことなんて、考えたことがないのです」
マリナは黙って続きを待った。
「わたくし、本当のお父様を三歳で亡くしました」
「ええ」
「ほとんど覚えておりません。お母様と二人で暮らして……八歳のとき、お母様が再婚しました」
そのとき初めて会ったのが、十六歳のリュシオンだった。
「優しかったのです」
レベッカの声が少しだけ柔らかくなる。
「遊んでくださって、本を読んでくださって。刺繍だって、わたくしが一人ではつまらないと言ったら、一緒に覚えてくださったの」
マリナは目を細めて「ええ」と頷いた。
リュシオンは刺繍ができる。
結婚したばかりの頃、病気で外出できない妹と、部屋で刺繍をして過ごすこともあったと聞いた。
少しからかうように「見せてください」と言ったら、「下手だよ」と照れながらマリナのハンカチに花の刺繍をしてくれた。自分より上手で驚いた記憶がある。
――そのときは、そんな彼とこれから一緒に家庭を作っていけるのは素敵なことだと思っていた。
「……わたくしは、ずっと、お兄様が好きでした」
レベッカはそう言ってから、自分の言葉に気づいたように顔を伏せた。
「……十四歳のとき、《鋼心病》だと言われました」
夜会へ出ることも難しくなった。
遠出もできない。
同じ年頃の令嬢たちが社交界へ出て、恋をして、婚約していく。
レベッカだけが、屋敷に残った。
「最初は、治りたいと思っていました」
「……はい」
「夜会にも行きたかった。綺麗なドレスを着て、踊ってみたかった。わたくしだって……」
そこでレベッカは言葉を止めた。
「恋をしてみたかった?」
マリナが補う。
レベッカは少しだけ眉を寄せたが、否定はしなかった。
「でも、治らないと言われました。治療法はない、長くは生きられないと」
レベッカは息を吐いた。
「だから、考えないようにしたのです」
「何を?」
「そういうこと全部です」
レベッカは少し苛立ったように答えた。
「できないことを考えても、つらいだけでしょう?」
「……そうですね」
「その代わりに、お兄様はずっとそばにいてくださいました」
苦しくなれば駆けつける。
夜中でも手を握る。
欲しいものがあれば用意する。
行けない場所が増えるたびに、リュシオンは外の世界を屋敷の中に持ってきた。
「わたくしが苦しいと言えば、お兄様は何よりわたくしを優先してくださった」
マリナは何も言わなかった。
「だから……」
レベッカがためらう。
「それでいいと思うようになったのです」
「それでいい?」
「どうせ長く生きられないなら」
レベッカの視線が、自分の胸元へ落ちた。
「せめて、お兄様にはずっと覚えていてほしい」
マリナは床に投げた本を思い出した。
美しい令嬢が、愛する男性の腕の中で息を引き取る物語。
「だから、あの本のように?」
レベッカの肩がわずかに揺れる。
「……だって」
しばらくして、小さな声が返ってきた。
「どうせ死ぬなら、お兄様にずっと覚えていてほしいの」
その言葉は、先ほどまでよりずっと幼く聞こえた。
「お兄様の中では、ずっと今のわたくしのまま、生きていられる」
マリナはようやく理解した。
レベッカは、死を恐れていないわけではない。
死ぬことを、美しい物語の結末に変えようとしている。
そうしなければ、十四歳から少しずつ近づいてくる死を見つめ続けることなど、できなかったのだろう。
――しばらくの沈黙の後、レベッカは何度か口を動かして、それからマリナを見つめて呟いた。
「お兄様のお母様の、形見のネックレス……」
「……はい」
また沈黙が訪れた。
マリナはレベッカの言葉を待った。
レベッカは唇を震わせ、小さな声で言った。
「……わたくしは、確かに、お姉様に、見せつけたかったのかもしれません」
声が震えている。
「……そうですか」
マリナは静かな声で頷くと、レベッカを見つめた。
レベッカの顔が赤くなる。
「だって、お義姉様が来ると、お兄様はお義姉様の夫になるでしょう?」
「……リュシオン様は、私の夫ですよ」
「……そういうことを言っているのではありません!」
レベッカが顔を上げた。
怒る気力があるようだ。
――その様子にマリナは、苛立ちではなく、安堵するのを感じた。
クララと違って、まだレベッカは間に合う。
「普段はずっと、わたくしのそばにいるのです。それなのに、お義姉様が来ると、お兄様は急にお義姉様の『夫』の顔になってしまう」
「……そうは思いませんけれど」
マリナは苦笑した。
マリナ自身は一度だってそう思ったことはない。
リュシオンは常にレベッカを優先して、マリナの方へ注意を向けることはほとんどなかったというのに。
「そうなのです!」
そこまで言ってから、レベッカはまた俯いた。
「だから……」
声が小さくなる。
「わたくしの方が大切にされていると、思いたかったの」
マリナは何も言わなかった。
「……お義姉様に、嫌なことをしてしまったと、思っています」
それは謝罪というには、ずいぶん不器用な言葉だった。
「でも」
レベッカはドレスの裾を強く握った。
「わたくしには、お兄様しかいないもの」
――ああ。
マリナはようやく、目の前の女性を少し違う形で見ることができた。
二十歳の女性――けれど、その一部は十四歳から先へ進めずにいる。
病気になり、夜会も恋も将来も失った少女。
周囲から「長くは生きられない」と言われ続け、自分を何より優先してくれる兄だけを、世界の中心にしてしまった。
だから兄が妻を迎えれば、その妻に勝ちたがる。
病気が治ると言われれば、喜ぶより先に怖くなる。
――病気でなくなった自分が、どうやって生きればいいのか分からないのだ。




