第14話 混濁する意識
翌日の昼過ぎ――マリナは屋敷の執務室で、ブラウン夫人から受け取った帳簿を確認していた。
数字を追っていても、ふとクララのことを考えてしまう。
半年前より薄くなっていた鋼色が、わずか数日で急激に濃くなった。
(何が変わったのかしら)
食事、薬、病室。
どれも変わっていない。
――ならば、クララ自身に何か変化があったのだろうか。
考え込んでいると、扉が叩かれた。
「奥様。病院から使いの方が」
マリナは顔を上げた。
「通して」
入ってきたのは、病院で働く若い看護人だった。
「マリナ様。ルシオ先生から、すぐ病院へ来ていただきたいと」
「……クララさんに何か?」
「はい。それと……」
看護人が困った顔をする。
「クララさんのお着替えを手伝っていた者が、衣服の中にネックレスを見つけたそうで」
マリナは立ち上がった。
「ネックレス?」
「虹色の石がついた、銀の花の――。先生が、マリナ様がお探しのものではないかと」
◇◇◇
クララの病室には、病状の悪化を聞いたクララの両親も来ていた。
父親はベッドのそばで娘の手を握り、母親は泣き腫らした目で椅子に座っている。
クララは意識を取り戻していた。
ただ、焦点の定まらない目で天井を見つめている。
「クララさん」
マリナが声をかけても、反応はない。
「マリナ、これを見て」
ベッド脇にいた母のサナが、クララの手元を指差した。
クララは血の気のない白い手のひらに、何か煌めくものを握っていた。
――ネックレス。
銀の花の中央で、虹色の石が光っている。
間違いない。
「……私のものです」
マリナは頷いた。
クララの父親が青ざめた。
「申し訳ございません、マリナ様! 娘がまさか――」
「いいえ、落としてしまったのを、拾ってくださっていたのでしょう」
マリナはその言葉を遮った。
「――私が場違いなものを、病院につけてきたのがいけなかったのです」
「クララ」
クララの母親がベッドへ近づいた。
「これはマリナ様のものよ。返しましょうね」
ネックレスを握りしめたクララの手を開こうとした。
――その瞬間だった。
ぼんやりしていたクララの目が、大きく見開かれた。
「……だめ」
「クララ?」
「だめよ!」
クララは大声で叫んで、立ち上がろうとした。
「それはわたしのよ!」
「クララ!」
クララの母親と父親が娘の身体を抑え込む。
「ヴィンセントがわたしにくれたのよ! かえしなさい!」
クララが伸ばした手が、クララの母親が持っていたネックレスをつかむ。
レオンが慌ててクララの顔を見つめて話しかけた。
「クララさん。落ち着いて。これは違う。君が持っていたものじゃない」
「ちがわない!」
クララは激しく首を振った。
「いっしょにえらんだのよ! ヴィンセントが、これがわたしに、いちばんにあうって……!」
「クララ、やめなさい!」
父親が立ち上がった。
「マリナ様のものだ! お前は何をしているんだ!」
「お父様、待ってください」
マリナは止めようとした。
「クララさんは今、混乱しているだけです」
高熱や呼吸困難が続いた患者が、普段では考えられない言動をすることはよくある。
クララは今、自分がどこにいるのかさえ、きちんと分かっていないのだろう。
だが父親は、侯爵夫人の宝石を娘が持っていたことに動転していた。
「返しなさい、クララ!」
父親はネックレスを無理やり娘の手からむしり取った。
「いや!」
クララは信じられないほどの力で、父親の手からネックレスを取り返そうと引っ張った。
「だれにも、わたさないわ!」
ネックレスがベッドの柵に引っ掛かる。
細い銀の鎖が切れた。
同時に、花をかたどった台座が吹き飛んで床へぶつかった。
小さな音がした。
――虹彩ダイヤモンドが、銀の花から外れた。
「わたしの!」
クララは自分の身体を押さえる母親を跳ね飛ばすと、ベッドから身を投げ出し、床を転がった。
「クララさん、待って!」
マリナが手を伸ばす。
クララは虹彩ダイヤモンドを拾い上げた。
涙に濡れた顔に、奇妙に幸せそうな笑みが浮かんだ。
「――ずっといっしょにいるのよ。ヴィンセント……だれにもわたさないわ」
そして、クララは虹彩ダイヤモンドを――口へ入れた。
「クララ!」
クララの母親の悲鳴のような声が響くと同時に、クララの喉がごくり、と動いた。
一同が凍りつく。
(――飲み込んでしまった……)
硬直したまま見つめるマリナたちなど目に入らない様子で、クララは恍惚とした表情で笑った。
「これで……ずっと……」
直後、激しく咳き込んだ。
「クララ!」
レオンが身体を支える。
クララは胸元を押さえ、そのままベッドへ倒れ込んだ。
「息は?」
「できてる!」
レオンが口元と胸の動きを確認する。
「喉には詰まってない。飲み込んでる」
「先生!」
クララの母親が泣きながら父へすがった。
「取り出してください! お腹を開けば――」
「落ち着いてください」
ルシオが言った。
クララの腹部へ手を当て、状態を確かめる。
「石は小さい。尖ってもいません。今のクララさんの状態で腹を開く方が、はるかに危険です」
「でも……!」
「あれくらいの大きさなら、数日すれば排泄物と一緒に出てくる可能性が高い。今は待ちましょう」
レオンも頷いた。
「――腹痛や出血があれば、そのときはまた考えます」
両親は不安そうだったが、やがて頷いた。
マリナもそれが妥当だと思った。
石を飲み込んだことは心配だ。
だが、今もっとも危険なのは《鋼心病》そのものだった。
――今の状態で手術をすれば、クララは死んでしまう。
――様子を見るという判断は、その時点では最善だった。
しかしその日から、クララの病状は恐ろしい速さで悪化した。




