第11話 婚約者にもらった宝石
ブラウン夫妻が領地管理を手伝ってくれるようになってから、マリナの仕事は目に見えて減った。
朝から晩まで机に向かっても終わらなかった書類が、夕食前には片づく日もある。
最初のうちは手持ち無沙汰にすら感じた。
「奥様、こちらは私がやっておきますよ」
そう言ってブラウン夫人に帳簿を取り上げられたときには、思わず、
「でも、私が確認した方が早いですから」
と言ってしまった。
すると夫人は笑った。
「ええ、そうでしょうね。でも、奥様にしかできないこともあるでしょう?」
どこかで聞いたような言葉だった。
マリナは少し考えてから、帳簿から手を離した。
「……では、お願いします」
「はい。お任せください」
ブラウン夫人は穏やかに笑って、帳簿を受けとった。
人に仕事を任せるのは、思っていたより難しい。
自分でやった方が早いと思ってしまうし、間違いがないかも気になる。
けれど、そうやってすべてを抱えていたから、これまで病院へ行けるのは仕事が終わったあとか、休日くらいだった。
――今は違う。
マリナは週に何度か、昼間から実家が運営する病院へ足を運べるようになっていた。
「最近よく来るね、姉さん」
診察室へ入ってきたマリナを見て、白衣姿の弟のレオンが驚いた。
一つ年下の弟のレオンは、医師として父と一緒に病院で働いている。
「ブラウン様たちが領地管理を手伝ってくださっているから。様子を見に来たわ」
「へえ……姉さんが人に仕事を任せるなんてなあ」
揶揄うように言う弟をマリナは軽く睨んだ。
「私だって任せることくらいできるわ」
それから、病院にいるときは着ている白衣を羽織ると、机の上に置かれた記録を手に取った。
現在、この病院には《鋼心病》と診断された患者が四人入院している。
重症度も年齢も異なるが、いずれも女性だった。
そのうち一人は、二十五歳になるクララという娘だった。
領内でいくつかの店を経営している裕福な商人の娘で、五年前に《鋼心病》と診断されている。
入院してきたのは一年前だ。
入院した時は、病状が悪化して歩くこともままならない様子だったが、療養を続け、現在は風鈴草の薬を飲めば自力で外を散歩できる状態まで回復し、安定している。
「クララさん、失礼しますね」
病室を訪ねると、クララは窓際の椅子に座って刺繍をしていた。
「あら、マリナ様」
顔色はまだ青白いが、初めて入院したころに比べればずっといい。
「今日は調子がよさそうね」
「ええ。朝から一度も苦しくなっていないんです」
「それはよかったわ」
マリナは脈を取り、呼吸の音を確かめる。
それから、小さな水晶を取り出した。
クララは慣れた様子で胸元を少し開ける。
「また、それですか?」
「ええ。痛くはないでしょう?」
「それはもちろん。でも、不思議な道具ですよね」
マリナが水晶を胸元へ近づけると、透明な石の中にうっすらと色が浮かぶ。
鋼色。
《鋼心病》の患者に共通して現れる色だった。
ただし、以前よりわずかに薄くなっているように見える。
母親が“魔女”をしていたという領地の農民から、この水晶を治療のお礼にもらったのは半年前だ。そのときは、クララの色は、もう少し濃い銀灰色だった。
それが今では、水晶にぼんやりと薄い銀灰色が浮かぶ程度だ。
「悪くはなっていないわね」
「本当ですか?」
「ええ。お薬も効いているみたい」
クララが嬉しそうに笑う。
「では、治るでしょうか?」
マリナは「治る」とは答えられなかった。
「……少しずつ、元の暮らしに戻れるように頑張っていきましょう」
《鋼心病》になった患者の心臓には、鋼のような硬い結晶ができる。
一度できた結晶を消す治療法はまだ見つかっていない。
そもそも、患者の死亡後に解剖して初めて結晶を確認できるのだ。
風鈴草の薬で症状が改善しても、それが病気そのものの進行を止めているのか、呼吸を楽にしているだけなのかも分からなかった。
「……そうですよね」
クララは少し寂しそうに笑った。
「――最近は夜も眠れるようになったんです」
クララは窓の外を見た。
「……それだけでも十分だと、思わないといけませんね……」
「――ええ。無理をしないで過ごしてくださいね」
マリナは息を吐いて立ち上がった。
そのとき、クララが声をかけた。
「あの……マリナ様」
「何かしら?」
クララはマリナの胸元を見つめていた。
「そのネックレス……虹彩ダイヤモンドですか?」
マリナは自分の首元に視線を落とした。
「ああ、これ?」
今朝、小箱を開けたときに、せっかく贈ってもらったのだから一度くらいは身につけようと思ったのだ。
「ええ。そうよ」
「やっぱり」
クララが目を細める。
「婚約者にもらったものと、同じデザインです。銀の花と虹彩ダイヤモンドの。王都の中心街にある宝石店のものですね」
その言葉に、マリナは椅子へ座り直した。
「婚約者?」
「昔の話です」
クララは刺繍を膝の上へ置いた。
「病気になる前、婚約していた方がいたんです。結婚したら、父の店を一緒に手伝う予定でした」
「……そうだったの」
「婚約したときに、虹彩ダイヤモンドのネックレスをいただいたんです。一緒に王都に行って、お店で選んだんですよ。――いくつもつけたり、外したりして。彼がマリナ様のネックレスと同じ、花のデザインが私に一番よく似合うと――」
クララは指で自分の胸元に触れた。
「嬉しくて、毎日のようにつけていました」
「今は?」
「もうありません」
クララは首を振る。
「《鋼心病》になってから、婚約がなくなったので。治療のために、売りました」
クララはまた、窓の外を見つめた。
「最初は治るまで待つと言ってくれたのですけど。いつになるか、わかりませんし」
《鋼心病》は治療法のない不治の病だ。
経過は人によるが、今までは発症から数年以内に死に至るとされていた。
「父は、あちらのご家族に申し訳ないって。息子さんの人生まで、わたしと一緒に止めるわけにはいかないからって」
クララは呟いてから、顔を上げて笑った。
「でも、先生たちが病院を作ってくれたおかげで、私もベッドで寝てばかりでなく、お散歩や刺繍をできるようになりました」
クララは笑ったまま言った。
「彼は、もう他の方と結婚して、去年、子どもも生まれたそうです」
「……そうなのね」
クララの目が虹彩ダイヤモンドを追う。
光を受けるたび、赤から青へ、青から緑へと色が変わる。
「こうして似たものを見ると、思い出してしまいます。もし、待っていてもらえたら――」
クララは自嘲するように笑った。
「そんなことを考えてしまうのは……あの人は、もう別の方の旦那様なのに。おかしいでしょうか……」
「いいえ」
マリナは首を振った。
「“もし”というのを、人は考えてしまうものよね……」
“もし”結婚式をできていたら。
“もし”リュシオンが領地の屋敷のことをもう少し考えていてくれたら。
“もし”レベッカが病気でなければ。
“もし”レベッカがいなければ――
(私は、この贈り物をもっと喜べたかしら?)
マリナは首元のネックレスを触った。




