大丈夫だ。問題ない
ログアウトした瞬間、部屋の天井が視界に飛び込んできた。
VRヘッドセットを外すと、現実の空気が少し重く感じる。独特の世界観の空気の流れ、奈緒と宿で別れた後眠った優しい木の香りとは違う。ただの一般男性が暮らす室内の匂い。時刻は夜の十一時を回っていた。
シャワーを浴び、四時間ほど寝て、また電車に揺られた。
会社に着くなり、俺はサーバーログを担当している技術チームの席に向かった。昨夜のトレントの件が頭から離れない。深部限定の個体が浅い層に出現した。あれは設計上ありえない話だ。
「なぁ、昨日の深夜帯の討伐ログ見たか。一層にトレント出てんだけど」
技術チームの田辺が、モニターから目を離さずに答えた。
「あー、見た見た。でもまぁ、初日だしな。ログイン人数が多かったから…多分、深層で打ち漏らした奴が流れてきたんだろう。そうでなくても些細なバグだろ?後でレポート出しておくよ」
「些細なバグって……本来二層以降にしか出ない個体だぞ」
「リーダーのお前がわざわざ報告に来るほどのバグか?無限増殖とかじゃあるまいし、サーバー負荷で出現テーブルが一時的にズレただけだって。もう修正走らせてあるし、大丈夫だよ」
「……本当に大丈夫か?」
「大丈夫大丈夫」
田辺はそう言って、ようやく俺の方を見た。目が笑っていない。というか疲れで目が死んでいる。こいつも昨日一晩中起きてたんだろうな。
「ベータで同じ現象が起きたろ。あの時も出現テーブルがズレて、翌日直ってた。今回も同じだ。むしろお前、設計したの自分だから過敏になってるんじゃないか。親が子供の心配しすぎるのと同じだよ」
確かに、よくよく考えるとモンスターのスポーンがちょっと違うだなんて些細だ。
確かに、ベータの段階でも、サーバー負荷で出現テーブルが乱れたことは一度あった。
「それに、モンスターは±1層までなら移動出来るんだ。モンスターを使ってプレイヤーを殺す時とかに使ったのが残ってたんだろう」
確かにそう言う考え方も出来る。
ベータのとき、似たような報告を上に上げて、結果的に俺の思い違いだったことがある。そのせいで修正作業が丸一日無駄になったこともあったな。これ以上仕事を増やして眠る時間を延ばすより、彼の言葉を信用したほうがいいだろう。俺が心配性なだけかもしれない。徹夜だろうに怒らず対応してくれた彼に逆に感謝すら覚えるようになってきた。それ以上追及するのはやめよう。今日は昼から全体会議もあるそうだが、これ以上時間をとると彼が死んでしまう。
「田辺」
「今度は何だ?」
「あとは俺がやっておくから、帰って寝ろ」
自分の引き出しに補充するためにコンビニで買ったアイマスクを渡すと、田辺は一瞬だけ意外そうな顔をしてから受け取った。
「……リーダー!こんな人だとは思わなかったですよ。あざます」
「うるさい、一言余計だ。それにお前のリーダーでもない」
ファイルを自分のパソコンあてに送り、定期の会議があるため会議室に行く。
「ん~終電までに終わるといいな。コーヒーでも買って気合い入れるか」
会議室に集まったのは、開発・運営合わせて二十人ほど。徹夜組は帰宅したので、このぐらいか。
しばらくすると、時間になりプロデューサーの後藤が前に立って、ホワイトボードに大きく「Babel公開記念イベント」と書いた。
「みんな、昨日の正式公開お疲れ!数字見た?同時接続、ベータの三倍超えたよ三倍!」
拍手が起きる。俺も後藤を称えて拍手をした。
「この勢いを逃したくないということで、明日から公開記念の初心者支援イベントを打つ予定だ。名前は『Babelへの灯火』」
後藤が印刷した説明用紙をホワイトボードにはりつけていくと、イベントの概要を話し出した。チュートリアルをクリアした銅級プレイヤーが、まだ序盤にいる新規プレイヤーを支援することで報酬を得られる仕組みだ。バフアイテムの配布、簡易クエストの案内補助、パーティ参加の斡旋など。善意の連鎖を制度化したような企画だった。上手くいけば治安の良いゲームコミュニティができるだろう。
「配信者サイドともすり合わせ済みで、何人かが『みんなで初日組を盛り上げよう』って形で配信枠取ってくれることになっている。フィレア、何か質問は?」
後藤が言い終わるのを待って、俺は一点だけ聞いた。
「集合場所はどこになる予定ですか」
「アルグハイムのジッグラト迷宮内を。キャンプにしたら面白そうだと思ってな」
「人数制限はなぜつけない?」
「人数制限を設けないのは、コミュニティの自然な形成を優先したいからだ。管理された善意より、自発的な助け合いの方が長続きする。それが俺たちのコンセプトだろ?」
「参加推奨レベル帯の設定は?」
「もちろん誰でも歓迎だよ」
俺は一回だけ口を閉じて、それ以上は言わなかった。懸念を口にしかけて、やめた。
田辺が言った通りなら、俺の考えすぎだ。それに、正式公開初日にあれだけの数字を出してくれたチームに水を差すのは、今日じゃない気がした。
ネットではすでにイベント情報が出回り始めているらしく、会議中に隣の席の社員が横目でスマートフォンを見ていた。チラ見えした画面には「神運営すぎる」「初心者に優しいゲームは長生きする」「参加するわこれ絶対」という文字が並んでいる。配信者たちも早速反応していて、「全員で初日の冒険者を守ろうぜ!」という切り抜きがすでに数万回拡散されているらしかった。
「じゃあ、いいイベントにしましょう!」
後藤の声に、会議室から「おう!」と声が上がった。
その温度が、なんとなく気になった。新しいゲームへの期待と、初日の数字の興奮と、みんなで何かを盛り上げる快感が混ざり合ったあの声。森で松明を手に持った人間が、これで夜道が明るくなると笑いながら、その火がどこまで燃え広がるかを考えていない。そういう声に聞こえた。
会社を出たのは夜の八時過ぎだった。
帰宅してbabelにログインすると、薄暗い宿屋の一室が視界に広がる。ゲーム内はまだ夜明け前らしく、窓の外が青みがかった暗さだった。廊下に出ると、ちょうど奈緒も隣の部屋から出てくるところだった。
「言いたいことがあったんじゃないですか」
「特にない」
「数字はすごいですよね。私も見てました。ああなると、止められないのも分かります。会議中、後藤さんの話を聞きながら二回だけ口を開きかけてましたよ」
「わざわざ数えてたのか?」
「退屈だったもので。それになんか心配そうでしたよ、井崎さん」
「顔に出てたか。」
「修正したログ、見ましたけど田辺さんが修正したから大丈夫じゃないですか。後藤さんも喜んでましたし、何か不具合が有れば耳に入っていると思いますし、今日みたいなテンションにはならなかったと思います」
別の都市の迷宮は同じような不具合は無かったようだし…
そうだな。今後気をつけよう。
グランたちとは昨日の迷宮帰りに、また機会があれば声をかけ合おうという話になっていた。ギルドへ向かうと、ちょうど入り口あたりでグランを見つけた。
「よう。今日も依頼を受けるか?」
「悪い、今日はちょっと難しそうだ」
グランが苦い顔をして、後ろに目をやった。フィルが壁に背中を預けて、人の往来から顔を背けるようにしている。
「フィルが調子悪くてな。昨日よりさらに人が増えてて……人混みに酔ったみたいで」
ギルドの前を行き交う人の数が、昨日とは比べ物にならない。冒険者だけでなく、見た目からして新規とわかる人間があちこちにいて、周辺は昨日の倍以上の密度になっていた。
「そうか。それは仕方ない、ゆっくり休んでくれ」
「本当に悪いな。落ち着いたらまた声かける」
グランはフィルを連れて宿の方へ戻っていった。
「どうします?」
「二人でできる依頼を探すしかないな」
受付で残っている依頼を確認すると、昨日より依頼の数自体は増えているのに、二人向けの手頃なものがほとんど残っていない。開始直後から大量のプレイヤーが一斉に取ったのだろう。
「昨日入ったヴィーゲの素材採取が残ってますね。少し奥に入りますが、トレントなら倒せますし大丈夫でしょう」
「ならそれで行くか」
依頼票を受け取って迷宮に向かうと、入り口前の広場も昨日より明らかに人が多かった。銅級のタグをぶら下げた先輩格が、新人らしき人間を連れて歩いている姿があちこちにある。賑やかで活気があって、理想的にすら見える光景だった。ただ、それが少し落ち着かなかった。
迷宮に入って素材の採取を始めると、すぐに違和感を覚えた。
「奈緒、今日スライムの数、多くないか」
「言われてみれば……昨日より湧いてる気がします」
倒しても倒しても、すぐ次が出てくる。採取ポイントに近づくたびに何かしら出現して、採取より戦闘の方が多いくらいだ。二人でこなせないほどではないが、ペースが妙に重い。四人でいた昨日よりも、数が多い。
「……人口密度に応じてスケールするアルゴリズムか」
思わず声に出てしまった。
「え、何かありましたか?」
「いや。続けよう」
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