9話
なぜここにいるのかは、思い出せない。
ただ、ここにいることだけは分かっている。
それが月華草のためであることも。
それ以外のことが、どうでもいいということも。
そう理解している。
庭園は静かだった。
静かすぎて、
音というものが最初から存在しなかったように思える。
風も、足音も、遠くの森の気配すら、
ここでは意味を持たない。
視界に映るのは花ばかりだった。
淡い光を帯びたそれは、
まるで私を歓迎しているように揺れている。
見ているだけで、意識が落ち着いていく。
月華草。
その名を知っていることに意味はない。
けれど知らないままではいられないものでもある。
私は花の前に立っていた。
立っている理由は必要なかった。
そこに在ることが、すでに正しい状態だった。
他のすべては、少しずつ遠ざかっていく。
森の音も、風も、誰かの声も。
最初から存在しなかったかのように、薄れていく。
残るのは花だけだった。
それでよかった。
それ以外を必要としていない。
花の香りを吸い込むたびに、
思考が静かになっていく。
余計なものが削られ、世界が整っていく。
これは正しいことだと分かる。
そうでなければ、ここに在ることはできない。
——ただ、ときどき。
それではない何かが、混ざることがある。
視界の端に、影のようなものが差し込む。
花ではない輪郭。
花ではない温度。
花ではない何か。
それは一瞬だけ現れて、すぐに消える。
消えるのが自然だと、理解している。
追いかける必要もない。
けれど。
消える直前の一瞬だけ、胸の奥がわずかに揺れる。
それは違和感と呼ぶには弱く、
懐かしさと呼ぶには遠い。
ただ、空白が生まれる。
「……」
私はそれを振り返らない。
見ても意味がないからだ。
ここには花がある。
花は私を満たしている。
それだけで十分だった。
そうでなければ、ここに立っていられない。
花の香りは、やさしい。
吸い込むたびに、世界が正しくなる。
思考は静まり、余計なものが削ぎ落とされる。
残るのは、必要なものだけ。
私はこの香りを吸うことで、花に近づいていく。
花に近づくことは、正しいことだ。
そう理解している。
……けれど。
一瞬だけ、
香りの奥に別の匂いが混ざった気がした。
雨の匂い。
土の匂い。
そして、誰かの声のようなもの。
私はそれを吸い込む。
そして、消える。
問題はなかった。
それが、
問題かもしれないという考えすら、
すぐに溶けていく。
花は変わらない。
私はここにいる。
それでいい。
それ以上のことは、うまく思い出せなかった。
ただ一つだけ。
花の中心に視線を戻す直前、ほんの一瞬。
——誰かに名前を呼ばれたような気がした。
知らないはずの名前が、
喉の奥まで上がってきて、そこで止まった。
もちろん、気のせいだ。
ここには花しかないのだから。
……そのはずなのに、
思い出せない何かだけが、
確かにそこにあった。




