10話
「ライルさん!
香りが来ます……もう、戻れません!」
鼓動が、ひとつ早く跳ねた。
セレナの声が森に吸われる。
僕からはまだ庭園が見えない。
しかし、確かに香りは僕らの周りを漂っている。
空気の境界が曖昧になり、
森と庭園の区別が、意味を失っていく。
呼吸を浅く保とうとするが、うまくいかない。
吸うたびに、香りが意識の隙間へ入り込んでくる。
声を出そうとすると、喉の奥が甘さに満たされる。
視界が少しずつ遅れていく。
目の前のセレナの影だけが、
かろうじて輪郭を保っている。
だが、それが誰なのかを考えようとすると、
影はただの動きに変わった。
それを追う理由さえ、曖昧になる。
——なぜ追っている?
その問いが浮かびかけて、すぐに溶けた。
答えになる前に、意味が崩れていく。
周囲の景色がひらけた。
眩しい。あってはならないはずの光だ。
冷たい感触と暗闇に慣れていた身体が、
暖かさと眩しさに困惑する。
そこには、庭園が広がっていた。
ただそこだけ、雨が降っていなかった。
そして、花々はただ揺れている。
「アリス!」
足が地面を蹴っている感覚がする。
この名前を意味する存在に近づくために、
考える前にそうしていた。
人影に近づいていく。
その輪郭が現れたとき、
意識が厚く、塗りつぶされていく。
「アリス!」
それは応えない。
一瞬こちらを振り向きかける。
だが、その行為にたどり着く前に、
視線が花に支配される。
これはアリスではない。
だが、これが”アリス”だと思ってしまう。
僕の知るアリスは、
僕の声に応えてくれるはずだった。
それでも、あれは応えない。
疑念が浮かびかけて、
留まる前に消えていく。
あれはアリスだ。
間違えるはずがない。
もうすぐ”アリス”にたどり着く。
「アリス」
それに語りかける。
その名は、届いていない。
なぜ花を見る。
なぜ僕を見ない。
疑問が浮かびは消え、浮かびは消える。
何かが消えるたび、胸のざわつきは増していき、
頭の中がチカチカしてくる。
アリスは僕を見るはずだ、
ならこの”アリス”が見ているこれが。
……”僕”?
“僕”があたり一面にいる。
“僕”が僕を見ている。
そうか、
だから”アリス”は”僕”を見ている。
……なら、僕は誰だ。
疑問が浮かんでは消える。
あぁ、”僕”がいるから”アリス”は僕を見ないのか。
なら、”僕”がいなくなれば僕を見てくれる、
“アリス”はアリスになるはずだ。
邪魔な”僕”はいらない。
“僕”を掴む。
人であるはずの”僕”は、
抵抗もなく、いとも簡単にいなくなる。
“アリス”の視線は、僕には向かない。
掴む、
消える。
まだまだ”僕”がいる。
まだ、消すものが残っている。




