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8話

 森の中を進む足取りは、

 想像していたより軽かった。


 決意が固まったから、ではない。

 覚悟ができたからでもない。


 ただ、立ち止まる理由を

 ひとつ、置いてきただけだった。


 雨に濡れた土は柔らかく、

 靴底が沈む感触が、やけに現実的だった。


 視界の端に映る景色は、

 相変わらず波打ち、歪んでいるが、

 もうそれに、

 恐れを抱いてはいない。


 身体はひどく疲れているはずなのに、

 それでも足は、前へ出ようとする。


 ただ進むことだけが、

 当然のことのように思えた。


 セレナは少し前を歩いている。

 振り返らない。

 振り返らせる必要は、もうなかった。


 僕たちは、

 同じ場所へ向かっているわけじゃない。

 それでも、今は同じ道を進んでいる。


「ライルさん、

 香りです。花の香りが意思を捕らえます」


 森を抜けた先、

 庭園との境界で包まれた、

 甘美で、心を縛り付けるような香りを思いだす。


「今は風向きが悪いです。

 近づくまでに、決めておいてください」


 決める、その言葉が胸を刺す。

 僕はアリスに何を求めているのか。

 アリスになんと言って欲しいのか。


 違う、

 ——僕が彼女をどうしたいのか。

 それを決めなければならない。


 僕の歩みがわずかに緩んだことが見えたかのように、

 セレナは一度だけ足を止めた。

 振り返るのではなく、距離を測るように。


 その沈黙だけが、妙に重く残った。


「私はまだ、父に会えていません」


 それだけ言って、続ける。


「……会えていない、というより」


 唇が一瞬だけ固くなり、口を開く。


「会わないまま、ここまで来ました」


 雨音に混じって、その言葉だけが落ちる。


「だから分かります」


 視線は僕ではなく、森の奥のままだ。


「決めないまま進むと、

 選ばなかったことだけが残ります」


 視線を戻す。


「……だから、決めてください」

「……分かったよ」


 まだ、分かっていない。

 決めてしまったら、もう戻れない。


 答えを出す準備ができているかどうかと、

 歩き出せるかどうかは、別の話だ。


 セレナの背中は、相変わらず前を向いたまま。

 彼女は急かさない。

 けれど、待ってもくれない。


「分かっているよ」


 小さく呟く。


 森の奥へ進むにつれて、

 空気が、少しずつ変わっていく。


 湿った土の匂いに、

 甘さが、混じり始めた。


 ——あの庭園の香りだ。


 それは記憶ではなく、

 いまの空気そのものを書き換えていた。


 胸の奥で、

 忘れたはずの感情が、

 形を取り戻しそうになっていた。


 ——決めなければならない。


 誰かのために、ではない。

 逃げないためでもない。


 ただ、

 この先で彼女の名前を呼ぶとき、

 その一言だけは、選ばなければならなかった。

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