7話
行ける、と言われた。
正確には、
「案内できます」と、セレナは静かに言った。
迷い森の奥。
あの庭園へ、もう一度。
雨に濡れた地面に立ったまま、
僕は何も返さなかった。
拒否もしなければ、肯定もしない。
言葉が見つからなかったわけじゃない。
見つかりすぎて、どれも口に出せなかった。
行けば、会える。
アリスに。
その事実だけが、やけに重く胸に落ちてくる。
セレナは、僕の様子を窺うでもなく、
急かすでもなく、
ただ森の方角を一度だけ見やった。
「……」
何も言わずに、僕の意思を待っている。
案内できる。
つまり、行ける。
理由はもう、揃ってしまっている。
彼女がまだ庭園にいること。
外に連れ出せるかも知れない。
その可能性を、僕は知っている。
それでも、足が動かなかった。
身体のどこかが壊れているわけじゃない。
力が抜けたわけでもない。
言葉にするのが怖かった。
救う、という言葉が頭をよぎる。
けれど、それは本当に「救い」なのか。
彼女はそれを求めているのか。
庭園は、牢獄だったのか。
それとも、彼女が選んだ居場所だったのか。
——そんなこと、分かるはずもない。
分からないからこそ、
簡単に踏み込んではいけない気がした。
いや。
本当は、そんな理屈じゃない。
もう一度、彼女の前に立つこと。
その目に、何を映すのか分からないこと。
拒まれるかもしれない。
あるいは、何も言われないかもしれない。
それを、直視する勇気がなかった。
気づけば、拳を握りしめていた。
力が入っているのに、何も掴めていない。
行かない、と決めたわけじゃない。
行く、と決める勇気もない。
ただ、ここに立っている。
セレナは、もう何も言わなかった。
説得もしないし、背中を押すこともしない。
彼女は、分かっているのだと思った。
この一歩が、誰にも代われないことを。
雨は止まず、森は静かで、
あの庭園は、きっと今も変わらずそこにある。
名もなき花と共に。
そして——アリスも。
行ける。
それなのに。
ただ、つま先だけが、わずかに前を向いていた。
「セレナ。
君は、お父さんに会えてどうだった?」
目と目が初めて交わる。
「まだ、会えていません。
……まだ、お父さんとお別れできていません」
声が震えている。
「だから、あそこに戻るんです。
もう、後悔はしたくないから……」
セレナは、そこで言葉を切った。
それ以上、何かを足すつもりはないようだった。
後悔。
その言葉だけが、胸の奥で鈍く残る。
彼女は、自分のために戻るのだ。
父と向き合うために。
終わらせるために。
——では、僕は?
アリスに会う理由を、
僕はまだ言葉にできていない。
救いたい、というのは簡単だ。
でもそれは、
彼女の意思を踏み越えるかもしれない。
それでも。
あの庭園に、彼女がいる。
名もなき花の中で、
時間の止まった場所で。
僕は、あのとき——
何も言えなかった。
引き止めることも、
追いかけることも、
選ばなかった。
だから今、ここに立っている。
「……強いね」
ぽつりと零れた声は、
自分でも驚くほど正直だった。
セレナは首を振る。
「違います。
怖いから、戻るだけです」
雨音が、少しだけ強くなる。
「怖いままでも、行くと決めただけです」
その言葉が、
静かに、しかし確かに胸に刺さった。
——怖いまま、行く。
自分の選択を見届ける覚悟。
僕は、深く息を吸った。
光の差さない森の奥を見つめる。
視線の先に、あの庭園を思い描く。
まだ、足は動かない。
けれど。
つま先は、もう迷っていなかった。
——あとは、踏み出すだけだ。




