6話
月華草。
あの花があったから、僕はアリスと出会えた。
あの花が見つからなかったから、
僕らは隣にいれた。
——そして、それはもう終わってしまった。
いつの間にか光を目に宿したセレナが、
何か喚いている。
——その声はボヤけている。
「連れ戻す?」
誰を?
いや、あの男はもう——
君のお父さんは、もう腐りかけてたじゃないか。
もう無駄だ。
理由なんて、最初からなかったじゃないか。
「アリス?」
彼女は、自分の意思で残ったはずじゃないか。
「いまさらあそこに戻る理由なんて、
二人ともないよ」
それは、説得じゃなかった。
自分に向けて言い聞かせただけの言葉だ。
思わず口にした呟きに、セレナは目を閉じる。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
「私は……。
私は、あなたたちを利用しました」
利用。なんの話だ。
霧散した意識が、わずかに寄り集まる。
「父をあの庭から連れ戻すために、あなたたちを」
そこで一度、言葉が途切れる。
「……あそこでは、
人は一番強い願いから、逃げられません」
セレナの声が、少しだけ“現実”に寄る。
「だから父は庭園に囚われた。
そしてアリスさんも……同じです」
意味が、繋がらない。
「父を連れ戻すには、
誰かに“外側から引きずり出させる”必要があった」
つまり、とセレナは続ける。
「あなたたちは、そのために選ばれた」
——それ以上、彼女は言葉を続けなかった。
ふやけていた意識が、
一度だけ形を取り戻し、またほどける。
何かが喉まで来た気がした。
それは言葉になる直前で、消えた。
「なぜ僕らが」
疑問ではなく、確認だった。
少しだけ意識が宿る。
「迷い森なんて、誰も行きたがりません。
でも……あなたたちは、
月華草なんてお伽話を信じていました。
だから……」
頭をヒヤリとした感触が撫でる。
目が覚めていく。
「……ごめんなさい。
もしかしたら、そうなるかも知れないと、
分かっていました」
「分かっていたなら、なんで……」
声が、思ったよりも掠れていた。
責めるための言葉のはずなのに、
そこに込めるだけの力が残っていない。
セレナは、すぐには答えなかった。
視線を落とし、雨に濡れた地面を見つめている。
「……それでも、やるしかなかったからです」
言い訳にも、弁明にもならない言葉だった。
「父がいなくなって、庭しかなくて。
でもお父さんがいて欲しくて」
胸の奥で、何かが小さく音を立てて崩れる。
「でも……私も、
また囚われたら、怖くて」
雨音が、その沈黙を埋めていく。
「誰かに。
代わりにやってくれる、誰かが必要で」
ゆっくりと、こちらを見る。
その目には、さっきまで宿っていた光はなかった。
ただ、取り繕うことを諦めた人間の目だった。
「……最低ですよね」
セレナは自嘲気味に、口元が歪む。
胸の奥が、鈍く軋んだ。
怒るべきだ。
責めるべきだ。
利用されたのは、事実だ。
それなのに。
「……ねえ、ライルさん」
名前を呼ばれて、
初めて、
濡れた地面の上に立っていることを思い出す。
「もし、最初から分かっていたら……
それでも、来ましたか?」
答えは、すぐに出なかった。
月華草。
失われた花。
お伽話だと、分かっていて。
それでも、信じた。
——信じたから、ここにいる。
喉の奥が、ひどく渇く。
「……分からない」
ようやく出た声は、
驚くほど静かだった。
セレナは、少しだけ目を伏せる。
「……そうですよね」
それだけ言って、
彼女はもう何も続けなかった。
雨だけが、変わらず降り続いている。
あの庭園は、
今も、
名もなき花と共に森の奥にある。
アリスも、
まだ、そこにいる。
——それだけは、分かっていた。




