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5話

 寒い。

 身体を打ち抜く雨粒が、痛みにも似た刺激を残し、

 失った意識を現実に引き戻す。


 視界はまだ定まらない。

 天と地の区別だけが、かろうじて残っている。


 森の匂いが薄れていく。

 代わりに、濡れた土の匂いが濃くなる。


 指先が動く。

 生きている。


 そうだ、アリスはどこだ。

 重たい身体をひきずるように無理やり起こし、

 あたりを見渡す。


 いない、どこにもいない。

 いつも隣にいなくてはならない彼女がいない。


 そのとき、

 庭園から弾かれる間際に見た光景を思い出す。

 僕を突き飛ばした、アリスを。


 考える前に、身体が動いていた。


 森との境界を踏み越える。

 踏み出した足先が、

 確かに地面を捉えたはずだった。

 次の瞬間、世界が裏返る。

 音も、色も、方向も失い、

 身体だけが押し流される。


 口の中に血の味が広がり、現実だと理解する。


 戻らなくてはならない場所が、

 確かにそこにあった。

 ——あの庭園。


 雨音に混じり、

 最初に目を覚ました場所に気配を感じる。

 そこには、

 僕らをここに導いた女が横たわっていた。


「起きろ!」


 肩を乱暴に揺さぶり、

 無理やり意識を浮かび上がらせる。


「……」


 反応がない。

 彼女の情報を引き出そうと、

 揺さぶる力が無意識に強くなる。

 

 呼吸を確かめる。

 弱く、浅い。

 それでも、

 生きていると分かる程度には、確かだった。


「どこにいる!」

 言葉だけが先に出た。

 ——戻って、何をする。

   アリスに、何を言えばいい。


 目は開くが返事はない。

 苛立ちに顔が熱くなり、

 さらに揺さぶりが激しくなる。


「答えろよ……」

 ——アリスの意思で残ったんじゃないか。

   

 そう思った瞬間、胸の奥が冷えた。


 必死になる理由が、もうどこにも見当たらず、

 身体から力が抜け落ち、肩にかけた手が地面に落ちる。

 

「……」

 ——もう僕がいる必要はない。


 彼女がいない世界では、

 僕が“誰のために動けばいいのか”が分からなくなる。


 ——何も考えたくない。




——


 生まれた瞬間から、私はすでに庭園のものだった。

 父にとっても、私にとっても。


 疑問を抱く余地は、最初からなかった。


 ある日を境に、

 私の中でぼやけていた輪郭が、

 少しずつ固まり出した。


 染み付いた花の香りが薄れるほど、

 庭園のことを考える代わりに、

 いなくなった父を想うことが増えた。


——




 目の前にはうなだれ、

 私にすがりつくことを辞めた男がいる。


 首の奥に広がる痛みと、

 口の中の錆びたぬかるみが、

 少しずつ意識を固めていく。

 

 容赦なく私たちを濡らしていく雨に、

 固まっていた意思が溶かされていく。


 うなだれる姿が、父を失った日の自分と重なった。


「ライルさん。

 まだ……間に合うかもしれません。

 諦めなければ、ですが。

 父を……アリスさんを一緒に迎えに行きましょう」


「……」

 

 彼は何も答えない。

 視線は私を通り越し、雨の向こうを見ていた。

 彼はただそこにいるのに、いないようだった。

 

 その指先だけが、わずかに震えていた。

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