4話
迷い森。
誰がそう呼び出したかわからない。
だが、これ以上の呼び名もない。
隣国との国境を横断する、
大山脈の麓に位置しているこの森は、
誰からも忘れられたかのように、
ただあるだけ、そんな場所である。
覚悟を決めて踏み込んだ森の中は、
意外にも、
不気味なまでに静かである。
木々は鬱陶しいほど生い茂っている。
なのに、
風に揺れているはずの葉が、音を持たない。
セレナさんは、
あるはずがない道が見えているかのように、
意思を持って森の中を掻き分けていく。
僕らは着いていくのに必死だった。
彼女の通る道以外に踏み込むことは許されない。
視界の端に流れていく景色だけが、
わずかに“遅れている”ように歪んでいる。
あれから一時間以上は歩いている、
もはや、どれだけ歩いたかも分からない。
異様な森への警戒と、
慣れない移動の積み重ねで、
不安が好奇心を上回っていく。
僕の背中に手を当て、
ぴったりと張り付くように移動しているアリスは、
息も絶え絶えだった。
呼吸が浅く、言葉を出す余裕もない。
「セレナさん、少し休みませんか?」
「ダメです。
時間がありません」
「……お父さんのですか?」
返事はない、ただ彼女の沈黙が答えなのだろう。
「ごめんなさい、でもあと少しで着きます」
背中にもたれ掛けられているアリスの手に、
力がこもるのを感じる。
しばらくすると、
唐突に森が途切れ、視界がぱっと開けた。
そこにあったのは“庭園”だった。
森の続きではない。
森の中に“後から置かれたもの”に見える。
森の中にはなかったはずの、
花の甘い匂いが、森と庭園の境を越えてくる。
まだ足を踏み入れていないのに、
もう肺の奥に入り込んでいる。
その瞬間だった。
意識の端で、何かが固まる。
大事なものが浮かび上がり、
それ以外の輪郭が一瞬だけぼやける。
すぐにほどける。
だが、確かに感じた。
「……あれが月華草?」
庭園の中央。
淡い光を放つ花々。
美しい、というより——
“見てはいけないものが咲き乱れている”ようだった。
横にいるアリスは、疲れのせいか、
だらしない顔付きで、ぼんやりと光景を眺めている。
「お父さん!」
セレナさんの声が、空気を裂く。
駆け出そうとする彼女の手を掴む。
反射だった。
彼女の視線の先には、
力なく横たわった人がいる。
あれは……。
疑問は浮かぶが、集中できない。
ここにいてはダメだ。
すぐに二人を連れて逃げだしたい。
「お父さん!」
次の瞬間、その手は簡単に振り解かれる。
彼女は迷わず走った。
まるで、そこしか世界に存在しないみたいに。
僕は一瞬遅れて追う。
そのとき、振り返った。
アリスは動いていない。
庭園の中心をまだ見ていた。
花だけを。
一瞬、視線が重なった気がした。
その瞬間——
彼女の中から“何かの輪郭”が抜け落ちた。
「……私だけの花」
声はアリスのものなのに、
意味だけがアリスのものじゃない。
背筋が冷える。
今のは“発言”ではなく、
“植え付けられた反応”に近かった。
駆ける。
セレナさんは倒れている人の肩を揺さぶっていた。
痩せ細った身体が、
土茶色の肌ごと小さく揺れている。
「いや……!お父さん、どうして……!」
声が震えている。
崩れていく音が、言葉の中に混ざっていた。
「なんで……なんで私だけ置いていくの!」
叫びが庭園に落ちる。
“悲しみ以外の成分”——
それは、失うことそのものを拒む色だった。
「ここから離れよう!」
自分でも驚くほど、声が強かった。
引き剥がす。
抵抗は激しい。
だが、彼女の目はすでに“こちらを見ていない”。
ただ、そこに在るだけだ。
アリスと一緒に逃げなければ。
「アリス!逃げよう!」
彼女は動かない。
「どうして?」
声は淡い。
感情が抜け落ちたような、平坦さ。
だがその”どうして”は質問ではなかった。
ただの反射であった。
自分の行動は、
最初からそうあるものとして処理されていた。
「いいから行こう!」
「嫌だ」
はっきりとした拒絶。
なのに、それは拒絶として成立しているようで、
どこか他人事だった。
次の瞬間。
アリスの身体が揺れる。
引き戻そうとした僕を、逆に押し返すように。
力は強くない。
ただ、押し返したという結果だけが残った。
「アリス!」
一瞬だけ、彼女の瞳に焦点が戻る。
まるで、
自分がどこに立っているのか思い出そうとするみたいに。
身体は手を伸ばそうとする。
だが、その意思だけが、動きを拒んでいた。
その直後。
何かに包まれたような感覚を覚える。
内臓が身体の外側に引きずり出されるような、
抗うことのできない力を感じ、
急にその力が失われる。
庭園と森の境界に触れた僕らは、弾かれたのだ。
森が拒絶したのではない。
庭園が“不要なものを弾いた”ようだった。
意識を手放す直前、
視界の端で、アリスはまだ花を見ていた。




