3話
「ふたりともお待たせ」
勝ち取った二時間の猶予をしっかり使い切り、
できる限りの準備を終えた。
これ以上やれることはない。
——そう言い聞かせるための、
これは僕なりの言い訳だ。
「時間丁度ね」
懐中時計を覗き込む、
別れる前よりは落ち着いた様子のアリスがいた。
取り繕ってはいるが、僕には分かる。
期待と焦りを、無理やり押し込めた顔をしている。
代わりに、
依頼人の身体は、わずかに揺れている。
唇を固く結び、青白い顔をしている。
「……大丈夫ですか?」
思わず声をかけると、
依頼人は一瞬だけ目を見開き、
すぐに背筋を伸ばした。
「はい。問題ありません」
問題がない人間の反応じゃない。
だが、
これ以上踏み込めば、
彼女は殻に閉じこもるだろう。
その距離感だけは、直感で分かった。
「そうだ、お名前伺ってませんでしたね。
お名前は?」
「セレナ」
それ以外の言葉はない。
「セレナさん、大船に乗った気でいてください」
名前を呼んだ瞬間、
彼女の表情が少し和らいだ気がした。
——まるで、誰かに呼んで欲しかったかのように。
「じゃあ、行きましょう!」
アリスが待ちきれないとばかりに扉を開け放つ。
外の光が一気に流れ込み、
僕らの影が床に長く伸びた。
——
迷い森へ向かう道は、記憶よりも静かだった。
風に揺れる木々の音だけがやけに大きく、
人の気配が薄い。
「ねえライル、緊張してる?」
「してないって言ったら嘘になるかな」
前を歩くアリスの背中は軽やかだ。
対照的に、
依頼人は、一歩一歩を確かめるように歩いている
「……あの」
ぽつりと、彼女が声を落とす。
「森に入ったら、私の言う通りにしてください」
「理由は?」
「そうしないと、森に拒絶されます」
即答だった。
冗談でも脅しでもない。
“事実”をそのまま置いてきたような声音だ。
アリスが一瞬だけ振り返り、僕と視線を交わす。
その目は笑っていない。
「了解。案内は任せるよ」
それでいい。
任せられるなら、任せた方が確実だ。
それに、
今は余計な主導権争いをするべきではない。
⸻
迷い森の入口に立った瞬間、
空気が変わった。
音が、森に吸い込まれ、
風の感触が、どこか歪んでいる。
「……本当に、嫌な感じね」
アリスが珍しく小声で呟く。
ひやりとした感触が首元をなでる。
引き返す理由はあった。
それでも足は止まらなかった。
依頼人は何も言わず、一歩、森の中へ踏み出した。
「ここから先は、絶対に私から離れないでください」
その背中は小さく、頼りなく見える。
——あの日も、そうだった。
僕とアリスが初めて出会った日。
根拠のない確信に突き動かされて、
人生が動き出した。
今回も、きっと同じだ。
「行こう、アリス」
「ええ。今度こそ、絶対に月華草を見せるわ」
森が、静かに口を閉じる。
僕たちの背後で、
帰り道を隠すように。




