第3話 純白の選別
サンクチュアリの朝は、いつもあまりに穏やかだ。山から流れる風はやわらかく、教会の鐘は遠く、祈るように響く。白い石畳の通りには、子供たちの無邪気な笑い声が満ちていた。
ここには争いがない。怒号も、暴力も、飢えも。少なくとも───エトワール・ド・ヴァロワの目には、そのように映っていた。
「おはようございます、エトワール様!」
小さな、鈴を転がすような声。振り向くと、一人の少年が駆けてくるのが見えた。
栗色の髪に、陽光を跳ね返すような瞳。ニコ。このサンクチュアリで最初にエトワールに拾われ、王女の手から直接「施し」を受けた孤児だ。
「おはよう、ニコ。今日も元気そうで何よりだわ」
エトワールは膝を折り、少年と目線を合わせる。彼女の指先が、少年の頭を優しく撫でた。その仕草は、本の中で読んだ慈愛の聖母そのものだ。
「ボク、昨日パン配りを手伝ったんだよ。エトワール様みたいに、みんなに幸せを届けたくて」
「まあ。それは立派な務めね」
エトワールの瞳が、誇らしげにやわらぐ。
「ここは、汚れのない人たちのための家だもの。あなたがそうやって助け合ってくれることが、わたくしの何よりの喜びよ」
「うん! ボク、頑張るよ」
ニコは照れくさそうに笑い、それから、ほんの一瞬だけ。エトワールの背後に立つ、鉄色の瞳の従者へ視線を送った。ジークは表情を変えず、微かに顎を引く。それだけで、十分だった。
その夜、サンクチュアリの片隅にある酒場は、澱のような熱気に包まれていた。一人の大人が、酒瓶をテーブルに叩きつける。
「ふざけやがって! ガキばかり優遇しやがってよ! 仕事は減るし、あいつらが盗みやがった俺の稼ぎを、あの病弱王女は『分かち合いましょう』だと? 笑わせるな!」
周囲の客が、怯えたように顔を背ける。男の不満は止まらない。
「どうせあのアマは何も知らねえんだ。温室で本ばかり読んでるから、世の中の仕組みが……」
男の言葉は、そこで途絶えた。背後に、音もなく巨大な影が立っていた。
「───その通りです」
地獄の底から響くような、低い声。男が絶望と共に振り返ると、そこにはジークが立っていた。月の光を吸い込んだような、冷たい刃を握って。
「お嬢様は、何も知りません。知識はすべて本の中にあり、この地は彼女の理想郷であるべきなのです」
「……ま、待て、ジーク! 俺はただ……」
「お嬢様に、現実を見せるわけにはいかない」
───一閃。
男の声は、溢れ出した鮮血と共に虚空へと消えた。ジークは感情の欠片もない手つきで、石畳に咲いた不浄を清掃していく。
今夜もまた、「不適切な大人」が一人、旅立ちを強制された。
翌朝。エトワールは窓辺で紅茶を嗜んでいた。
「ジーク。昨日の夜、広場の方で小さな火が見えた気がしたのだけれど」
彼女は遠く、昨夜「処分」が行われたあたりを見つめる。
「お祭りかしら? 子供たちが、焚き火を囲んで歌っていたのかしら」
ジークは、エトワールのカップに紅茶を注ぎ足しながら、穏やかに答えた。
「ええ。不要なものを燃やし、新しい季節を迎えるための儀式でございます。子供たちも、とても喜んでおりました」
「それは素敵。わたくしも、今度は混ぜていただきたいわ」
エトワールは満足そうに微笑み、祈るように目を閉じた。
「この場所が、みんなにとって苦しみのない、幸せな場所になりますように」
その願いは、確かに叶えられていた。大人たちが一人、また一人と消え去り、あとには王女を盲信する子供たちだけが残る世界。
路地裏では、ニコが年下の子供たちを集めていた。
「ねえニコ、またおじさんがいなくなったの?」
小さな女の子の問いに、ニコは優しく微笑んで答える。
「うん。あのおじさんは、エトワール様を悲しませようとしたから。だから、ジークさんが『旅路』を整えてくれたんだ」
子供たちは一斉に頷く。
「じゃあ、仕方ないね」
「エトワール様は、ボクたちを守ってくれるんだもん」
ニコは空を見上げた。どこまでも青く、汚れのない空。彼らにとって、エトワールの「善意」を汚す大人は、排除されるべき害獣に過ぎない。
「ボクたちが、エトワール様の夢を守らないとね」
エトワールは知らない。自分の歩く後ろで、世界が静かに、そして凄惨に削り取られていることを。
彼女が慈悲をかけるほどに、自治区から「人間」が消え、「飼い慣らされた雛」だけが残っていくことを。無垢な地獄の歯車は、子供たちの歓声を潤滑油にして、いよいよ加速していく。




