第2話 贈り物と決別
雪の夜だった。王都の離宮は、冬の静寂に塗り潰されている。広大な庭園の白さは月光に照らされて淡く輝き、まるですべての生命が息を止めているかのようだった。
その静寂を侵す足音は、一つだけ。ジークは屋根の影から滑り降り、窓の格子を無音で外した。
王家直属の暗殺集団───『鴉』。その中でも、彼は最も無慈悲で成功率の高い処刑人として、影の世界に君臨していた。任務は単純。
王女エトワール・ド・ヴァロワの殺害。王家に不要と判断された「病弱な余剰分」の清算。ジークは剣を引き抜く。
(抵抗は皆無。速やかに終わらせる)
窓の向こう、寝室の灯りはまだ灯っていた。彼は夜気に紛れ、室内へと滑り込む。
暖炉の火が爆ぜ、爆ぜる。寝台には誰もいなかった。代わりに、窓辺の椅子に一人の少女が座っていた。膝の上に広げられているのは、古びた義賊の冒険譚だ。
金色の髪。
透き通るような肌。
そして───何色にも染まっていない、空虚な瞳。エトワールは顔を上げた。そこに立つ、死の匂いを纏った男を見つける。悲鳴はない。逃走の素振りさえない。彼女はただ、愛読書の一節を確認するように、静かに首を傾げた。
「……まあ」
不思議そうに、そしてどこか待ち侘びていたような声。
「あなたが、来てくださったのね」
ジークは剣を向けた。距離は三歩。一踏みで絶命させられる間合い。
「動くな」
低く、事務的な宣告。
「……殺す。王命だ」
エトワールは一瞬だけ目を瞬かせ、それから、花が開くように柔らかく微笑んだ。
「そう」
彼女は立ち上がる。一歩、また一歩。死そのものである刃に向かって、躊躇いなく歩み寄る。ジークの剣先が、彼女の薄い胸元を捉えた。
「お父様とお母様が、あなたを寄越したのね」
その声には、恐怖の一滴も混じっていない。
「わたくしを……自由にしてくださるのね」
ジークの眉がわずかに動く。
「……何を言っている」
「ずっと、本を読んで考えていたの」
エトワールは剣の前に立ち、夢想するように言った。
「義賊の物語の中のヒーローは、いつも自分の命を捧げて世界を救うわ。高貴な生まれの者には、相応の果たすべき『務め』がある……。わたくしには何ができるかしらって、ずっと」
彼女は窓の外、凍てつく雪を見つめる。
「身体は弱く、外にも出られないわたくしの死が、王国の重荷を取り除くことになるのなら……」
ジークを見つめる。その瞳は、一点の曇りもなく彼を肯定していた。
「これは贈り物なのね。わたくしに与えられた、最後で最高のご公務」
そして。───エトワールは剥き出しの刃を無視して、ジークを優しく抱きしめた。その瞬間、世界から音が消えた。
ジークは硬直した。殺すはずの対象に、抱きしめられている。
今まで浴びてきたのは、断末魔の叫び、呪詛、命乞いだけだった。感謝など、この世のどこを探しても存在しないはずだった。
「ありがとう」
耳元で、鈴を転がすような声が響く。
「あなたは、とても慈悲深い騎士様なのね」
カラン、と乾いた音を立てて剣が落ちた。鉄の心臓が、初めて「恐怖」ではない衝撃で脈打つ。彼女の細い腕、驚くほど軽い身体。その「無垢な狂気」に、ジークの魂は一瞬で塗り潰された。───その時だった。
窓を突き破り、数条の黒い影が室内に踊り込んだ。
「……ジーク、手間取っているな」
暗殺集団『鴉』の処分部隊。ジークが仕損じた際の保険であり、目撃者を一人も残さないための掃除人たち。
「王女を殺せ。ジーク、貴様もだ。情を移した処刑人に用はない」
エトワールはジークの腕の中で、不思議そうに侵入者たちを見つめた。
「……まあ。騎士様のお友達?」
ジークの中で、何かが音を立てて決壊した。
「───いいえ、お嬢様」
ジークは床の剣を蹴り上げ、逆手に取る。
「あれは、お嬢様の視界に入ってはならない『不浄』です」
次の瞬間、部屋は鮮血の花畑へと変わった。
ジークの動きは、先ほどまでの「暗殺者」のそれではない。獲物を屠るためではなく、背後の「無垢」に返り血一滴すら浴びせないための、執拗で過剰な殲滅。
一人目の喉を裂き、二人目の心臓を貫く。最後の一人の首を跳ね飛ばしたとき、ジークの黒装束は重く濡れ、鉄の匂いが部屋中に充満していた。
だが、エトワールは動じなかった。彼女の愛読書の中では、義賊は常に悪を討ち果たすものだったから。
「まあ、大変」
死体の山を見回し、彼女はジークの頬についた血を、白い指先でそっと拭った。
「あなた、お怪我はない?」
ジークは血だまりの中に膝をついた。かつて王に捧げた忠誠を、今、この脆弱で美しい怪物へと捧げ直すために。
「お嬢様。この命、そしてこの刃。すべてをあなたに」
エトワールは困ったように、けれどどこか嬉しそうに微笑んだ。
「まあ。わたくしに命を捧げるなんて、必要ないのよ?」
「必要です」
ジークは顔を上げない。その瞳には、暗殺者の虚無ではなく、狂信者の光が宿っていた。
「あなたの歩む道に、汚れなど必要ありません。不浄はすべて、私が旅立たせます」
エトワールはしばらく考え、それから、物語の結末をなぞるように頷いた。
「……そう。それが、あなたの『務め』なのね」
「はい。お嬢様」
この夜、暗殺集団『鴉』は文字通り全滅した。震え上がる国王夫妻から「自治区」という名の領地を奪い取り、ジークはエトワールを連れ出した。
世界の片隅に………。王女の善意を燃料にし、従者の虐殺を動力とする、あまりに清らかな『地獄』が生まれた。




