第1話 高貴なる務め(ノブリス・オブリージュ)
朝の光は、いつも薄膜を透かしたようにやわらかく届く。厚いレースのカーテンを濾過したそれは、現実の太陽というよりは、古びた教典の挿絵に描かれた聖光のようだった。
エトワール・ド・ヴァロワは、その光の檻の中で目を覚ます。
白い寝台。
白い天蓋。
白い壁。
視界に入るすべては、汚れ一つない清らかな色だけで構成されていた。
「……今日も、良い朝ですわね」
独り言のような呟きに、すぐ傍らから冷徹なほど落ち着いた声が返る。
「お目覚めでございますか、お嬢様」
影のように控えていた男が一歩、前へ出た。
ジーク。
鉄色の瞳を持つ従者であり、執事であり───そして、この自治区の秩序を物理的に維持する「最後の刃」でもある。だが、エトワールはその事実を知らない。
彼女にとってジークは、本の中で読んだ「献身的な騎士」をそのまま形にしたような、頼もしい同居人に過ぎなかった。
「今日の予定は?」
「午前は施療院への慰問。午後は北区画での配給でございます」
「まあ」
エトワールは、祈るように両手を合わせた。
「北区画には、小さな子供たちが大勢いたはず。昨日、新しいパン窯が完成したと伺ったわ」
「ええ。皆、お嬢様の訪れを指折り数えて待っております」
「素敵。わたくしも、きっとお役に立てるわ」
弾む声。それは、自分の命をすり減らすことでしか存在意義を見出せない者の、危うい輝きだった。身体は弱く、剣を振るう力もない。政治の裏側を知る術も持たない。けれど───。
「この命を捧げることこそ、わたくしの高貴な務めですもの」
それが、エトワールの唯一の拠り所。ジークは一瞬だけ、まつ毛の影にその鉄色の瞳を伏せた。
「……左様でございますね」
そして、静かに首を垂れる。
「お嬢様は、常に正しい」
自治区サンクチュアリ。その中心広場には、すでに長い列が作られていた。
───痩せこけた孤児。
───熱に浮かされた病人。
───絶望を食い繋ぐ母親。
エトワールが馬車から降り立つと、広場に熱烈な歓声が沸き起こる。
「エトワール様だ!」
「聖女様が来てくれた!」
王女は、壊れ物に触れるような仕草で微笑んだ。透き通るような肌と、淡い金の髪。感情の澱をまだ知らない無垢な瞳。泥濘のような広場において、彼女一人だけが、物理的に発光しているかのように見えた。
「みなさん、お待たせいたしました。今日は温かいスープを持ってきましたの」
エトワールは一人一人に、丁寧に食料を手渡していく。パン、金貨、そして銀の小瓶に入った薬。
その光景を、ジークは少し離れた場所から見守っていた。表情は彫像のように動かない。だが、その視線は広場の隅に立つ一人の男を、獲物を狙う鷹のように捉えていた。
油ぎった髪を振り乱したその男は、パンを受け取ると感謝の言葉も述べず、裏路地へと姿を消した。そして、暗がりに唾を吐く。
「……たったこれだけかよ。ふざけやがって」
男は恵まれたパンを泥の中に蹴り飛ばした。
「王女様だかなんだか知らねえが、あんな綺麗な格好してりゃ、金なんざ腐るほど持ってんだろ」
その、言葉の終わり際だった。男の背後に、音もなく巨大な影が立つ。
「───左様ですか」
氷のように冷たい声。男が振り返ろうとした瞬間、視界が極彩色に弾けた。
鋭い閃光が路地の暗がりを裂き、次の瞬間には、男の不満もろともその首が石畳へと転がっていた。ドロリと、赤黒い液体が溝を流れる。
ジークは無造作に懐から布を取り出すと、剣の薄氷のような刃を拭った。
「お嬢様の施しに、価格をつけようとは」
そこには怒りも、憐憫もない。
「……不浄です」
彼は男の死体を路地の深淵へと引きずり込んだ。数分後、そこにはパンの欠片一つ残っていなかった。
夕暮れ。エトワールは、夕陽に染まる庭園を静かに歩いていた。
「そういえば、ジーク」
ふと、彼女が振り返る。
「今日、北区画にいらしたあの男性。とてもお疲れのご様子でしたけれど……」
ジークは足を止め、視線を向ける。
「お名前を聞くのを忘れてしまいましたわ。お役に立てたかしら」
ジークは一瞬の沈黙の後、柔らかな声で答えた。
「ご安心ください、お嬢様」
「?」
「彼は旅立ちました」
「まあ」
エトワールは驚いたように、真珠のような目を丸くした。
「新天地へ向かわれたの?」
「ええ」
ジークは、慈しむような笑みを浮かべる。
「お嬢様の施しに深く、深く感謝しながら。もう二度と、飢えも乾きも感じない場所へ」
エトワールの胸に、安堵が広がっていく。
「……そう。わたくしの務めが、果たせたのね」
夕陽が、王女の白い肌を美しく焼く。彼女は胸に手を当て、まだ見ぬ誰かのために静かに祈りを捧げた。
「どうか、彼の旅路に祝福を」
ジークは深く、恭しく頭を下げた。そして、誰にも聞こえない声で呟く。
(ええ………すでに、すべて終わっております)
夜が降りてくる。自治区サンクチュアリは、今夜もあまりに静かだった。王女の純真な善意と、その裏側で積み上げられた、声なき死体によって。
無垢の地獄は、こうして今日も、優しく回り続けている。




