第4話 慈愛の終焉あるいは瓦礫の中の浴室
世界は、音を忘れていた。メルクリウス侯爵邸―――かつて権力と策略、そして冷酷な野心が渦巻いていた石の城は、今や巨大な標本箱と化している。廊下には父がいる。尊大な身振りで何かを命じかけた、その指先を突き出したまま。食堂には母がいる。皮肉めいた微笑の端に、鋭い棘を残したまま。階段には侍女たちが、主を待つ恭しい角度を保ったまま。
誰一人、動かない。誰一人、呼吸しない。だが誰一人として、崩れてもいない。磨き上げられた石像のように、彼らはロザリンドの手によって「完成」していた。足音は響かず、風も鳴かない。時計の針さえも、主人が望む「最高の瞬間」を刻んだまま、永劫の休息に入っている。
屋敷は、透明な静寂そのものだった。ただ一箇所、最上階の浴室を除いて。
水音。滴る音。湯が揺れる音。指が細い髪を梳く音。その断続的な響きだけが、この世界に残された最後の「生活」の残滓だった。乳白色の湯に肩まで浸かり、ロザリンドは目を閉じていた。蒸気に濡れた金の睫毛が、微かな呼吸に合わせて震える。
背後には、セバスチャン。膝をつき、主人の長い髪を一房ずつ、絹を扱うような手つきで洗っている。彼の指先は儀式を執り行う司祭のように正確で、夜の闇のように静かだった。泡が流れる。水が落ちる。髪が指を滑る。それだけが、この世に残された時間の刻み。
「ねえ、セバス」
「はい、お嬢様」
「お父様たちは、今も綺麗かしら。私が愛した時のまま、止まっている?」
彼は即答した。
「ええ。皆様、お嬢様が最もお好みになる美しさを保って保存されております。埃一粒、乱れ一つ近づけておりません」
「そう……よかった」
ロザリンドは満足げに微笑んだ。湯面が揺れ、そこに映る自分の貌を彼女はじっと見つめる。
「街も止まった。時間も、悲しみも止まった。……でも」
声が、わずかに熱を帯びて低くなる。
「私だけ、まだ動いているわ」
胸に手を当てると、そこには微かな、だが確実な振動がある。
「聞こえるでしょう。まだ流れているの。温かくて、ドロドロとしていて、止まらない不純なものが。不潔だと思わない? 私だけが、まだ『変化』に晒されているなんて」
沈黙。
セバスチャンは答えなかった。代わりに、洗い終えた髪を丁寧に湯から上げ、白銀の布で包み込む。そして―――背後から、そっと彼女の濡れた肩を抱き寄せた。
「お嬢様」
「なあに」
「貴女は、完成しておられます」
それは、神をも畏れぬ断言だった。
「鼓動も、血も、体温も―――そのすべてが、私の管理下にある限り、それは最高の状態です。止める必要はございません。磨き続ければよろしいのです」
ロザリンドの瞳が、多幸感に蕩けた。
「……管理?」
「はい。一分一秒、私が。貴女の脈拍を測り、疲労を拭い、老いを削ぎ落とし、乱れを即座に修正する」
耳元で囁かれる声は、死神の愛のささやきに似ていた。
「貴女が止まる時は―――私が、その瞳を閉じる時だけです」
湯気が、白く揺れる。窓の外では、灰が降り積もっている。街を、塔を、死者を、歴史を。すべてを均一な白で埋め尽くしながら。だが、この浴室だけは春のように温かい。香油の香りが沈殿し、水音が優しく、心音のように響く。
終末の外界から切り離された、密閉された二人の楽園。ロザリンドはゆっくりと体重を預けた。セバスチャンの胸の温度が、背中から伝わってくる。そこには疑いも、恐怖もない。ただ、自分を完全に委ねられるという、官能的な安堵だけがあった。
「お願いね、セバス」
「はい」
「私を、世界で一番、幸せなかたちのままで……」
「仰せのままに」
彼は即座に答えた。そして、誰にも聞こえないほど低く、付け足した。
「―――私だけのお嬢様」
外の世界は終わっている。人も、国も、希望も、すべて。だが、この浴室だけは終わらない。彼が温度を保つ限り。彼が磨き続ける限り。彼がその世話をやめない限り。灰に閉ざされた滅びの領地の中心で。
慈愛の怪物と、献身の執事は。永遠に続く「今」という名の檻の中、幸福そうに、静かに沈んでいった。




