第3話 慈愛の揺籃あるいは鮮血の檻
ロザリンドが最初に愛したものは、命ではなかった。―――「かたち」、だった。丸い曲線。柔らかな弾力。光を弾く色彩。小さくて、放っておけば損なわれてしまいそうな、危うい均衡。それらすべてを、彼女は「可愛い」と呼んだ。
メルクリウス家の温室は、王城の庭園よりも広大だった。天井は魔導硝子で組まれ、昼は太陽を、夜は星をそのまま取り込む。花は季節を無視して咲き、果実は熟れ続け、空気は絶えず甘く、重く、沈殿している。そこは幼い令嬢の、生きた宝物庫だった。
「ねえ、セバス。今日のお友達はどこ?」
まだ少年だった見習い執事は、恭しく頭を下げた。
「西区画にてございます。お嬢様のご所望通り、牙を持つ種と羽を持つ種、ならびに毛並みの美しい種を同時に放しております」
「まあ」
彼女は、まるで新しい玩具の箱を開ける子どものように、無邪気に手を叩いた。
「素敵。きっと、お花の絨毯みたいに綺麗ね」
温室の扉が開くと、そこには鮮やかな色彩が乱舞していた。紅玉の瞳を持つ肉食魔獣、雲を切り取ったような毛並みの草食魔獣、宝石を砕いて散らしたような羽の小鳥。本来ならば決して交わらぬ牙と喉笛が、同じ空間に、密閉されていた。飼育係たちは青ざめ、声を震わせた。
「お嬢様、あまりに危険です。種の相性が―――」
「大丈夫よ」
ロザリンドは微笑んだ。その微笑みは、絶対的な神託のように揺るがない。
「だって、みんなこんなに可愛いもの。可愛いものは、仲良くしなきゃいけないのよ」
彼女の定義において、可愛い=善。そして善=傷つけない。ゆえに、惨劇など起こるはずがない。ロザリンドは満足そうに頷き、夕食の時間だからと、その「楽園」を後にした。
―――数時間後。再び扉が開いたとき。そこにあったのは、血の匂いだった。むせ返るほど濃く、鉄の味を孕んだ大気が、彼女のドレスを汚す。
温室の床は、赤かった。羽根が散り、毛が散り、肉が散っている。先ほどまで囀っていた小鳥は、色彩を失った肉塊へ。草食獣の腹は無慈悲に裂け、温かい内側が外へ流出している。花壇の上には、驚愕したままの頭部だけが転がっていた。
静寂。その中央にいたのは、生き残った数体の肉食魔獣だった。返り血に濡れた牙を剥き、誇らしげに喉を鳴らす。主に獲物を捧げる忠実な猟犬のように、彼らは自分たちの「勝利」を提示した。
―――ロザリンドは立ち尽くした。
「……どうして?」
それは理解のための問いではなく、失望の確認だった。彼女は一歩、死骸の山へと近づく。まだ温かい、引き千切られた羽根を拾い上げた。
「可愛かったのに。あんなに、綺麗なかたちをしていたのに」
ぽたり、と透明な雫が羽根を濡らした。
「悪い子ね。どうして、こんなに汚いことをするの?」
肉食魔獣たちが期待に尾を揺らした、その瞬間。音もなく、彼らは世界から消滅した。爆発も破裂もない。ただ、存在そのものが「削除」された。ロザリンドの魔術には、怒りすらこもっていない。それは掃除と同じ、事務的な動作。机の埃を払うように。床の汚れを拭い去るように。ただの、処理。
温室に、再び静寂が満ちる。彼女はしゃがみ込み、亡骸の一つに触れた。血に汚れていない毛並みの部分だけを、愛おしそうに撫でる。
「……汚れる前に、止めてあげればよかったのね」
その瞳から、未来が消えた。成長を待つ光、変化を許す慈しみ、時間を共有する期待。すべてが、彼女の中から欠落した。
少年セバスチャンは、その光景を、背後から凝視していた。胸が震えていた。恐怖ではない。あまりの美しさに、感動していた。
(ああ、なんという至福)
彼は理解した。この幼き主人は、世界に絶望したのだ。時間は命を醜く変え、本能はかたちを壊す。ならば、救う方法はただ一つ。壊れる前に、止めること。彼は膝をつき、深く頭を垂れた。
「お嬢様」
「なあに、セバス?」
「これからは、私が管理いたします。掃除も、処理も、隠蔽も。すべて」
ロザリンドは、何の疑いもない信頼を込めて頷いた。
「お願い、セバス」
少年は微笑んだ。胸の奥で、黒い歓喜が咲き誇る。
(私は、この方の刃になれる)
温室に広がった鮮血は、やがて跡形もなく消え去るだろう。彼がすべてを消し去るからだ。世界がどれほど汚れても。どれほど壊れても。主人の前だけは、永遠に。彼女が愛した「かたち」のままに。




