第2話 慈愛の檻あるいは幸福な灰の降る街
街は、静かだった。あまりにも静かで、まるで音という概念そのものが、この場所だけ法によって禁じられたかのように。鐘は鳴らない。鍛冶屋の槌音も、商人の呼び声も、赤子の泣き声さえも。ただ、笑い声だけがあった。
それは弾ける歓声ではなく、胸の奥で雪が溶けるような、柔らかく、致死量の眠気を含んだ微笑の音。ロザリンド・フォン・メルクリウスは塔の最上階、夜気に濡れた窓辺に立ち、街を見下ろしていた。金の睫毛が影を落とす瞳は、聖母のそれよりも深く、危うい。
「ねえ、セバス。聞こえるでしょう?」
「はい、お嬢様。満ち足りた吐息の合唱でございます」
背後で控える執事は、その音の正体を正確に定義していた。それは幸福の音ではない。精神の麻痺。広域魔術〖安息の燐光〗による、強制的な多幸感。燐光は痛みも、不安も、欠乏感も、すべてを等しく溶かしていく。市場の女は空の籠を抱いたまま笑い、パン屋の少年は薪のない窯の前で、香ばしいパンの幻影に頬を緩める。老人は空腹で枯れ果てた体を引きずりながら、うっとりと呟く。
「……ああ、今日は、なんて豊かな実りだ」
井戸は涸れ、倉庫は空。それでも彼らは幸福だった。そう感じることが、ロザリンドによって許されていたから。
「悲しまないで済むの。素敵でしょう?」
「ええ。悲嘆は肌の張りにとって最悪の毒でございますから」
セバスチャンは当然のように答え、主人の髪を梳く準備を整えた。街が死に向かっていることなど、彼にとっては主人の紅茶の温度よりも優先順位の低い事象に過ぎない。
「領民たちは皆、最も幸せな記憶の揺り籠におります」
「そう……よかった」
彼女は心底、安堵したように微笑んだ。アレンの死は「急病」として処理され、葬儀も弔問も行われなかった。悲しみは魂を削り、その形を歪める。歪んだ民など、ロザリンドには愛せない。だから彼女は与えたのだ。忘却を、安らぎを。そして永遠に続く甘やかな微睡みを。
「備蓄の配布は?」
「すべて完了いたしました。皆様、人生で最後の、最も満たされた晩餐を味わっておられます」
それが最後の食事になることを、彼は言わない。明日のために働く必要などないのだ。未来を奪うことが、彼女の最大の慈悲だった。
そのときだった。地平の果てに、黒い線が滲み出した。軍勢。鉄の塊。侵略者の群れ。鏡面魔具に映し出されたその軍靴を見た瞬間、ロザリンドの慈母の微笑が、ひび割れるように消えた。
「……汚い」
声は震えていた。怒りではなく、深い悲しみと嫌悪。
「どうして来るの? 私の子たちが、恐怖で汚されてしまうわ」
彼女は鏡越しに、迫りくる軍勢を撫でた。
「踏まないで。汚い靴で、私の街を踏み荒らさないで」
守る。すべてを。敵も、民も、この均衡も。同時に、等しく、終わらせることで。
「セバス」
「はい」
「お茶を。喉を潤してから、すべてを抱きしめます」
差し出されたハーブティーは理想的な温度。ロザリンドはそれを一口飲み、満足げに微笑んだ。そしてカップを返すと、塔の縁へと歩み出る。
「大丈夫よ、みんな」
彼女が両腕を広げると、月光がその髪を白く染め上げた。
「痛いことも、怖いことも―――お母様が全部、消してあげる」
光が降った。それは触れたものすべてを、一瞬にして白へ変える祝福。兵士の剣は灰になり、旗は灰になり、悲鳴を上げる間もなく彼ら自身も灰へと還る。街の老人は微笑んだまま白い像に、赤子は母親の腕の中で崩れない彫刻となった。誰一人、苦しんではいない。全員が、最後の瞬間まで「最高に幸福だ」と信じ込んだまま、静止した。
光が消え、色のない世界が残った。白だけの街。灰だけの楽園。粉雪のように柔らかい灰がテラスに降り積もる中、ロザリンドは椅子に腰を下ろした。セバスチャンが静かに背後に立ち、一房ずつ丁寧に櫛を通す。
「静かね」
「ええ。極上の沈黙でございます」
「綺麗ね」
「ええ。これ以上ないほどに」
彼は淡々と主人の髪を整える。街が滅びようとも、一本の乱れも、一滴の不快も許さない。主人の髪の艶。頬の血色。ハーブティーの残り香。それが彼にとっての世界のすべてだ。ロザリンドは灰に埋もれた都市を見渡し、慈愛に満ちた目で目を細めた。
「見て、セバス。やっとみんな―――傷つかない形になれたわ」
月光の下、死という名の究極の安息を得た白い都市は、永遠の眠りについた。




