第1話 慈愛の刃あるいは凍てつく正義の騎士
領都は、永遠の春に閉じ込められていた。風は柔らかく、花は常に満開。空は一片の曇りもなく澄み渡り、噴水は絶えず同じ放物線を描いて水を噴き上げる。鳥は同じ旋律を繰り返し、街路樹は寸分違わぬ角度で枝を広げていた。
奇跡の都。人々はそう呼ぶ。だが、その奇跡の設計者―――ロザリンド・フォン・メルクリウスは、テラスの欄干に白磁のような指先を置いたまま、静かに首を傾げていた。
「……錆びているわ」
呟きは、散る花弁よりも軽い。彼女の視線の先、屋根の雨樋に、肉眼では判別できぬほどの赤茶けた点があった。
「三日後には剥落。七日後には穴。十四日で構造崩壊」
彼女は淡々と未来を告げる。その声は予言ではない。計算だ。
通りを歩く恋人たちの笑い声。一拍、遅れる。―――疲労の兆候。
市場の呼び声。抑揚がわずかに鈍い。―――倦怠の兆候。
衛兵の足取り。重心が数ミリ外れる。―――慢心の兆候。
ロザリンドの胸が、万力で締め付けられるように軋む。愛している。この街を。この景色を。この平穏を。だからこそ、耐えられない。それらが時間という汚泥に塗れ、無様に「衰えていく」未来が、鮮明に見えてしまうことが。
「……ああ、どうして皆、壊れてしまうのかしら」
背後で控えていた執事が、静かに一歩踏み出す。セバスチャン。汚れ一つない白手袋、理知的な銀縁眼鏡。音を消した歩法。
「世界は有限でございますから。すべては劣化いたします。お嬢様」
「なら」
ロザリンドは振り向かない。
「醜く壊れる前に、止めてしまえばいいのよね?」
セバスチャンは一切の迷いなく、慈しむように答えた。
「至極、合理的かと」
謁見室。陽光が差し込む大理石の床の中央に、一人の青年が跪いていた。整った姿勢。曇りのない眼差し。癖のない呼吸。ロザリンドは理解した。瞬時に。
(―――綺麗。なんて、透き通った魂の持ち主かしら)
「名は」
「アレン・ド・マールと申します」
声は澄んでいる。一滴の濁りもない。
「貴方は何のために剣を振るうの?」
「民のためです。それが、騎士としての誉れですから」
即答だった。迷いがない。ロザリンドの指先が、悦びで細かく震える。その瞬間、彼女の秘蔵のコレクションに、世界で最も価値のある宝石が加わった。
それからの日々、アレンは完璧に「管理」された。浴室ではセバスチャンが跪き、彼の爪を整え、肌を磨き上げる。
「騎士様、湯加減はいかがでしょう。お嬢様が、貴方を“最高の状態で保管なさりたい”と仰せですので」
アレンは困惑しつつも、それを主の深い善意だと信じ、拒むことはなかった。髪の一筋、呼吸の深さ、衣服の皺。ロザリンドは遠くからそれを見守る。壊れ物を取り扱うような、危ういまでの慈愛を注いで。だが、三日後。報せが届く。隣国との緊張激化。出陣命令。
「この命を賭して、お嬢様と国を守ります」
誇らしげに告げるアレンの姿は、騎士としての完成形だった。光。理想。純粋。しかし、ロザリンドの瞳には別の光景が映る。泥に塗れ、血を吐き、守りたかった民に裏切られ、絶望の末に精神を摩耗させる彼の未来が。
(……ああ、耐えられない。そんな汚れた彼なんて、見たくないわ)
慈愛が、殺意へと反転する。
出陣前夜。私室の暖炉。柔らかな灯と、香草茶の香り。
「緊張しているの?」
「いいえ。名誉なことですから」
アレンは微笑む。完璧な、最後の笑顔。ロザリンドは立ち上がり、彼を抱きしめた。体温。心音。呼吸。全部、いつかは損なわれるもの。
「ロザリンド様?」
「貴方を、永遠にしてあげる」
耳元で、甘く囁く。
「誰にも汚されない、一番綺麗なままで」
指先から絶対零度の魔力が流れる。音もなく、アレンの体が透き通っていく。驚く暇も、痛みを感じる隙さえない。
次の瞬間、彼は微笑んだまま静止した。月光を透過させる、透明な氷の騎士として。ロザリンドの頬を、安堵の涙が伝う。
「……よかった。これで貴方は、もう傷つかない」
冷たい氷の頬に触れる。
「ずっと私の、綺麗な騎士様」
背後から、セバスチャンが静かに毛布を差し出した。
「お見事でございます、お嬢様。これほど完成度の高い標本は、初めて拝見いたしました」
彼は鑑定士のような目で彫像を眺め、深く一礼する。
「さて」
静かな声が、無音の室内に響く。
「次はこの国を、いかがなさいますか。お嬢様」
ロザリンドは窓の外、光の海のような王都を見渡した。戦火に呑まれる未来が見える。
「そうね」
彼女は優しく、だが確信に満ちて微笑んだ。
「誰かに壊されるくらいなら。私が、一番綺麗な時に終わらせてあげなきゃ」
春の都に、静かに、そして絶対的な終焉の影が差し始めていた。




