第4話 無垢の箱庭
サンクチュアリの朝は、今日もあまりに静かだった。風は穏やかに石畳を撫で、空はどこまでも高く、澄み渡っている。教会の鐘が、祝福の香りを纏わせて町に響き渡る。
その調べを聞きながら、エトワール・ド・ヴァロワは窓辺に立っていた。白いレースのカーテンが、彼女の淡い金の髪と共に優しく揺れる。視線の先には、広場を走り回る子供たちの姿があった。
───屈託のない笑い声。
───小鳥のような足音。
───無邪気な歓声。
エトワールはそっと、慈しむように微笑んだ。
「……本当に、素敵な場所になったのね」
その呟きに、背後で影のように控えていたジークが、静かに、恭しく頭を下げる。
「はい、お嬢様。ここはもう、不浄なものなど何一つ存在しない。誰もお嬢様を傷つけることのない場所でございます」
エトワールは振り向いた。その瞳は、一点の曇りもなく、水底のように透明だった。
「みんなが、優しいからよ。人はきっと、本来はこれほどまでに善いものなのね」
ジークは答えない。ただ、わずかに睫毛を伏せる。サンクチュアリには、もう「大人」がほとんど存在しなかった。残っているのは、知性を失った数人の老医師と、もはや声を出すことも叶わぬ寝たきりの病人。それも、そう長くは持たないだろう。
広場の石段では、ニコが王者のような風格で座っていた。その周囲を、五歳から十二歳ほどの子供たちが取り囲んでいる。
「ねえニコ。パン屋のおじさん、今日もお店を開けないね」
小さな少年の問いに、ニコは慈愛すら感じさせる手つきでその頭を撫でた。
「ああ、あのおじさんなら。きっと、旅に出たんだよ」
「旅……?」
「うん。エトワール様に助けられ、幸福を満たされた人は、皆、遠くへ行くんだ。お嬢様がそうやって、彼らを自由にしてあげたんだよ」
子供たちは一斉に、憧れに満ちた声を上げた。
「いいなあ! ボクも、いつかエトワール様に旅立たせてもらえるのかな」
ニコは、かつてジークが自分に見せたものと同じ、鉄色の光を瞳に宿して笑う。
「それは、エトワール様と、ジークさんが決めることだよ」
その頃。サンクチュアリの境界線。王都から来た商人が、奇妙な悪寒に襲われながら馬を止めていた。
「……ここが、例の自治区か」
門は開け放たれている。だが、人影がない。通り抜ける風の音だけが響く、死者の国のような静寂。門番の代わりに従事していたのは、一人の幼い少女だった。
「こんにちは、旅人さん。ここはエトワール様の楽園だよ」
商人は引き攣った笑みを浮かべ、あたりを見回す。
「……親はどうした。責任者はいないのか」
少女は小首をかしげ、ひどく無垢に、残酷に答えた。
「いないよ。みんな、幸せになって旅に出たんだ」
「……?」
商人が不審に思い、一歩踏み込もうとした瞬間。背後から、音もなく巨大な影が彼を飲み込んだ。
「───この地へは、何の御用でしょうか」
背筋を凍らせるほどに、低い、低い声。振り向いた商人の網膜に映ったのは、鉄色の瞳を持つ死神の姿だった。
夕暮れ。エトワールは、白い花が咲き乱れる庭園を歩いていた。ニコたちが作った、どこか歪な形の花冠を受け取り、彼女は嬉しそうに微笑む。
「エトワール様、今日はお外からお客さんが来たんだって」
「まあ。それは喜ばしいことね」
エトワールは穏やかに頷く。
「この場所を、あの方も気に入ってくださるかしら」
ニコは少しだけ黙り、それから最高に幸せそうな顔をして笑った。
「うん。きっと、ずっとこの町にいてくれると思うよ」
その夜。サンクチュアリの外れで、小さな火が燃えていた。ジークが冷徹な眼差しで炎を見つめていると、背後に柔らかな気配が立った。
「ジーク。またお祭りかしら?」
エトワールが、夜風に髪をなびかせて立っていた。ジークは即座に膝を折り、血の匂いを消すように頭を下げる。
「はい、お嬢様。これもまた、お嬢様の務めが果たされ、誰かが幸福に旅立った証でございます」
「そう……良かったわ。わたくし、お役に立てているのね」
エトワールは安心したように夜空を見上げた。その横顔は、もはやこの世の理から切り離されたかのように美しい。
「ねえ、ジーク。いつか、お父様とお母様にもこの場所を見せてあげたいわ」
王女の声は、どこまでも澄んでいた。
「きっと驚かれるわ。こんなに平和で、汚れのない場所があるなんて」
ジークは一瞬の沈黙の後、恭しく答えた。
「……ええ。きっと、いずれ。……お目にかけることができましょう」
(……アストライア嬢の慈悲でこの聖域は保たれ、無能は消えた)
ジークは深く、深く頭を垂れ、ほくそ笑む。彼の守るべき箱庭は、いまや完成していた。
悪意を忘却した王女。彼女を神と仰ぎ、不浄を告発する子供たち。そして、その純真を守るために世界を削り、死体を積み上げ続ける刃。
外の世界では、この地は恐怖と共に語られている。
───大人が消える町。
───呪われた子供たちの聖域。
だが…箱庭の中だけは、あまりに、あまりに清らかだった。王女の善意によって紡がれた、完璧な絶望。無垢な地獄は、今日も優しく、静かに回っている。




