四
夜が明ける頃、崔凱は一番に目を覚ました。
隣では、岳飛とその母親のいびきが、まるで競い合うように響き合っている。
そのとき、入口のほうから足音が聞こえた。
目を凝らして見る。
――なんてこった。
王継先が土炕の脇に立っていた。
しかも、見るからに機嫌が悪い。
王継先は崔凱の首をつかみ、そのまま彼を家へ連れ戻した。
「このクソガキ、遊び呆けて家にも帰ってこないとは!」
二人が庭に入った途端、王継先は崔凱の背中を蹴った。
崔凱は前につんのめり、槐の木の下に倒れ込んだ。
口いっぱいに土が入った。
「道中の予定を遅らせて、午後になっても張員外のところへ着けなかったら、お前の命はないぞ!」
王継先は腕を振り上げ、崔凱の肩や首筋を殴りつけた。
「うわあああっ! 痛い、痛い、痛い!」
崔凱は悲鳴を上げた。
「王先生、もうおやめください!」
声の主は、昨日私塾で会ったあの先生だった。
「秦先生、こんな朝早く、いったい何の用です?」
王継先は手を止めた。
「韋小宝が学校へ行かなくなったことなら、先月もう先生にお伝えしたはずですが」
「その件で来たのです」
秦夫子は軒下まで歩いていき、拱手して礼をした。
「王先生、私の記憶違いでなければ、韋小宝を張員外のところへ売って、そこの長男の書童にするおつもりなのですね?」
「そうだ。あいつも、そろそろ自分で飯を食うべき年頃だ」
「なるほど。それで小宝は最近、勉強に身が入らなかったのですね」
秦夫子は言った。
「ところで王先生、売身契はもう交わされたのですか?」
「まだだ。だから今から小宝を張家へ連れていくところだ。張家の若様が本人の顔を見てからでないと、契約書に判を押せないらしくてな」
「王先生、余計な口出しだと思わないでください」
秦夫子は穏やかに言った。
「書童になるということは、事実上、賤籍に入るのと同じです。賤籍の者は、学問を修めて官職に就くことを禁じられ、家を買うこともできず、賤籍でない者との婚姻も認められません」
「王先生、目先のわずかな利益のために、この子の一生を台無しにしてしまってよいのですか?」
「小宝は生まれつき賢い子です。学問をする素質があります。このまま勉強を続けさせてみてはいかがですか。もしかしたら、将来、科挙に合格して功名を得るかもしれません」
「わずかな利益だと?」
王継先が鼻で笑った。
「秦先生、張家の若様、浚哥児が書童一人を買うのにいくら出すと言っているか、ご存じですか?」
「なんと七両銀だぞ!」
「七両?」
「そう、七両だ。七両銀なんて、秦先生にとってはわずかな金かもしれない。だが俺たち王家にとっては、半年分の収入なんだ!」
「私の月給は、二両銀を少し超える程度です」
秦夫子は苦笑した。
「私はただの貧乏書生ですよ」
「お前の奥さんの祖父は宰相だったんだろ? 金を懐に入れてないわけがないだろう」
王継先は口を尖らせた。
「賄賂を取る宰相もいれば、清貧な宰相もいます」
秦夫子は答えた。
「もし妻の実家が本当に金持ちなら、私が好きこのんで、あのいたずら猿どもの教師なんぞやっていると思いますか?」
そして少し考えてから言った。
「王先生、掛け売りということで、受け入れていただけませんか?」
「掛け売り?」
「七両銀というのは、銅銭七千文です。一文たりとも欠かさずお支払いします」
秦夫子は言った。
「ただし、私はあなたと売身契を結ぶつもりはありません。小宝を私に売るのではなく、私の義理の息子にするのです」
「秦先生、わざと俺を困らせてるんじゃないでしょうな」
王継先が言った。
「今、私が用意できるのは二両銀だけです」
秦夫子は続けた。
「ですが、残りの五両については証文を書き、三年以内に必ず支払います。それではいかがでしょう?」
「小宝が私についてくるほうが、書童になって賤籍へ入るより、ずっとましでしょう。私は責任を持って小宝に学問を教え、科挙を受けさせます」
「もしこの子が努力して功名を得れば、それはあなた王家の栄誉にもなるではありませんか?」
「一度賤籍に入れば、永遠に科挙を受けることはできないのです」
その声を聞きつけて、家からおばが出てきた。
「秦先生は本当にお優しい方ですね!」
「私はずっと、韋小宝を人の家の書童にすることには反対だったんですよ。まして張員外の長男の書童になんて……」
「張浚の評判は、もう知れ渡っています。小宝があの男の手に落ちたら……」
王継先が眉をひそめて妻を見た。
おばは、それ以上何も言わず口を閉じた。
「よし」
王継先は言った。
「秦先生は情け深いお方だ。小宝はあんたに売って、義理の息子にしてもらおう。賤籍に入らずに済むなら、死んだあいつの両親にも顔向けできるだろう」
王継先は崔凱の頭を押さえつけ、無理やり秦桧に向かって三度、額を地面に打ちつけさせた。
「何をしてる! 恩人に礼を言わんか!」
「ありがとうございます、秦先生」
崔凱は言った。
「どうしてまだ『先生』なんて呼んでるの?」
おばが言った。
「今日から『父さん』と呼びなさい」
崔凱はしばらく口ごもった。
だが、「父さん」という一言だけは、どうしても口から出てこなかった。
秦夫子はにこやかに笑いながら、崔凱を立たせた。
「小宝、もし私の姓である秦を名乗りたくないのなら、無理強いはしません」
「これまでどおり、お前の本名、韋小宝を名乗ればいい。どうだ?」
――でも、俺は韋小宝じゃない。
――俺は崔凱だ。
秦桧の家は王継先の家からそう遠くなく、埠頭のそばにある城楼からも近かった。
川のほとりに連なる丘の麓。
崔凱は、そこにある新しい家へ入った。
五十平方メートルほどの木造家屋。
中にあるのは木の机が一つ、木の椅子が二脚、糸車が一台、それに壁際の木桶が一つ。
それ以外には、家具らしい家具は何もなかった。
二十歳そこそこに見える女が椅子に座り、糸車の取っ手を懸命に回していた。
「こちらが私の妻だ」
秦桧が言った。
「王おばさんと呼べばいい。『母さん』と呼んでも構わない」
「王おばさん、こんにちは」
崔凱が言った。
「この子は礼儀正しいね」
女は振り返って微笑んだ。
だが、手は休めず、ひたすら糸を紡ぎ続けている。
――俺はいったい前世で何をしたんだ?
――どうして秦桧の義理の息子なんかにならなきゃならない?
秦桧の家で暮らすこと半年。
崔凱の身長は、ここへ来たときより六、七センチも伸びた。
腕の筋肉は、以前よりもずっと逞しくなった。
走るのも速くなった。
時には、岳飛でさえ彼に追いつけないほどだった。
そして彼は、自分がある種の超能力を身につけたことに気づいた。
――眠っている間にも、新しい知識を学習できる。
そんな超能力だった。
今の彼は、中国の歴代王朝を暗唱できる。
商から中華民国に至るまで、各王朝の具体的な年代まで、まるで自分の家系図でも語るように次々と言える。
さらに奇妙なこともあった。
ある晩、彼は夢を見た。
高校時代、自分が最も好きだったバスケットボール選手――コービー・ブライアント。
そのコービーが、飛行機事故で死亡する夢だった。
どうしてそんな夢を見たのか、彼自身にも分からない。
ただ、頭の中には一つの事実だけがはっきり浮かんでいた。
コービーは、四十一歳のある日に死ぬ。
この奇妙な現象について、崔凱は自分なりの説明を考えた。
実際には、ネット小説から得た発想だった。
ある種の小説では、神が姿を変え、まるで裏側の管理システムのような存在になる。
主人公は「システム」――つまり「神」が姿を変えたもの――とやり取りし、「システム」から報酬を受け取ったり、罰を受けたりする。
崔凱は、そういう小説の読者ではなかった。
『旧約聖書』にさえそれほど興味がない彼が、その模倣作品に興味を持つはずもない。
そもそも、そんな自己満足的な空想を本気で信じているわけではなかった。
だが、それ以外にもっと合理的な説明があるだろうか?
自分をここへ時空転移させた、あの謎の力。
――「神」というより、彼はそれを「宇宙」と呼びたかった。
その宇宙が、眠っている間に彼へ新しい知識を授けているのではないか。
もしかすると宇宙は、彼に何かを暗示しているのかもしれない。
――自分は守られている。
かつて神に守られたユダヤ人のように。
新しい知識を得る手段は、ほかにもあった。
秦桧の授業では、『中庸』や『論語』を学び、ときには算術も教わった。
ある日の授業で、秦桧が生徒たちに質問した。
「甲の地と乙の地は、九百里離れています。仮に、一日に三百里走れる馬がいるとしましょう。ある人が甲から乙まで馬に乗って行く場合、最短で何日かかりますか?」
崔凱は答えた。
「秦先生、そんな人は永遠に乙の地へたどり着けません」
「なぜだ?」
「甲から乙へ行くには、まず一日半かけて四百五十里進みます。次に、さらに〇・七五日かけて二百二十五里進みます。それから、また百十二・五里進まなければならない」
「そうやって半分ずつ進んでいったら、いつまで経っても乙の地には着きません」
「馬鹿!」
黄四郎が叫んだ。
「正解は三日だ!」
「正解だ」
秦桧が言った。
「九百を三百で割れば三。暗算でもすぐに答えが出る」
「もちろん、これは理想的な条件での話だ。馬だって三日三晩ぶっ続けで走ることはできない。人間も同じだ」
「役人として仕事をする者は、決して物事を思い込みだけで判断してはいけない。融通の利かない考え方もいけない」
秦桧はそこで一息ついた。
「では、少し休憩しよう。韋小宝、お前はちょっと外へ来なさい」
「小宝、またお前か」
教室の入口で、秦桧は言った。
「道の半分を進んでも永遠に目的地へ着かない――お前、また私の蔵書を盗み読みしたな?」
「これは『荘子』に出てくる話だ。私が知らないとでも思ったか?」
「先生には何でもお見通しですね」
「しかし、こんな子供たちに、何が分かる?」
秦桧は教室を指差した。
「私は最初から気づいていた。お前はほかの子供より早く知恵がついている」
「だが、小賢しいところをひけらかすのはやめなさい」
「以前、私がお前に暗唱させた王荊公の文章、『傷仲永』を覚えているか?」
「『幼い頃に才知があっても、大人になって必ずしも優れているとは限らない』という話だ」
「秦先生」
崔凱は言った。
「先生が授業で言ってる『役人として仕事をする』とか『政治を行う』とか、そういうことが子供に分かると思います?」
「最近の先生は、科挙の勉強に一心不乱じゃないですか」
「算術の問題を説明していても、最後には必ず『どうやって役人になるか』『どうやって政治を行うか』という話になる」
秦桧はため息をついた。
「お前は本当に口が達者な子供だ」
「もし正しい道を歩まなければ、いつか一方を災いに巻き込む人間になるぞ」
「先生」
崔凱は言った。
「俺は毎日、先生と一緒に儒学の経典を読みます」
「それに先生はいつも、読書人たる者は国に忠誠を尽くし、国のために働くべきだと言ってるじゃないですか」
「毎日そんな話を聞かされて、耳で聞き、目で見て、人としてどう生きるべきかを学んでいるんです」
「そんな簡単に道を踏み外すと思います?」
「ただ……」
「ただ、何だ?」
――ただ、あなたが本当に官職に就いたとき。
――それでも自分が言った言葉を覚えていられるんですか?
――秦桧、秦桧。
――どうか、初心を忘れないでくれ。
崔凱は秦桧をじっと見つめた。
だが、胸の中にあるその思いを、どう口にすればいいのか分からなかった。
人の師たる秦桧が、どうして後世の人々から袋叩きにされる大奸臣へと変貌してしまうのか。
それももちろん分からない。
だが、それ以上に崔凱を困惑させていることがあった。
――宇宙はいったい、何のために自分を秦桧の義理の息子にしたのだ?
――まさか宇宙は、秦桧を殺す機会を自分に与え、その手で歴史の流れを変えさせようとしているのか?
「殺す」
その言葉を頭に思い浮かべただけで、全身が落ち着かなくなった。
もし「宇宙」に、自分を「過去」へ送り込むほどの力があるのなら――
いや、彼にとっては「過去」ではない。
人間は常に、この瞬間、この現在にしか生きられないのだから。
それなら、なぜ「宇宙」は自分で秦桧を殺さないのだ?
それに、そもそも秦桧という人間は、本当に殺すだけで歴史の流れを変えられるほど重要な存在なのだろうか。
たとえ十九世紀になっても。
あの有名な狂人が、「神は死んだ」と宣言した――いや、発見した――後でさえ、歴史の車輪はそれまでとは違う軌道を走り始めたのだろうか?
誰か一人を殺せば、歴史の進む方向を変えられる。
そんな考え方こそ、人間が精神的な錯乱へ向かう最初の一歩なのではないか?
ニーチェについてのあれこれも、彼は眠っている間に学んだ。
――それにしても、なぜ「宇宙」は自分に哲学の知識まで詰め込むのだ?
崔凱は哲学に、それほど興味があるわけではない。
考える。
考える。
そして、また考える。
学校へ行かないとき、彼は秦桧の家の竹製の椅子に腰を下ろし、窓越しに遠くを眺めながら、心を遥かな世界へ飛ばした。
なぜか分からない。
ただ、漠然と感じるのだ。
――「宇宙」は自分に何かを期待している。
――自分が、何かをすることを。




