三
時刻は正午。太陽が暖かく照りつけ、韋小宝は竹椅子に寝そべって、日光浴を楽しんでいた。ついさっき風呂に入ったばかりで、肌には水気を含んだ紙の服がぴったりと張りつき、べたべたして気持ちが悪い。
自分を「おばさん」だと名乗っている女が彼の肩を叩き、湯気の立つ蓮の実のスープを一杯持ってきた。
「明日、張員外のところへ行ったら、少しは頭を働かせるんだよ。人の顔色を見るくらいのことはできるだろ?」
「今生の別れってわけじゃあるまいし……」
王継先が二人のそばを通り過ぎながら言った。
「体はきれいに洗ったか? 今日は大人しく家にいろ。明日の朝一番に、俺がお前を張家へ連れていく」
それから妻に向かって言った。
「それとな、黒虎丹をもう少し練っておいてくれ。最近は患者が多くて、薬がよく売れる」
女は「うん、うん」と二度返事をした。
王継先は庭門の木の閂を持ち上げ、外へ出ていった。
韋小宝は目を閉じ、考え込んだ。
もし今ここから逃げ出したら、自分はどうなる?
どうやって生きていけばいい?
もし自分がこの世界の暮らしに完璧に馴染んでしまったとしたら、自分と、この時代に生きる人々とを分けるものはいったい何なのだろう?
頭の中にある考え方や知識だろうか?
もし、その時代の人間よりも遥かに進んだ考え方や知識を持っている人間がいたら、その人は「時空を越えてきた者」と呼べるのだろうか?
彼は、ウォーレン・バフェットの言葉を思い出した。
「もし私が数百万年前に戻ったとしたら、私は速く走れないし、木にも登れない。生まれたばかりで、すぐに食べられてしまったかもしれない」
バフェットほどの知恵者でさえ、過去に戻れば食い殺される運命から逃れられない。
まして俺は――崔凱、二流大学の医学部生だ。
状況はかなりまずい。
ものすごくまずい。
彼は目を開けた。
庭にはもう彼一人しかいない。
薄暗い家の中から、鉢や壺がぶつかり合う音が聞こえてくる。
韋小宝は忍び足で庭門を抜けた。
外の土道は東西に伸びている。東へ行けば県城、西へ行けば畑や林、その先には荒野が広がっている。
――俺はサバイバル生活なんてできない。
彼は全速力で東へ走った。
何かにぶつかった。
胸が鈍く痛む。
いや、正確に言えば――一頭の黄牛の頭にぶつかったのだ。
牛の後ろには、自分より半尺ほど背の高い少年がいて、木の杭に結びつけた太い縄を手にしていた。
少年は、どこか不思議そうな目で彼を見た。
「小宝、お前、今日は学校へ行かなかったのか?」
「俺を知ってるのか?」
少年は歯を見せて笑った。
「小宝、また俺をからかってるんだろ」
――誰が好きこのんで、お前なんかからかうか。
崔凱は少年の横を俯いたまま通り過ぎ、ぶっきらぼうに尋ねた。
「お前、誰だ?」
「岳飛」
彼は足を止め、振り返った。
「お前、岳飛っていうのか?」
「小宝、今日のお前、なんか変だぞ」
少年は牛の後ろについて、西へ向かって歩いていく。
崔凱もその後を追った。
「本当に岳飛っていうのか?」
崔凱は尋ねた。
「俺とお前、どういう関係なんだ?」
「お前は俺の一番の親友だ」
岳飛と名乗った少年が言った。
「小宝、お前が学校へ行かずに俺と牛を追ってるところをおじさんに見られたら、また鞭で打たれるぞ」
「俺は学校へ行く必要なんかない」
崔凱は言った。
「あいつは俺を張員外の家に売ったんだ。書童になるってことになってるが、実際は――」
その先の言葉を飲み込んだ。
――実際は、男に尻を犯されに行くんだ。
岳飛は何か考えるような顔をした。
「じゃあ、これからはお前に読み書きを教えてもらうこともできないんだな。残念だ」
二人は雑草の生い茂る荒れ地へやって来た。
岳飛は木の杭を足で踏みつけて泥の中へ押し込み、その場にどすんと腰を下ろした。
「岳飛、俺はいつもお前と一緒に牛を追ってるのか?」
崔凱は尋ねた。
「ここで?」
「小宝、お前、ぼけたのか? ここはお前が一番好きな場所だろ」
岳飛は言った。
「前にお前が俺に話してくれたじゃないか。ここは、お前のおじさんと何人かの親戚が開墾した土地だって。あの頃、宰相の王安石が民に荒地を開墾するよう奨励していて、おじさんは役所から表彰状まで貰ったんだ。でも、役所が褒美を出さなくなってからは、おじさんも人の病気を診るのに忙しくて、畑を耕す暇がなくなった。それで、この土地も荒れ果てたままになったんだ」
崔凱は、隣にいる少年をじっと見た。
日に焼けて黒い肌。
がっしりとした体つき。
――もし、この少年が本当に歴史の教科書に出てくる、あの一代の名将・岳飛だとしたら。
そして自分が岳飛の幼なじみだとしたら……。
まさか宇宙は、この訳の分からない時空転移の中で、自分に重要な役割を与えているということなのか?
「岳飛、お前は大人になったら何をしたいとか、考えたことあるか?」
「畑を耕す」
岳飛は答えた。
「少しずつ金を貯めて、自分の土地を何畝か買いたい」
「畑仕事以外に、何かやりたいとは思わないのか?」
崔凱は尋ねた。
「もし、この宇宙がお前にもっと重要な使命を与えていたとしたら?」
「宇宙?」
「四方上下を『宇』といい、古往今来を『宙』という。合わせて『宇宙』だ。岳飛、お前は、もしかしたら別のことをしたほうが向いてるかもしれない」
崔凱は岳飛の体つきを眺めた。
「その体、かなり頑丈だよな。牛みたいにがっしりしてる。国のために働くってことを考えたことはないのか? 国には、お前みたいな若い逸材が必要なんだ」
「小宝、俺をからかうなよ」
岳飛は苦笑した。
「俺はまともに勉強したことがない。自分の名前だって、お前に教えてもらって、やっと書けるようになったんだ。こんな俺のどこが逸材なんだ? 俺は字も読めない」
「昨日が俺の私塾での最後の日だった。最後の授業だったんだ」
崔凱は言った。
「まさか、二人のガキが授業中に喧嘩を始めて、授業そのものがなくなるとは思わなかった」
「また、あの二人の宿敵か? 武戎と黄四郎?」
「お前、あいつらを知ってるのか?」
岳飛は首を横に振った。
「知らない。でも、お前がいつも俺にあいつらの話をしてくれただろ」
「お前が言うには、武戎の父親の武植と、黄四郎の父親の黄堂は親戚同士なんだ。黄堂の家は貧しくて、食べるものにも困っていた。武植は焼餅の店をやっていて、家には少し金があったから、いつも黄堂を助けていた。お前が俺を助けてくれるみたいにな」
「それで?」
崔凱が尋ねる。
「黄堂は武植から少し金を借りて、故郷に家を建てようとした。でも武植は貸してくれなかった。それで黄堂は武植を恨むようになった」
岳飛は続けた。
「武植にはきれいな妻がいた。潘金蓮っていうんだ。黄堂は故郷に帰ると、潘金蓮が西門っていう薬屋の主人を誘惑したとか、武植は女房を寝取られた亀だとか、そんな噂をばらまいた。それで二人の息子、黄四郎と武戎は、顔を合わせれば口喧嘩、すぐに殴り合いになるんだ」
「俺、お前にそんな話までしてたのか……」
崔凱は感慨深げに言った。
「昔の人はよく言ったもんだな。升一杯の恩は、斗二杯の仇になる」
「岳飛、しばらくお前の家に隠れていてもいいか?」
「いいぞ。でも、俺の牛が腹いっぱいになるまで待たないとな。それと、叔父さんが薪を切って帰ってくるのも待たないと」
日が傾き、空が暗くなり、雲から色が失われる頃になって、ようやく岳飛の叔父が山の麓に姿を現した。
きれいに束ねた薪を背負い、二人のほうへ歩いてくる。
帰り道、岳飛の叔父が崔凱に言った。
「お前も岳飛も、苦労の多い子供だ。岳飛の父親は寝たきりで動けない。俺が面倒を見てやらなかったら、とっくに死んでる」
「叔父さん、どうしていつもその話をするの?」
岳飛が言った。
「俺、何か間違ったこと言ってるか? 俺がいなかったら、お前とお袋はどうやって生きていく? 今のお前にある技術だって、どれも俺が教えたものじゃないか。薪割りも、牛追いも、畑仕事も、全部俺が手取り足取り教えたんだぞ」
「叔父さんは俺の恩人だ」
岳飛が言った。
岳飛の叔父は、へへっと笑った。
「分かってるなら、それでいい」
叔父は村の入口で二人と別れた。
韋小宝と岳飛は、土壁に囲まれた家へ入った。
庭には平屋が三棟ある。
東側の家には誰も住んでおらず、扉も窓もすでに朽ち果てていた。
西側の家の隅には、陶器の皿や瓶が所狭しと並んでいる。岳飛によれば、そこには窯焼きをしている男が住んでいるらしい。
庭の中央には、小さな菜園があった。白菜とレタスが植えられていて、近づくと糞の臭いが鼻につく。
牛の縄を入口脇の石柱に結びつけると、岳飛は韋小宝を南側の低い藁葺きの小屋へ連れていった。
「どうして灯りをつけないんだ?」
韋小宝が尋ねる。
「月明かりがあるから十分だよ」
岳飛は答えた。
窓には障子紙すら貼られていない。
壁際に立つと、きらきらと瞬く星が見えた。
部屋の隅、土間に近い炕の上で、ぼんやりと黒い影が動いている。
「飛、晩飯を机に並べたから、食べなさい」
壁際から、しわがれた女の声がした。
「母さん、もう食べた?」
「母さんは食べたよ。それより、隣にいるのは誰だい?」
「俺の親友の韋小宝だよ。城南の医館で王先生の甥っ子なんだ。牛を追ってるとき、小宝が俺に読み書きを教えてくれるんだ」
岳飛は韋小宝に、硬くなった饅頭を一つ手渡した。
「岳飛、今日、俺はお前の家に泊まってもいいか?」
崔凱が尋ねる。
「もちろんいいよ」
岳飛の母親が答えた。
「ずっとここにいてくれてもいい」
「飛、韋小相公が字を教えてくれたんだろ。だったら、頭を下げてお礼を言わなきゃいけないんじゃないか?」
岳飛の母親は言った。
「字を読めるのはいいことだよ。字が読めれば、役人にもなれるんだから」
そして、少し寂しそうに続けた。
「私なんか、自分の名前さえ全部は読めないんだからね」
「母さん、『一、二、三、四』くらいは読めるだろ」
「読めるもんかい!」
母親は言い返した。
「『一』は分かるよ。一の字は横一本だ。横が二本なら『二』、三本なら『三』。でも『四』はどうするんだい? 『四』ってどう書くんだって聞かれたら、私にはさっぱり分からないよ」
崔凱は饅頭を一口かじった。
硬い。
必死に噛み続けるが、口の中には唾液がほとんど出てこない。喉がひどく詰まって痛かった。
岳飛は土炕によじ登り、母親の隣に横になった。
「こんなに早く寝るのか?」
崔凱が尋ねる。
「早く寝れば、体力を使わずに済む。お前も上がって横になれ。余計なことを喋るな。力を温存しろ」
崔凱も土炕に横になった。
部屋の中は、しんと静まり返っている。
窓の外では、無数の星が瞬いていた。
「岳飛、戸締まりしてないぞ」
崔凱が言った。
「必要ない」
岳飛は答えた。
「うちには、泥棒が盗めるようなものなんて何もないからな」




