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『岳飛伝』  作者: RiHakuun
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附録A

秦桧、字は会之、建康の人なり。父の敏学は、かつて湖州吉安県の県丞、信州玉山県の県令、静江府古県の知県を歴任し、いずれも清廉潔白をもって名を知られた。その子に桧が生まれ、三男であった。

岳飛、字は鵬挙、相州湯陰の人。代々、農民の家柄であった。

契丹が金人の攻撃を受け、追い詰められて打つ手がなくなった。蕭后は韓昉を童貫と蔡攸の軍営へ遣わし、歳幣を差し出し、再び和親を結びたいと申し出た。そして、女真はすでに五、六十の国を蚕食している、もし今大遼が滅びれば、次に南朝の憂いとなるだろう、唇が亡びれば歯も寒くなる、どうして考えずにいられようか、と告げた。童貫と蔡攸は彼を怒鳴りつけて追い出した。

韓昉は廷中で声高に言った。

「遼と宋は百年にわたって友好を結び、誓書もすべて残っている。お前たちは国を欺くことができても、天まで欺けると思うのか!」

しかし童貫は、このことを朝廷に報告しなかった。

郭薬師が叛いて降伏し、常勝軍を率いて宋軍を迎え入れた。

時勢を見て動けばよい。動くか止まるかに、もとより一定の法則などない。天に従う者が生き残る。存亡の機を、どうして見極めずにいられようか。事がすでに決した以上、人は迷いに固執してはならない。

伏して惟うに、皇帝陛下は謹んで先祖の遺志を奉じ、正統を受け継ぎ、これを盛んにしておられる。皇天が乱を誅するために人の手を借り、生民が首を長くして救済を待ち望んでいるのも、そのためである。

臣らはもとより一旅の軍を率いていたが、たまたま百六の運に遭遇した。秦、晋の征伐が行われて以来、文后が権力を専断するに至るまで、政治も教化もすべてその綱紀を失い、恩威は咫尺の内にも行き渡らなかった。十戸あれば八、九戸までが叛乱を望み、一日のうちに二度、三度も死を覚悟するような有様であった。

滅びゆく遼には、もはや仕えるべき君主がなく、一方、大金には帰順する道があった。そこで一万の兵を率いて漢に帰順した。しかし、燕の地を慰撫すること三年にも及んだ。宋主は「嘉」と記し、秦官はこれを許した。

一飯の恩を思えば、なお七尺の身を捨てても報いたい。だからこそ防衛の労を尽くし、報恩の成果を上げようとした。しかし戦う兵はすでに少なく、残された力をどこに用いることができようか。

まして上帝がこれをお守りくださることを知れば、どうして獣のごとくなお戦おうなどと思えよう。惜しいのは一身ではなく、罪のない百姓たちである。

先ごろ東へ赴いた際には、雷のような勢いであえて侵犯したこともあった。今こうして北面するからには、なお天地の寛容を願っている。

臣らは謹んで、燕の文武官吏・将校ならびに馬歩の甲兵十万、さらに官に属する穀物・銭帛その他諸物をことごとく添え、ここに表を奉って上進し、奏聞いたします。

蕭后は密かに蕭干へ報告した。蕭干は精鋭三千を率いて燕京へ戻り、巷戦を行った。劉光世は約束を破って来援せず、郭薬師は援軍を失って敗れ、可世とともに馬を捨てて城壁から縄を垂らし、城外へ逃れた。死傷者は半数を超え、可世も戦死した。

劉延慶は盧溝の南に陣営を置いた。蕭干は兵を分けて糧道を断った。

延慶はこれを聞いて信じ、明日の合図として火を焚くことにした。敵が来たと思い込み、ただちに陣営を焼いて逃走したため、兵卒は踏み合い、死者は百余里に及んだ。

蕭干はその機に兵を放って涿水まで追撃し、引き揚げた。

熙寧・元豊以来蓄えてきた軍需物資はほとんど尽き果て、雄州へ退いて守った。燕の人々は宋の無能を知り、賦や歌を作ってこれを嘲った。

その日の夕方、盧溝河北岸の四方で火が上がった。延慶と光国、光世は敵襲だと思った。陣営が焼けるや逃走し、五軍が入り乱れて騒ぎとなり、互いに踏み合い、崖や谷へ転落した者は数知れなかった。

軍需品はすべて捨て、百余里にわたって次々と逃走した。夜明け前、賊はそれに気づき、そのまま後を追った。白溝河まで転戦し、常勝軍の高望と交戦したが、また大敗した。

熙寧・元豊以来蓄えてきた軍需物資は、ついに尽きた。

燕の人々は延慶を嘲る歌や賦を作り、敵国にも伝わって笑いものとなった。

童貫は兵を進めて遼を攻撃したが敗れ、雄州へ退いて守った。詔が下って帰還し、統制の種師道は右衛将軍に左遷され、致仕した。

真定へ向かう途中、漢英が彼に言った。

「私はいまだに大国が兵を用いる意図を理解しておりません。まして中国の人々に分かるはずもないでしょう。だからこそ彼らが降伏しないのも当然です。今、捕らえた者を皆殺しにしていないのを見ました。しかし、そんなことをどうして一人一人に知らせられましょう。私のような者に説かせれば、河北の堅城も戦わずして落とせるでしょう」

「もし大王が三万の兵を私に任せてくだされば、十万の軍を用いることができます。そこで私を真定、中山府へ遣わしていただき、忠勇にして戦いを恐れぬ兵馬を募り、一つの軍として統制させてください」

女真軍は平州の松林から古北口へ向かい、南朝軍は雄州から白溝へ向かい、挟み撃ちにすることを約束した。約束を違えては、すでに承諾した盟約を守ることができない。

もし将来、全軍を挙げる際、貴朝が挟撃に加わらないのであれば、先に約したことを確かなものとして扱うことはできない。

彼は言った。

「契丹の国土の十分の九は、すでに我々が取った。残るは燕京の一分だけだ。私は三方から兵馬を迫らせ、そちらに取らせようとしているのに、なぜそんなに受け身なのだ。どうしてまだ落とせない?

初めて南軍が盧溝河に到着し、燕へ入ったと聞いたとき、私は心から喜んだ。南家の故地なのだから、奴らに取り戻させればよい。私と奴らで境界を定め、軍馬を国へ帰せば、すぐに太平が来る。

ところが近ごろ聞けば、都統の劉延慶が一晩で逃げたという。いったいどういう有様なのだ?」

金は遼を破り、燕京を奪った。

このとき童貫は再び燕を討ったが成功せず、罪を問われるのを恐れた。

男子の陰毛は蛇に咬まれたときに効く。口に含んで二十本を飲み込み、その汁を腹へ入れることで毒が体内に入らないようにする。

秦桧は初めて科挙に及第した後……達夫が宮門に赴き、密州教授に任じた。翟公巽が知州を務めていたが、任期を終えて朝廷へ戻る際、秦桧を朝廷に推薦したため、学官を得た。

その後、鄭氏に取り入って鴻辞科に及第し、呉幵がその才能と学識を強く推薦したため、郎官に任じられた。

「旅遊媚年春、年春媚遊人。」

天輔七年五月、左企弓、虞仲文、曹勇義、康公弼が広陵へ赴いた。平州を通過したところ、覺が使者を殺すよう命じ、栗林の下で殺害した。そこで南京を占拠して叛き、宋へ帰順したため、宋はこれを受け入れた。

宗望の軍が南京城の東へ到着すると、張覚の兵は大敗し、夜陰に乗じて逃走した。そのまま宋へ奔り、燕京へ入った。

宗望は叛徒を受け入れたことを宋の安撫司に責め、張覚を引き渡すよう要求した。宣撫の王安中は張覚を甲仗庫に隠し、「そのような者はいない」と答えた。

宗望の要求がますます厳しくなると、安中はやむなく張覚に似た男を一人斬り、その身代わりとした。

しかし金人は見破った。

「張覚ではない」

安中は仕方なく張覚を引き出し、罪状を数え上げた。張覚は宋人を口汚く罵り続けたため、ついにこれを殺し、その首を箱に入れて金人へ渡した。

燕京の降将と常勝軍は皆、涙を流した。

郭薬師は自ら言った。

「もし奴らが薬師を引き渡せと言ってきたら、私はどうすればよいのだ?」

これ以後、降将も兵卒も皆、心がばらばらになった。

劉豫、字は彦游、景州阜城の人。家は代々農民で、劉豫の代になって初めて進士を受験した……若い頃、同宿の学生から白金の盂と紫紗の衣を盗んだことがあった。

上は批して言った。

「劉豫は河北の村の老人にすぎず、礼制を知らない。吏部へ送り、任地を与えよ」

靖康元年、金兵が汴京を攻め、使者を遣わして三鎮の割譲を要求した。

秦桧は軍事について四つの策を上奏した。

第一に、金人の要求には際限がないので、燕山一路だけを許すべきだと述べた。

第二に、金人は詐術に長けているので、防御を怠ってはならないと述べた。

第三に、百官を集めて詳しく議論し、妥当な内容を選んで誓書に記すべきだと願い出た。

第四に、金使を宮外の館に留め、宮門内に入れたり、殿上へ引き入れたりしてはならないと願い出た。

しかし返答はなかった。

秦桧は職方員外郎に任じられ、ほどなく張邦昌の下で公事を担当した。

秦桧は言った。

「今回の行いは、ただ土地を割譲するためのものです。私が最初に申し上げたこととは矛盾しており、私の本心に背いています」

三度にわたり上奏して辞職を願い出たところ、許された。

海上の盟では、両国は兄弟となり、万世にわたって変わらないと約した。

皇太子が寝台の前まで来ると、激しく泣き、命を受けることを拒んだ。童貫と李邦彦が御衣を着せようとしたが、皇太子は全身で身を投げ出し、あえて受けようとしなかった。

上皇はさらに左書して言った。

「お前が受けなければ、不孝ということになる」

皇太子は答えた。

「臣がこれを受ければ、それこそ不孝となります」

徽宗は皇太子に詔して位を継がせ、自らを道君皇帝と称した。皇太子を急いで禁中へ入れさせ、御服を着せた。

皇太子は涙を流して固辞し、そのため病に倒れた。それでも再び固辞したが、許されなかった。

辛酉、皇帝の位に即き、垂拱殿に出御して群臣と会見した。

欽宗は帝を召して意向を告げたところ、帝は慷慨して行くことを願い出た。そこで少宰の張邦昌を計議使に任じ、帝とともに赴かせた。

これによって治安を図ろうとしたのであるが、民はその恩を知らず、喜ばなかった。

格言や論説を述べる名士を集め、世論は直言する臣を渇望した。

これより先、朝廷は監察御史の張澂に開封府の公人を率いさせ、広南へ赴いて童貫を追跡させた。行く先々の州軍で刑を執行した。

八月二十三日、南雄州に到着して童貫に追いつき、聖旨に従って処分し、使院で斬首した。

しかし三刀振るっても首を断ち切れなかったため、死体を門の敷居にもたせかけ、そこで首を切断した。その首を取り、水銀などに浸して保存し、管に収めて宮廷へ届けた。

康王と張邦昌が軍営に到着し、斡離不に会った。

邦昌は恐怖し、ただ涙を流すばかりだった。しかし康王だけは顔色を変えず、言葉にも屈服したところがなかった。

そのため金国の諸将は、これは親王ではないのではないかと疑った。

敵営に数日留め置かれた後、金国太子とともに射術を習うことになった。康王は三本の矢を連続して放ち、すべて的の中心に命中させた。三本が連珠のように途切れなかった。

金太子は言った。

「これはきっと臣下の良家の子だ。親王の身代わりとして人質に来ているのだろう」

そして斡離不に言った。

「康王は本物ではないようだ。もし本当に親王なら、深宮で育ったはずだ。どうしてこれほど武芸に習熟し、騎射に精通していようか。別の太子を人質としてよこすよう求めるべきだ」

斡離不も心中ではこれを恐れた。

その夜、宣撫司都統制の姚平仲が歩騎一万を率いて金軍の寨を夜襲したが、敗れて戻った。

ちょうど京畿宣撫司都統制の姚平仲が夜、金人の砦を襲ったが成功しなかった。金人はこれを責めた。

邦昌は恐怖して涙を流したが、帝は動じなかった。斡離不はこれを怪しみ、さらに粛王を要求した。

このとき天寧節であった。龍徳宮へ赴いて上寿し、酒を飲んだ。

上皇は再び一杯を注いで上に勧めた。大臣の中には上の足を踏む者もいた。

上は固く辞し、酒を飲まずに退いた。

上皇は号泣して宮中へ入った。

ああ、靖康の君臣よ! 外敵の憂患を防ぐのではなく、上皇が宮中で起こす変事を防ぐことを恐れ、ついにはここまで至ったのか!

金には耶律余睹という者がおり、多数の契丹兵を率いていたが、金人に二心を抱いていた。これと結んで斡離不を討つことができる。

粘没喝が政務を執るようになると、仲恭と余睹はいずれも遼の貴戚であり、旧臣でもあるうえ、今は金で権勢を握っているので、亡国の悲しみを抱いているはずだと考え、これを信用した。

そこで蝋書によって仲恭に命じ、余睹へ届けさせ、内応させようとした。

仲恭が戻って斡離不に会うと、ただちに蝋書を差し出した。

……こうして金主晟は粘没喝を左副元帥、斡離不を右副元帥とし、それぞれ別路から南へ侵攻させた。

祭祀の際には、供物となる犠牲を準備する。

王云、字は子飛、沢州の人。父の献可は英州刺史、知瀘州にまで昇った。

黄庭堅が涪州へ左遷されたとき、献可は彼を非常に厚くもてなし、当時の人々から称賛された。

云は進士に及第し、高麗への使者に従い、『鶏林志』を著して献上した。抜擢されて秘書省校書郎となり、外へ出て簡州知州となり、その後陝西転運副使へ昇った。

宣和年間、童貫に従って宣撫幕府に入った。

その後、兵部員外郎、起居中書舎人となった。

靖康元年、給事中として斡離不の軍に使いし、三鎮を割譲して和睦することを議した。

使いから帰ると、斡離不の意向を伝え、粘罕が朝廷から余観へ送った蝋書を手に入れたため、粘罕は「中国は信用できない」と固く信じ、和約を破ろうとしている、と述べた。

このとき磁州に宿営し、守臣の宗沢とも不和になった。

そこで王は嘉応神祠へ参詣した。云は後ろにいた。

民が道を遮って諫めた。

「粛王はすでに金人に留め置かれています。王殿が北へ行くべきではありません」

そして声を荒らげて云を指さした。

「堅壁清野をした者だ。まさに奸賊だ!」

王が廟を出て進むと、誰かが云の荷物を開いた。中から烏絹の短巾が出てきた。

云は以前から眩暈の病があり、寝るときに頭を守るために使っていたものである。

民はますます彼を奸賊だと信じ、騒ぎ立てて殺した。

王は事態が険悪になったのを見て、南へ戻り相州へ向かった。

この一件について、云が死ななければ、王は必ず北へ向かっただろう。これをもって天命を検証できると論じる者もいた。

靖康元年閏十一月二十五日丙辰、郭京が兵を率いて宣化門から出撃したが敗れ、金人が城壁へ登り、京師は陥落した。

この日は大雪だった。粘罕は部下に言った。

「雪がこれほど降れば、新たに二十万の兵が加わったようなものだ」

金人は大雪に乗じて攻城をさらに激しくした。

これより先、郭京は六甲正兵七千七百七十七人を率い、天清寺に駐屯していた。

京は、自分は豆を投げれば兵に変え、姿を隠すこともできる、六甲の法を使えば二人の元帥を生け捕りにし、金人を一掃できる、と自称していた。

何㮚と孫傅はこれを深く信じ、守備兵をすべて城壁から下ろし、こっそり見てはならないと命じた。

二十五日、京は宣化門を開き、神兵を城外へ出した。

金兵の鉄騎がこれを突き崩すと、神兵は皆、市井の怠け者たちだったため、戦う前から潰走した。死者が濠に折り重なった。

京は言った。

「私は自ら城を下りて法を施す」

そう言って逃走した。

金人はその隙を利用して城壁へ登り、外城は陥落した。

劉延慶は息子の光国とともに万勝門から道を切り開いて脱出し、班直、長入祗候、西兵一万余人を率いた。いずれも御駕を護衛するために選ばれた精鋭であった。

延慶は金明池に落ちて死んだ。

二十六日丁巳、大雪。

金人は四方の城壁に備えられていた防御施設を破壊し、外城をすべて占拠した……京城十六門はすべて蕃兵に占領され、宋軍で城壁上にいる者は一人もいなかった。

三十日辛酉、欽宗は青城の金軍営へ赴いて降伏を請うた。

上は白衣をまとい、百官を率いて南薫門を出て、青城斎宮へ至った。

金人は降表を献上するよう命じ、必ず卑屈な言葉で書くことを要求した。

孫覿らが草案を作り、その大意はこうであった。

「三重に囲まれた城は、たちまち藩屏の守りを失い、七代にわたる宗廟も、灰燼と化す寸前となった。すでに汗馬の労を煩わせた以上、羊を引いて降伏する願いを遅らせることはできない。上皇は罪を負って流離し、微臣は身を捨てて命に従う」

金人は書き直すよう命じ、「大宋」「大金」の文字をすべて削り、「臣桓」とだけ称させた。

帝は涙を流して襟を濡らし、左右の者は誰も顔を上げることができなかった。

その頃、大雪が十日も続き、氷は三尺に凍り、城中では薪が不足した。民は宮殿を壊し、苑の木を伐って炊事の燃料とした……

翌日、金人は二帝を庶人に廃した。

なおも偽りの和議を唱え、人心は少し落ち着いた。

御駕は楼に登り、百姓を呼び集め、宰相の何㮚と済王に和議を命じた。

午後、何㮚と済王が戻り、金使四人を伴って宮中へ入った。

道君皇帝と寧徳皇后を延福宮に入居させた。

何㮚と済王栩を金軍への使者とした。

戊午、何㮚が入って奏上した。

「金人が上皇に郊外へ出るよう求めています」

帝は言った。

「上皇は驚き憂いて病んでおられる。どうしても外へ出よというなら、朕自ら参ろう」

二月六日、帝を廃した。

九日、太上皇帝、皇后、太子、諸王、公主、嬪妃らを郊外へ呼び出した。

二月七日、上皇と諸王、后妃以下が金銅車に乗り、虜営へ向かった。

百姓はこれを見て、皇帝を廃して新たに立てるつもりだと知り、驚き恐れ、心胆を失い、皆、生きることさえ嫌になった。

町の人々は目を見開いて互いを見つめ、顔色は死灰のようで、人心は大いに乱れた。

宋斉愈は紙片に「張邦昌」の三文字を書き、これを王時雍に見せた。時雍はついに決断した。

張叔夜は文書への署名を拒んだ。金人は叔夜を捕らえた。

御史中丞の秦桧は署名せず、抗弁して趙氏宗室を立てるべきだと請願した。

さらに、邦昌が上皇の時代には宴遊ばかりにふけり、権奸と徒党を組み、国政を蝕み乱したため、社稷が傾覆したのは実に邦昌の責任である、と述べた。

金人は怒り、秦桧を捕らえた。

この日は風塵が舞い、日輪に暈がかかって光を失っていた。百官は皆、悲嘆に暮れ、邦昌も顔色を変えた。

ただ王時雍、呉幵、莫俦、范琼らだけは、これを天命を助けた功績として喜んだ。

邦昌の心は安らがなかった。

……王時雍は百官を率いて急いで拝礼した。邦昌はただ東に向かって立ち、手を組んでいた。

邦昌は紅い傘を差して宿所へ戻った後……殿へ上がり、御床の西側に別の椅子を置かせ、そこに座って官員らの賀を受けた。

賀礼が終わると、文武百官が班を組み、張邦昌が立ち上がった。

閣門が伝えた。

「拝礼するな」

しかし時雍は百官を率いて急いで拝礼した。

張は慌てて身を返し、東に向かって手を組み、立ったままでいた。

四月一日、金軍は撤退し、二帝を連れて北へ向かった。

靖康二年三月丁酉、金人は張邦昌を帝に立て、国号を大楚、都を金陵とした。

邦昌は正殿に住むことを恐れ、「朕」と称さず、文書では「手書」と称して「詔」とは呼ばなかった。

百官が朝見するときも「予」とだけ称し、大臣に会えば官職名で呼び、帝とは称さなかった。

人肉の値段は犬や豚よりも安く、肥えて丈夫なものでも一体十五貫にすぎなかった。丸ごと晒して干し肉にした。

登州の范温が忠義の人々を率い、紹興癸丑の年に海を渡って銭塘へ来た。その中には行在まで持ち込み、なお食べている者さえいた。

王彦、字は子才、上党の人。性格は豪放で、兵法を読むことを好んだ。

……裨将の張翼、白安民、岳飛ら十一将を率い、兵七千を率いて河を渡り、金人と戦った。

彦は兵力が少なく敵わないと判断し、包囲を突破して脱出した。

諸将は散り散りになって帰ったが、彦だけは共城西山を守った。

そこで互いに顔へ刺青を入れ、「赤心報国、誓殺金賊」の八字を刻み、他意がないことを示した。

河北招撫司都統制の王彦は、裨将の張翼、白安民、岳飛ら十一将を率い、その部隊七千人を率いて河を渡った……岳飛は自らの部下を率いて去り、独自の一軍となった。

「公がかつて招撫使司都統制を務めていた頃、飛は実に偏将として従っていた。新郷の戦いでは、公の命令に背き、飛は勝手にその部隊を別の寨に置いた」

飛はある日、単騎で公の陣営を訪れ、罪を請うた。

左右の者の中には、公に飛を斬って衆に謝すよう勧める者もいた。飛は恐れ、顔色が変わった。

先臣は自分が彦に受け入れられないことを悟り、独自に一軍を率いて宗沢のもとへ帰った。宗沢はこれを留守司統制とした。

そこで元祐皇后を冊して宋太后とし、延福宮に入れて御した。

邦昌はほどなく謝克家を遣わして「大宋受命宝」を献上し、さらに手書を下して元祐皇后に垂簾聴政を請い、復辟を待つよう願った。

王大郎、名は善、濮州の人。やはり数十万の兵を擁し、六軍に分けていた。

善は初め乱を起こした際、濮州の弓兵がその父を捕らえて殺した。善の勢力が大きくなると、父の仇を討つことを口実に濮州を攻めたが落とせなかった。

さらに雷沢を攻めたが、ここも落とせなかった。

そこで張用と軍を合わせ、いずれも留守の宗沢から招安を受けた。

春に一粒の粟を植えれば、秋には一万粒の実を収穫する。

四海に耕されていない田はないのに、農夫はなお餓死する。

午の刻、日が真上にあるときに禾を鋤けば、汗が禾の下の土へ滴り落ちる。

誰が知ろう、膳の上の飯、一粒一粒に農夫の苦労が込められていることを。

高い髷に雲のような髪を結い、宮中風の化粧を施し、

春風に一曲の『杜韋娘』。

司空には見慣れた、何でもないことなのに、

蘇州刺史の心は断ち切られるほど苦しんだ。

君に一つ、狐疑を決する方法を教えよう。

亀を焼いたり蓍草で占ったりする必要はない。

玉の真贋を試すには三日焼き続け、

材木の良し悪しを見分けるには七年待たねばならない。

周公が流言を恐れた日、王莽がまだ簒奪する前で謙恭に振る舞っていた時。

もしあのとき、すぐに死んでいたなら、

その一生が真実か偽りか、誰に分かっただろうか。

監察御史の馬伸も康王を迎えるべきだと請願したため、邦昌はこれに従った。

ほどなく使者を遣わし、御車の衣服や御用品を東京へ届けた。

その後、邦昌も到着し、地に伏して激しく泣き、死を請うた。王はこれを慰めた。

王は皇帝の位に即き、李綱を宰相とし、邦昌を太保、奉国軍節度使に移し、同安郡王に封じた。

諸生に言った。

「天子を脅迫してよいのか? なぜ退かない?」

諸生は答えた。

「忠義をもって天子を脅迫するのは、奸佞が天子を脅迫するより、まだよいではありませんか!」

再び前へ出て殴ろうとしたが、時雍は逃げ去った。

帝は怒り、言った。

「もし速やかに誅さなければ、また群衆を煽り、宮門へ押しかけるだろう……」

しばらくして、東へ向かい、冠帯を整えて同邸を出た。

そして同じく市で斬られた。

もし邦が凶荒に遭えば、民を移住させ、財を融通し、守令を取り締まって刑罰を緩めよ。

京城統制官の張用と王善は、すでに杜充から疑われていたため、兵を率いて去り、淮寧府を犯した。

王善は陳州を包囲し、飛は清河で戦い、その将の孫勝、孫清を捕らえた。

張用は江西を荒らした。

張用も相州の人であったため、飛は書を送って諭した。

「私はお前と同郷だ。南薫門、鉄路歩の戦いも、すべてお前の知るところだろう。今、私はここにいる。戦うなら出てこい。戦わないなら降伏せよ」

賊首の王善、曹成、張用、董彦政、孔彦舟が五十万の兵を率い、南薫門外へ迫った。太鼓の音が大地を震わせた。

杜充は先臣の肩を叩いて言った。

「京師の存亡は、この一戦にかかっている!」

そのとき先臣の部隊はわずか八百人だった。皆、敵に勝てないのではないかと恐れた。

先臣は言った。

「賊は多いが、統制が取れていない。私が諸君のためにこれを破る!」

左手に弓矢を持ち、右手に鉄矛を振るい、数騎を率いて敵軍を横切った。

賊軍は果たして乱れた。

後続の騎兵も皆、死に物狂いで戦い、午の刻から申の刻までに賊軍は大敗した。

杜充はその功績を記録し、武経大夫へ昇進させた。

杜充、字は公美、相州の人……再び滄州知州となった。

このとき金人が南へ侵攻しており、郡内に仮住まいしていた者は皆、燕の地から帰ってきた人々だった。

杜充は敵の内応者となることを恐れ、彼らを皆殺しにして一人も残さなかった。

杜充は急いで統制官の陳淬に命じ、岳飛の諸裨校をすべて合わせて二万人を率い、馬家渡で敵を迎撃させた。王にも進軍を約束させた。

敵の気勢は非常に鋭かった。陳淬は戦死し、兵を率いて逃走したため、杜充の軍は潰走した。

高宗建炎二年冬、杜充は黄河を決壊させ、泗水から淮水へ流して金兵を阻んだ。

もともと杜充は宋の建炎二年、李固渡で黄河を決壊させた。河はそこで南北二つの流れに分かれ、南流は泗水へ入り、淮水へ流れ込んだ。この流れは数百年にわたり、北へ戻ることがなかった。

高宗はそこで御批を下した。

「邦昌は僭逆したので、本来なら誅滅すべきである。しかし、その初志をたどれば、強迫されたことに端を発している。特別に罪を免じ、昭化軍節度使に責任転任させ、潭州に安置せよ」

初め、邦昌が宮中に僭居していたころ、華国靖恭夫人李氏はたびたび果物を邦昌へ献じ、邦昌も厚く返礼した。

ある夜、邦昌が酒に酔っていると、李氏は彼を抱いて言った。

「大家、ここまで来てしまった以上、今さら何を言うことがありましょう」

そして赭色の半臂を邦昌に着せ、福寧殿へ連れ込んだ。

夜、養女の陳氏を装わせて進めた。

邦昌が東府へ戻ると、李氏は密かに見送り、御車を誹謗する言葉を口にした。

帝がこれを聞き、李氏を獄へ下すと、李氏は罪を認めた。

詔して邦昌の罪を数え上げ、潭州で死を賜った。

李氏には脊を杖打ちし、車営の労役へ配した。

時雍、秉哲、幵、俦らはすでに遠方へ流されていたが、このとき時雍も合わせて誅された。

初め、二帝が北へ移されたとき、秦桧は傅、叔夜、何栗、司馬朴らとともに燕山へ至り、さらに韓州へ移された。

上皇は康王が即位したと聞き、書を粘罕へ送り、和議を結ぶことを約した。その文章を秦桧に潤色させた。

秦桧は多額の賄賂を粘罕へ届けた。

ちょうど金主の呉乞買が、秦桧を弟の撻懶へ与えて任用させようとしていた。

前御史中丞の秦桧は、家族を虜営から逃れて帰還し、漣水軍丁祀の水寨へ到着した。

御史中丞の秦桧は、張邦昌を立てることを拒んだため、粘罕に拘束されて北へ送られた。妻の王氏も同行し、ほかには小奴の硯童、小婢の興兕、御史街司の翁順がいるだけだった。

金国へ着くと、虜主文烈帝に会った。

文烈帝は、異姓を立てることに反対し節義を守ったことを高く評価し、弟の撻懶に与えて任用させた。

任用とは、すなわち執事である。

撻懶もその節義を高く評価し、秦桧を非常に親しく信頼した。

金人は南へ移る官員に家族を同行させることを許したため、それぞれ自由に従う者を選んだ。

硯童と翁順は秦桧を捨てて去ることを望まず、共に生死を誓い、ついに離れなかった。

秦桧は撻懶の任用人となり、随行して軍事の謀を立て、また随軍転運使となった。

孫村浦寨にいたとき、楚城が陥落し、孫村浦寨でも金人が騒ぎ立て、楚州へ入ろうと争っていた。

秦桧は以前から少し器用な孫静なら話が通じると思っていたので、淮岸で密かに静と約束した。

混乱に乗じ、淮陽軍・海州の銭糧を催促する名目で、妻の王氏、硯童、興児、翁順、および腹心の高益泰ら数人を連れて小舟に乗り、孫静に帆を張らせて出発させた。

漣水軍の境界へ着くと、丁祀水寨の哨兵に捕らえられ、縄で縛られて殺されそうになった。

秦桧は、水寨がなお国家を守っていることを知り、言った。

「私は御史中丞の秦桧だ」

しかし寨兵は皆、村民であり、その意味を理解しなかった。

范琼は兵を並べて待ち受け、人を剥いで恐怖させた。

秦桧が帰還したとき、本人は、自分を監視していた金人を殺し、舟に乗って逃げてきたと語った。

朝士の多くは疑問を抱いた。

秦桧は何栗、傅、朴らとともに拘束されたはずなのに、なぜ秦桧だけ帰還できたのか。

また燕から楚まで二千八百里もあり、河を越え海を渡らねばならない。監視役を殺して南へ逃げるなど、どうして可能なのか。

仮に撻懶の軍に従っていたとしても、金人が逃がすなら必ず妻子を人質に取るはずだ。それなのに、どうして王氏とともに帰れたのか。

ただ宰相の范宗尹と同知枢密院の李回だけは秦桧と親しく、世間の疑念をことごとく退け、その忠節を強く推薦した。

秦桧は、自分が本来受けるべき恩沢を安道、由義の官へ授けるよう願った。

これによって迪功郎に補され、舟人の孫静も承信郎に授けられた。

四方の上下を「宇」といい、過去から未来までを「宙」という。

「世界」とは何を意味するのか。

「世」とは移り流れる時間であり、「界」とは方位である。

今、そなたは知るがよい。

東西南北、東南、西南、東北、西北、上下を「界」といい、過去、現在、未来を「世」という。

范琼は洪州に軍を置いていた。

苗傅・劉正彦の変の際、慶遠軍節度使、湖北路制置使に任じられたが、琼は兵を率いても合流せず、従わなかった。

上が復辟すると、使者を遣わして宣諭したが、この時になってようやく来朝した。

朝臣らは次々と上奏してその罪を論じた。

枢密院計議官の劉子羽は、琼を誅して暴乱を戒めるべきだと願い出た。

呂頤浩と張浚は必ず殺すと議を定め、都堂へ呼び出した。

劉光世に琼の寨へ入り、その兵を慰撫して安定させ、琼を大理寺へ送らせて死を賜った。

しかし琼はなお服さなかった。

獄吏は刀を鎖骨のくぼみから差し入れ、長い間苦痛の叫び声を上げさせた末、死んだ。

その弟と三人の子も皆、嶺南へ流された。

辛卯、御営平寇将軍范琼は誅された。

琼は靖康年間から金人と通じており、京城が陥落すると、后妃、太子、宗室を脅迫して北へ移した。

また略奪を行って乱を起こし、張邦昌を擁立した。

苗、劉が誅された後、琼は兵を江西から率いて朝廷へ入り、驕慢で無礼な態度を取り、要求を重ねてやまなかった。

張浚はその大逆不道を奏し、罪は死刑でも償えないとした。

そこで都堂へ呼び出し、大理寺へ送って死を賜った。

飛は泰州の失陥について罪を待った。

岳飛は通泰州鎮撫使として、ちょうど江陰軍へ退いて駐屯していた。

戊申に命を受け、己酉に出発し、癸丑に宜興へ到着し、老若の家族を徽州へ移した。

その際、百姓が岳飛の叔父、姚某の狼藉について訴えた。

飛は母にこのことを告げ、叔父を責めて言った。

「叔父の行いはこのような有様です。私にも累が及びます。飛は我慢できますが、軍情と軍法が許すかどうかは分かりません」

母も苦労して諭し、そこでいったん収まった。

別の日、飛は兵官とともに馬を押していた。叔父も一緒だった。

叔父は飛の馬の前へ出て駆け、数十歩ほど離れたところで弓を引き絞り、振り返って飛を射た。

矢は鞍橋に命中した。

飛は馬を駆って叔父を追い、これを捕らえた。

王貴と張憲にその手を押さえさせ、自ら佩刀を取り、胸を切り裂いてから、その肉を細かく切り刻んだ。

そして母のもとへ戻って報告した。

母は言った。

「私はこの弟を深く可愛がっていたのに、どうして突然このようなことをしたのです?」

飛は答えた。

「もしあの矢が少し上か下に当たっていたら、私は死んでいました。叔父に殺されれば、母上が一日安らかに暮らしたいと思っても、それはできません。

今回、矢が鞍橋に当たったのは、天が私を助けたからです。

今日叔父を殺さなければ、いつか必ず叔父に害されます。だから、殺してしまうほうがよいのです」

母もようやく納得した。

順夫は鞍を解き、甲冑を脱ぎ、捕らえた婦人たちに酒の相手をさせた。

再興が兵を率いてその陣営へ直入すると、官軍は退き、順夫を殺し、飛の弟の翻も殺した。

第五将の正将韓順夫は関へ入ると、鞍を解いて酒を飲み、賊将楊再興の襲撃を受けた。順夫は戦死した。

先臣は激怒し、その側近の護衛兵をすべて斬り、副将に再興を捕らえて罪を償わせるよう命じた。

飛は大いに怒り、その側近兵をすべて誅した。

副将の王某に対し、再興を捕らえて罪を償うよう命じた。

糧道がどこからも通じなくなると、先臣は死体を切り裂いて食糧をつないだ。

これより先、飛が洪州に駐屯していたとき、趙秉淵は江南西路兵馬鈐轄として洪州に駐屯していた。

飛は酒に酔って大いに暴れ、秉淵を殴ってほとんど死なせるところまでいき、安撫使の李回がこれを弾劾した。

「壮志あれば、飢えては胡虜の肉を食らい、談笑しながら渇けば匈奴の血を飲む」

傅慶は衛州の窯戸の出身で、勇力があり、戦いに長け、たびたび功績を立てた。

岳飛は彼を寵愛し、前軍統制とした。

慶は自分の才能を頼み、飛を対等の友のように扱った。

かつて言った。

「岳殿がこの一軍を率いていられるのは、私が出陣して功を立てたおかげです」

飛に何かを要求するたび、

「岳殿、傅慶には使う金がありません。金をいくらか、あるいは銭をいくらか工面してください」

と言った。

飛もたびたび与え、嫌な顔をしなかった。

このとき、飛は諸統制に遠矢を射させた。

慶は三回とも百七十歩まで届いたが、他の統制は百五十歩を越えなかった。

飛は三度、慶を賞した。

酒に酔った飛は、御下賜の戦袍と金帯を取り、王貴に渡した。

慶は言った。

「功ある者を賞するべきです」

飛は尋ねた。

「功ある者とは誰だ?」

慶は答えた。

「清水亭で功を立てた傅慶です。傅慶を賞すべきでしょう」

飛は大いに怒り、慶を階下へ叱りつけ、戦袍を取って焼き、金帯を槌で叩き壊した。

そして言った。

「傅慶を斬らずして、どうして衆に示すことができようか!」

そこで斬首を命じた。

二月甲戌朔、郦琼は軍を率いて劉光世に降伏した。

もともと秦桧が進言した二策は、河北の人々を金へ戻し、中原の人々を劉豫のもとへ戻そうというものだった。

帝は言った。

「秦桧は『南人は南へ、北人は北へ』と言った。朕は北方の人間だ。では、朕はどこへ帰ればよいのだ?」

秦桧は言葉に詰まった。

秦桧の官職を剥奪し、朝堂に榜示して、二度と任用しないことを示した。

五月、韓世忠が洪州へ到着し、董旻を遣わして曹成を招安した。成は命を聞き、行在へ赴いた。

「今、陛下がいわゆる将帥と呼んでおられる者は誰でしょうか! 臣には分かっています。

結局のところ、劉光世、韓世忠、張俊、王らのような者たちにすぎません」

王継先は代々医師の家柄で、その祖父は黒虎丹を売って名を上げ、「黒虎丹王家」と称された。

継先は奸黠な性格で、へつらいと追従を好み、男女の戯れにも長けていた。

建炎年間以来、医薬によって高宗の寵愛を受け、かつて上に仙霊脾を服用するよう勧めた。

議論する者は、仙霊脾とは淫羊藿の別名でもあり、確かに陽気を強くするが、長く服用すれば精液が薄くなると言った。

方書によれば、精液が薄ければ子を成すことができない。

しかし継先だけは、それを認めなかった。

継先に至ると、高宗の寵愛を受け、官職を重ねて留後となった。

全国の人々が医師と呼ぶようになり、左遷されてもなお、その呼称だけは立派なものとして残った。

夜、記録を掲げて特に尋ねた。

「秦中丞はお元気か? この人は以前、北軍の中にいたが、なかなかの善人だった」

秦桧が宰相になったと聞くと、またこれを罷免した。

「秦桧は善人なのに、なぜ罷免したのか?」

虜使の李永寿、王翊が聘使として来たとき、まずこのことを話した。ちょうど秦桧の言葉とも一致していた……そして秦桧を賢者として称えた。

六月、観文殿学士、知温州に任じた。

紹興二十九年八月、詔して詳定校正官の王継先らに『大観証類本草』を校定させ、三十二巻にまとめ、『紹興校定経史証類備急本草』と名づけた。

辛卯、内侍の衛茂恂を一官降し、吏部へ送った。

茂恂は岳飛の軍前へ赴いて慰問した際、受け取った贈物が多すぎたため、内批によって降黜された。

輔臣が進呈すると、上は言った。

「受け取った贈物が多すぎるなら、当然、賄賂の罪に問うべきだ。今回、官を一段下げるだけなのは、すでに寛大な処置である。追放して外任とすべきだ」

沈与求は言った。

「陛下がこの一人を罰すれば、後世への戒めとなります」

上は言った。

「罪があれば罰する。それがなぜこの一人だけなのだ」

趙鼎は言った。

「陛下がこのように戒められれば、後の者は必ず犯すことを恐れるでしょう」

先臣は佐を湖へ入り込ませ、楊欽を招降した。

欽は賊軍の勇将であった。

到着すると、先臣は厚く礼遇し、上奏して武義大夫に任じ、金帯と戦袍を賜った。

そこで楊欽は全琮、劉衡らを説得して降伏させ、賊軍の勢力はいよいよ孤立した。

四月、黄佐は周倫の寨を襲撃した。

これを攻め、倫は大敗して逃走した。殺された者や湖へ追い込まれて死んだ者は非常に多かった。

その統制の陳貴ら九人を捕らえ、衣甲や武器を数知れず奪い、寨柵と糧船を一つ残らず焼いた。

五月、岳飛は鼎州へ到着した。

このとき賊寨の黄佐はすでに降伏していた。飛は佐に官職を授けるよう上奏し、湖中へ戻らせた。

張浚は真夏なので急ぐべき時ではないと言った。

飛は言った。

「八日のうちに賊を破ります」

そこで飛は閘口を掘り開き、湖水を江へ流した。

賊寨の水は干上がった。

さらに草木で港や水路を塞ぎ、賊の車船が動けないようにした。

飛は人を遣わして賊に呼びかけた。

賊は出てきて降伏した。

楊幺は水へ身を投じたが、牛皋が捕らえて斬った。

夏誠らはなお守り続けたため、飛はその寨を攻め破り、誠を捕らえた。

詔して飛を潭州へ赴かせ、張浚に楊幺の討伐を監督させた。

当時、楊幺は洞庭湖を拠点として出没し、略奪を繰り返していた。官軍は多くがこれに苦しめられていた。

飛が到着すると、檄文を移して招諭した。

黄佐が降伏すると、飛は上奏して佐を武義大夫に任じ、湖へ戻らせた。

ほどなく楊欽も降伏した。

飛はまた上奏して欽を武義大夫に任じ、帰還させた。

そして軽舟で湖へ入り、水寨を破った。

楊幺は水へ身を投じて死に、その首を斬った。

その一党をことごとく捕らえた。

張浚が遣わした諸将は皆、功を立てられなかったが、飛は八日で平定した。

偽統制の陳瑫らは鐘儀の船を襲い、金の交床、龍鳳簟を奪って降伏してきた。

残党も次々と屈服し、数千の首を斬った。

この日、荊湖制置使の岳飛は湖賊の夏誠を破った。

飛は楊欽を降伏させた後、統制官の牛皋、傅選、王剛を率いて勝勢に乗じ、水寨を攻撃した。

賊将の陳瑫が内応し、偽太子の鐘子儀の船を奪い、金龍の交床、龍鳳簟などを携えて飛のもとへ降伏した。

楊幺は追い詰められて水へ身を投げて死んだ。

残党の劉衡らも次々と降伏した。

飛が賊寨へ入ると、賊衆をほとんど皆殺しにした。ただ夏誠の寨だけは固く守られていた。

「法は貴賤、貧富を分けている。これは善い法ではない。私が法を行うなら、貴賤を等しくし、貧富を均しくする」

この言葉をもって小民を動かした。

そのため数百里の範囲にいる無知な民は、皆一斉に従った。

食糧を用意して互いに訪ね合い、道には人々が絶えず行き交った。

これを「拝爺」と呼んだ。

このとき鼎州には守臣がおらず、湖北提刑の王彦成はすでに家族を連れて岳州を巡察していた。

単世卿は龍陽へ逃れ、家族を迎えに行き、船に乗って東へ下ったため、ただ自分一人だけが逃げ延びた。

その他の官吏には統制する力がなかった。

賊はますます猖獗し、官府、城市、寺観、神廟、豪族の家を焼き、官吏、儒生、僧道、巫医、卜祝、さらには個人的な恨みを持つ者まで殺した。

賊兵を「爺児」と呼び、国の法典を「邪法」と呼び、人を殺すことを「行法」、財物を奪うことを「均平」と呼んだ。

病人には薬を飲ませず、死者には葬儀をさせなかった。

ただ「拝爺」によって常道を乱すことだけを事とした。

人々は皆、喜んでこれに加わり、それが天理にかなった当然のことだと思った。

海舟は福建船を最上とし、広東西船をその次とし、温州・明州の船をさらにその次とする。

「中国の名は赤県神州という。

赤県神州の内部には、それ自体に九州がある。これが禹が定めた九州であり、州の数に加えてはならない。

中国の外には、赤県神州のようなものが九つある。これがいわゆる九州である」

六年二月、襄陽府知府、京西南路安撫使となったが、彦は岳飛との不和を理由に辞退した。

今、法令の中で御軍ほど厳しいものはなく、軍法の中で逃走ほど厳しく処罰されるものはない。

この日、行営前護副軍都統制の王彦は荊南から出発し、その八字軍一万を率いて行在へ赴いた。

統制官の焦文通、準備将の趙樽らも同行した。

彦が鄂州へ到着する前、湖北京西宣撫副使の岳飛は人を遣わし、船を岸へ寄せて会いたいと誘った。

彦はこれを許したが、風向きがよくなると、ただちに綱を解き、帆を張って鄂渚へ下った。

その速さは飛ぶようであった。

飛は岸からその船が通り過ぎるのを眺め、長く嘆息し、深く感服してから去った。

彦はそこで、解潜の軍中から逃亡兵を捕らえるよう将に命じた。

軍士が市中で互いに争ったため、言官はその軍政が不粛であると論じ、官位を二等降格した。

彦は心安らがず、残りの服喪期間を全うしたいと願い出た。

彦は兵権を解くよう願い、洪州観察使、知邵州へ降格され、その軍を劉琦の隷下に置いた。

「岳を見れば必ず茶を点て、料理を用意した。

かつて密かに岳に言った。

『君は猪の精だ。精霊が人間界に現れるからには、必ず尋常ではないことが起こる。

いつか朝廷のために十万の軍を握り、功を立て、三公にまで昇るだろう。

しかし猪という生き物は、善い最期を迎えたためしがない。必ず人に屠られる』」

「天は雲濤に接して暁霧に連なり、

星河は今にも動き出し、千帆が舞う。

夢の魂が帝のもとへ帰ったかのようだ。

天の言葉を聞き、懇ろに尋ねられた。

『お前はどこへ帰りたいのか』」

朝廷がすでに犯した過ちは、世論に耳を傾けることで知ることができる。

酒色に酔いしれ、国事を顧みず、恢復の話をすれば、たちまち不機嫌な顔をする。

光世は驕慢で怠惰、戦わない。大将とすることはできない。罷免すべきである。

光世を少師、万寿観使とし、奉朝請とし、栄国公に封じ、その兵を都督府に隷属させた。

王徳らに御札を下した。

「朕が思うに、兵家の事は勢いが合すれば強くなる。

劉光世はすでに兵権を解いた。今、岳飛に汝らの軍をすべて統括させる。汝らの率いる軍馬は、すべて飛の号令に従え」

これより先、上は寝殿においてひそかに岳飛を召し、面前で諭した。

「中興のことは、朕がすべて卿に任せる。

ただ張俊、韓世忠の二軍は節制を受けない。それ以外の諸路の兵馬は、すべて卿の節制を受けるものとする」

右僕射の張浚は強く反対した。

飛の兵権が重くなりすぎ、末端が大きくなって制御できなくなり、祖宗以来の将軍を御する制度を壊すことを恐れたのである。

枢密の秦桧もこれに同調し、武臣が兵を専有する弊害をたびたび進言した。

上は疑い、ついに以前の議を変更し、兵を割り当てる命を撤回した。

浚は王徳を都統制とし、郦琼を副将、呂祉に節制させようとし、岳飛に相談した。

飛は言った。

「淮西の一軍は盗賊出身者が多く、変事は一瞬にして起こります。

王徳と郦琼は互いに譲らず、突然上下を分ければ、必ず争いになります。

呂祉は書生で軍事に習熟しておらず、諸将を制御することは難しいでしょう」

浚は張俊、楊沂中を次々に挙げたが、飛はことごとく不適任だと答えた。

浚は怒って言った。

「お前の意中にあるのは、結局、公自身ではないか!」

飛は兵を欲しているのではないと強く弁明し、その日のうちに兵権を解くよう願い出た。

初め、岳飛は兵権を解かれて江州、廬山へ赴き、残りの服喪期間を過ごしていた。

朝廷は何度も召して催促したが、飛は出てこなかった。

そこで朝廷は宣撫司参議官の李若虚と統制の王貴を遣わし、以前どおり軍を統率するよう強く請願させた。

もし従わなければ、若虚らも軍法により処刑すると命じた。

若虚らが廬山東林寺に到着し、飛に朝廷の意向を伝えて強く要請したが、飛は固く拒んで出ようとしなかった。

若虚は言った。

「謀反するつもりですか? これは良いことではありません。

もし固く拒み続ければ、朝廷は宣撫を疑うのではありませんか。

しかも宣撫は河北の一農夫にすぎません。天子から任命され、兵権を与えられているからといって、宣撫は朝廷と対抗できると思っているのですか?

宣撫が固く拒み続ければ、我々若虚らは刑を受けて死ぬことになります。

我々が宣撫に何の罪を負わせたというのでしょう?

宣撫の心は、それで恥じないのですか?」

六日後、飛はようやく詔を受け、行在へ赴いた。

飛はかつて自ら言った。

「私は太祖と同じく、三十歳で節度使になった」

八月戊辰、郦琼は廬州で叛いた。

王徳が都統制に任じられてから、郦琼とは以前から互いに譲らなかった。

呂祉は書生で軍を治め、簡慢で疎略、軍情を顧みず、密かに郦琼を排除しようとしていた。

書吏がその謀を漏らしたため、郦琼は麾下の諸校へ広く知らせた。

翌朝、府へ赴いて呂祉を捕らえ、張景、喬仲福を殺し、全軍を脅迫して出発させた。

淮水へ近づくと、呂祉は馬を止めて進もうとせず、罵った。

「劉豫は簒逆の賊だ。私は死んでも北へは行かぬ!」

郦琼は怒り、淮岸で呂祉を斬った。

兵四万を率いて寿春へ向かい、淮水を渡って劉豫に降伏した。

順昌府から報告が届いた。

郦琼の全軍四万が、淮西の士民十余万人を伴って投降してきた。

豫は高官を郊外へ遣わして出迎え、すべて編入した。

劉豫は文徳殿で会見し、爵禄を厚く与えた。

琼は南宋の辺境防備の虚実を詳しく述べ、たびたび豫のために南侵の策を立て、さらに人を金国へ遣わして援軍を求めた。

名を書かず、ただ「老先生」と直接呼んだ。

天会十五年、詔して斉国を廃し、豫を蜀王に降封した。

豫が大号を称したのは八年に及んだ。

そこで汴京に行台尚書省を置き、豫の弊政を除いたため、人々は大いに喜んだ。

この日、金人は劉豫を蜀王に廃した。

これより先、右副元帥の宗弼が劉麟を捕らえると、左副元帥の昌、三路都統の葛王袖とともに急いで京城へ赴き、騎兵を率いて宣徳門、東華門、左右掖門を守った。

宗弼は袖ら三騎を率い、東華門へ突入した。

「劉斉王はどこにいる?」

偽皇城使らは驚き、答えられなかった。

宗弼は鞭で彼を打ち、まっすぐ垂拱殿へ向かった。

後宮門へ入り、再び尋ねた。

「劉斉王はどこだ?」

美人の一人が簾を上げて言った。

「講武殿で射術を試しておられます」

宗弼らは駆けつけ、まっすぐ殿へ上がった。

豫は慌てて立ち上がり、着替えようとした。

宗弼は馬から降り、その手をつかんで言った。

「必要ない。急ぎの公事がある。門の外へ出て一緒に相談したい」

こうしてともに出て、宣徳門を出て東闕亭へ行き、しばらく立った。

宗弼はそこで小卒に痩せ馬を持たせ、豫を無理に乗せ、寨へ連れて行って相談すると言った。

豫は手を叩いて大笑いし、馬に乗った。

護衛もなお数十人いた。

宗弼は刃を見せ、左右から挟んでこれを捕らえ、金明池へ幽閉した。

翌日、金人は偽百官を集め、金主の詔を宣して斉を廃し、偽朝廷を廃止し、汴京に行台尚書省を置いた。

豫は麟を太子に立てるよう請願した。

金主亶は言った。

「河南の百姓に尋ねてから決めよう」

昌は言った。

「蜀王よ、お前は趙氏の少帝が京を出た日を見なかったのか。万民が額を焼き、腕を焼いて泣き叫び、その声は十余里にも聞こえた。

今、お前が京に廃されているというのに、哀れむ者は一人もいない。

なぜ自分の罪が分からないのだ?」

宋使の王倫は河南、陝西の地を達蘭に求めた。

翌年、達蘭が京師へ参朝すると、廃斉の旧地を宋へ与えるべきだと提案した。

熙宗は群臣に議論させた。

ちょうど東京留守の宗隽が参朝しており、達蘭と力を合わせた。

宗干らは争ったが、勝てなかった。

宗隽は言った。

「我々が土地を宋へ与えれば、宋は必ず我々に恩を感じる」

宗憲はこれを反論した。

「我々は宋人の父兄を捕らえている。恨みは一日や二日のものではない。

もしさらに土地まで与えれば、仇敵を助けることになる。どうして恩を感じることがあろうか。

与えてはならない」

達蘭の弟勖もまた、与えるべきではないとした。

……このとき太宗の長子宗磐が宰相となり、宗干より上位にいた。

達蘭と宗隽はこれに与し、ついに河南、陝西の地を宋へ与える議を押し通し、張通古を「江南招諭使」として派遣した。

上は徽宗の喪制がまだ終わらず、諒陰の喪に服していたため、自ら冊封を受ける礼を行うことは難しいとして、宰臣の秦桧に命じて金国の詔書を代わりに受けさせた。

今月十二日、進奏院から届けられた赦書一通を受け取り、臣はただちに統制、統領、将佐、官属らを率い、宮門を望んでこれを読み上げました。

時勢を観察して制度を変え、聖哲の宏大な規範を仰ぎます。

勝つことを善しとし、争わない。実に帝王の妙算です。

この長き苦難を思えば、ひとまず和好の道を取るのもよいでしょう。

御徳が広く行き渡り、世論も皆喜んでおります。

臣飛、誠に喜び、誠に感激し、頭を地につけて再拝いたします。

ひそかに考えますに、婁敬が漢帝へ献策したこと、魏絳が晋公のために策を立てたこと、いずれも盟書の墨がまだ乾かず、口の血もまだ残っているうちに、たちまち南へ牧馬を走らせ、ほどなく北伐の軍を興しました。

強敵は誠意を持たず、虚言には信がありません。

金石のように堅固な盟約を守ることもできず、深い谷を満たすような欲求を満たすこともできない。

一時の安寧を求め、逆さ吊りにされたような民を救うためなら、それもよいでしょう。

しかし長い将来を考え、中国を尊ぶというのは、果たして本当にそれでよいのでしょうか。

金使の張通古、蕭哲は「江南を諭す」という名目で来た。

秦桧は世論から自分を責められることをなお恐れ、蕭哲らと相談して、「江南」を「宋」に、「詔諭」を「国信」に改めた。

十二月二十八日、桧は客館へ赴き、金使の張通古、蕭哲と面会し、跪いて詔を受けた。

臣構言す。

今ここに国境を画定するにあたり、淮水の中央を境界とし、西方では唐州、鄧州を上国へ割属する。

鄧州より西四十里、ならびに南四十里を鄧州に属する境とし、その四十里の外および西南はすべて光化軍に属し、我が国の沿辺州城とする。

すでに恩を蒙り、藩方として備えることを許された以上、世々子孫に至るまで謹んで臣節を守ります。

毎年、皇帝の誕生日と元旦には使者を遣わして賀を申し上げ、絶えることがないようにいたします。

歳ごとに銀二十五万両、絹二十五万匹を貢ぎ、壬戌年を始めとして、毎年春季に人を遣わし、泗州へ運んで納めます。

もしこの盟約に背けば、明神がこれを誅し、命を落とし、氏を滅ぼし、国家を倒すことになるでしょう。

臣は今、誓表を進上いたしました。

伏して願いますのは、上国が速やかに誓詔を下し、我が国が永くこれを頼りとできますように。

皇帝若曰く。

「咨、宋康王趙構よ。

天は汝の国に喪を降し、汝は斉との盟約をしばしば汚し、自ら転覆を招いた。

汝を越の地、江表へ追いやり、我が軍を働かせること、すでに十八年になる。

朕はこれを深く悲しむ。

この民に何の罪があろうか。

今や天は災いを悔い、汝の心を大いに導いた。

奏書が相次いで届き、自ら藩輔の列に加わることを願い出た。

今、光禄大夫、左宣徽使の劉筈らを遣わし、節を持たせ、汝を帝に冊命する。

国号は宋とし、代々臣の職を務め、永く我が屏翰となれ。

ああ、謹め。

敬んで朕の命を聞け」

「張浚を再び用いてください」

上は厳しい声で言った。

「国を覆すことになっても、この者は用いぬ!」

韓世忠は和議が成立したと聞いて喜ばず、洪沢に兵を伏せた。

偽って紅巾の兵とし、通古らが楚州へ戻るところを待ち受け、これを襲って殺し、和議を破ろうとした。

……そのため通古は真州、和州から淮西を経て帰った。

「建国以来、先朝の父君が友好を求め、私は誠をもって接した。それなのに彼は詐りをもって欺いた。

海を渡る使者は頻繁に来るのに、土地を求める言葉はさらに卑屈だ」

世忠軍には将官の郝卞という者がいた。

彼は転運副使の胡昉を訪ね、密かにこの件を告げた。

昉は大いに驚き、蕭胄に報告し、そこで上奏文を整え、道を変更するよう願い出た。

真州、和州から廬州へ取り、淮西を通って去ることにした。

昉、字は元顕。建炎三年、淮陰軍知軍となった。

韓世忠が淮陰に駐屯していた際、昉は厚くこれをもてなした。

後に昉を淮東宣撫処置使司参議に招いた。

紹興五年、楚州知州となり、沿淮安撫司公事を兼ねた。

八年、直秘閣、淮東転運副使となった。

いずれも世忠の引き立てによるものであった。

使者の道を変えたことで、世忠は昉が自分を裏切ったことに激怒した。

世忠は郝卞が謀を漏らしたと知り、追って殺そうとした。

卞は家を捨てて鄂州へ逃れ、旧友の李啓を頼った。

啓はこれを受け入れて匿った。

李啓は岳飛軍中の回易官で、計略に富み、財賦をやりくりすることができた。

しかし自らは布衣と草鞋だけを身につけ、雨の中でも自分で傘を持って歩いた。

飛の軍を助けることが非常に多かった。

功を成し遂げられなかったため、青い騾馬に乗って逃亡し、一昼夜で七百五十里を駆け、邓州へ着いて初めて食事を取った。

武関へ入り、長安へ至り、華山に隠れようとしたが、ここでは浅いと思い、蜀へ逃れた。

青城山上清宮へ着くと一日留まり、さらに大面山へ二百七十余里入った。

薬採りの者でもここまで来ることはできないだろうと考え、乗ってきた騾馬を放し、石穴を得てそこに住んだ。

朝廷は何度も詔を下して行方を探したが、見つけることができなかった。

乾道、淳熙年間になって初めて姿を現し、丈人観道院へ至って、自らこのことを語った。

そのとき八十余歳。

紫色の髭は豊かに茂り、数尺の長さがあり、顔には生気が満ちて光を放っていた。

崖や谷、荊棘をものともせず歩き、その速さは奔馬のようだった。

時には人のために草書を書き、その書は非常に奇抜で雄大だった。

天眷三年五月丙子、詔して元帥府に河南、陝西の地を再び奪取させた。

都元帥宗弼に兵を率いさせ、黎陽から汴へ向かわせ、右監軍撒離喝を河中から陝西へ向かわせた。

この月、河南が平定された。

六月、陝西が平定された。

秋七月乙卯、宗弼は使者を遣わして河南、陝西の勝利を奏上した。

飛は厚く餞別を贈ったが、次膺は受け取らず、鄱陽へ入り、宮祠に寓居した。

上は宰執に言った。

「岳飛の勝利には、兵家として多少の粉飾があるのではないか。書を通じて詳しく尋ねよ。賞典を惜しんでいるのではない。今後どう処置すべきか知りたいのだ」

楊再興、王蘭、高林が戦死した。

もともと兀術には強力な軍があり、皆、重い鎧を着ていた。

韋索でつなぎ、三人を一組とした。これを「拐子馬」と呼び、また「鉄浮図」とも呼んだ。

壁のように進み、官軍はこれに対抗できず、行く先々でたびたび勝利した。

二十一日壬戌、岳飛は郾城から軍を引いた。

郾城にいたとき、兵士たちは皆、帰還を求めた。

飛もここに留まることはできないと考え、帰還の命令を伝えた。

すると軍士は一斉に南を向き、旗はなびき、轍は乱れて整わなかった。

飛はそれを見て、口を開けたまま閉じることができなかった。

しばらくして言った。

「これが天意ではないのか!」

宗弼は拐子馬一万五千を率いて来た。

飛は歩兵に命じた。

麻扎刀を持って陣へ入り、上を見ず、ただ馬の脚だけを斬れ。

拐子馬は互いにつながっている。

一頭が倒れれば、残る二頭も進めなくなる。

七月、兀術は三省事を領していた宗磐と左副元帥撻懶を殺し、王倫を中山府に拘束した。

……このとき韓世忠は、その隙を利用して攻撃することを願った。

桧は『春秋』に「喪に乗じて攻めず」とあることを述べ、帝の意に合ったため、結局中止された。

乙卯、金人が寿春を攻撃した。

守臣の孫暉、統制の雷仲らは兵を合わせてこれを防いだが……丁巳、寿春は陥落し、孫暉、雷仲は城を捨てて去った。

密報によれば、虜人は寿春府から兵を遣わして淮水を渡り、すでに廬州の境内に入った。

張俊、劉琦らは力を合わせてこれを攻撃しようとしている。

卿は星夜を徹して江州へ来るがよい。

機に乗じて応援し、敵の前へ出て張俊と合流し、賊を腹背から挟撃して、支えきれなくさせよ。

機会はまさに今日にある。

卿の忠勇をもって、この賊を呑み込む志があるなら、ただちに道を発せよ。

この親札を付す。

卿はよく心に留めよ。

岳飛へ。

御押。

これまで金賊が淮西を侵し、すでに廬州に至った。

張俊、楊沂中、劉琦は力を合わせて賊と対峙している。

すでに親札を送り、卿にこの機に乗じて兵を率い、合撃するよう諭した。

必ず大功を成し、卿の平素の志にかなうだろう。

卿は星夜を徹し、倍道して江州へ来るがよい。

あるいは蘄、黄から迂回してその後方へ出て、腹背から賊を攻撃せよ。

機会はここにある。

朝夕のうちに報告せよ。

再び親札を送る。

卿はよく心に留めよ。

岳飛へ。

御押。

虜が淮西を犯し、張俊と和州で対峙している。

すでに親札を送り、卿に倍道して来るよう促した。

力を合わせて賊を討つことを、早朝から夜まで待っている。

卿は忠智において世に冠たる者だ。

今日の一挙は社稷の存亡にかかわる。

貴いのは神速であり、少しでも遅れれば機会を失う恐れがある。

再び手札を送る。

卿は深く理解せよ。

七日。

岳飛へ。

御押。

虜賊は淮西に集まり、張俊、楊沂中、劉琦は和州、巣県の下に寨を置いて賊と対峙している。

韓世忠は濠上へ出兵した。

卿は倍道して、ともに機会を利用せよ。

先に送った親札は、卿が受け取ったなら、すでに出発していることだろう。

今、張去為を遣わして朕の意を伝える。

卿はさらに急いで進め。

後悔を残すな。

卿の忠智が天性のものであることは知っている。

多くを教える必要はない。

岳飛へ。

御押。

先に卿の奏を得て、諸帥の兵を合わせて敵を破ろうとする忠義と国への思いをよく知った。

大いに嘉し、感嘆してやまない。

今、虜が淮西を犯し、張俊、楊沂中、劉琦は力を合わせて賊と対峙している。

卿がこの機会に兵を率いて急いで合流すれば、必ず大功を成すだろう。

朕の見るところ、卿の兵が薪州、黄州の境から敵の後方へ出て、腹背から攻撃するのがよい策と思われる。

卿はさらによく考えよ。

兵は神速を貴ぶ。

機会を失ってはならない。

再び親札を送る。

卿はよく理解せよ。

岳飛へ。

御押。

これまでたびたび手札を送り、属官にも面前で諭し、さらに中使を遣わして卿に兵を率いて来るよう促した。

卿の忠憤と国への思いを信じ、必ずその言葉を力の限り実行し、平素の志を遂げることを期待している。

今、帰正人の報告によれば、金賊の桀黥の首領は皆淮西にいる。

朕が考えるに、敵を破る成功は卿なくしては成し得ない。

もし一挙に功を奏すれば、朕が昨年下した宥密の詔も、空言ではなくなる。

まして朕は常に社稷の計をもって卿を重く頼りとしている。

今、機会はここにある。

朝夕、出師の報を待っている。

再びこの札を送る。

卿はよく理解せよ。

十五日。

岳飛へ。

御押。

たびたび手詔を発し、さらに毛敦書、張去為を続けて遣わし、朕の意を伝えさせ、朝夕、卿の出師の報を待っている。

二月四日の奏を読んで、卿の意は十分理解した。

しかし事には軽重がある。

今、江浙に駐蹕し、賊馬は淮西に近い。

まずこれを先とすべきである。

また韓世忠、張俊、楊沂中、劉琦、李顕忠らは皆すでに賊と対陣している。

卿は自ら精兵を率い、星夜を徹して蘄、黄へ来て、まっすぐ寿春へ進み、賊の後方へ出て、力を合わせて凶渠を討ち滅ぼせ。

そうすれば天下は定まる。

卿がこれを聞けば、すぐ道を発することを期待する。

再び親札を送る。

深く理解せよ。

岳飛へ。

御押。

虜人がすでに寿春を越えたと聞く。

卿は張俊と合流し、楊沂中、劉琦とともに往って奪回せよ。

これを得れば、すべて平らげて賊が足を止める場所をなくし、後患を除け。

そうすれば卿の今回の行軍も無駄ではない。

処置したことがあれば、詳しく奏上せよ。

一日。

岳飛へ。

韓世忠が奏した。

すでに親兵を率いて濠から寿春府へ向かった。

卿は約束して会い、よく相談して処置せよ。

虜人がまだ完全には退いていない、あるいは退いた後に再び来て交戦するなら、その敗れた機に乗じて徹底的に討ち滅ぼし、懲罰を思い知らせよ。

もしすでに退き、二度と来ないなら、寿春、順昌をともに平定し、完全に静め、後日の害を防げ。

卿が国家を思う心を持つなら、必ず心を合わせて共に済すであろう。

二心を抱くことのないように。

この親札を送る。

深く理解せよ。

岳飛へ。

兀術が再び濠州をうかがっている。

韓世忠、張俊、楊沂中、劉琦は皆すでに軍を率いて淮上へ到着した。

卿の忠智と国への献身を思えば、これを聞けば必ずその日のうちに出発するだろう。

必ず廬州へ直行し、情勢をよく見極め、寿春を図れ。

廬州には水運があり、諸路の漕臣が皆そこに集まっている。

卿の軍が到着すれば、糧草に不足はない。

また江上を防ぎ、軍事と国家の双方に利益がある。

これ以上の策はない。

すでに諸漕司へ命じ、卿の一軍のために糧草を用意させた。

欠乏を問題とするな。

この親札を付す。

卿はよく理解せよ。

十一日未の刻。

岳飛へ。

御押。

卿の奏を得て、卿の属官が張俊のもとから帰って報告したことを知った。

虜はすでに淮を渡ったが、卿は舒州にいて朝廷の指揮を待っている。

これは卿が慎重で恭謹であり、勝手に進退を決めようとしないことを示しており、実に適切である。

朕はこれを嘉し、感嘆している。

報告によれば、兀術は郦琼の計を用いて、再び濠州をうかがっている。

韓世忠はすでに張俊、楊沂中と濠上で合流し、劉琦は廬州、拓皋一帯に駐屯している。

卿は星夜を徹して精兵を率い、糧を携えて出発し、廬州へ来て糧を受け、まっすぐ寿春へ進め。

韓世忠らと挟撃すれば、兀術を捕らえ殺すことができ、大功を定められるだろう。

この一機会を失ってはならない。

廬州は水運に通じ、諸路の漕臣がそこにいて糧を運んでいる。

急いで親札を送る。

卿はよく理解せよ。

十日二更。

岳飛へ。

御押。

卿の奏を得た。

命を聞くとすぐ廬州へ向かったことを知った。

陸路を進む苦労、輸送の困難を顧みず、ただ急いで進んでいる。

国に尽くす一心がなければ、誰がこのようなことをするだろうか。

探報によれば、兀術は再び濠州をうかがっている。

韓世忠は八日、勝勢に乗じて城下へ到着し、張俊、楊沂中、劉琦は二日前からすでに全軍を率いて合流している。

さらに卿の一軍が力を合わせれば、この賊を平定するのは難しくない。

中興の勲業は、この一挙にかかっている。

卿の今回の行軍は、まさに機会にかなっている。

奏を何度も読み、大いに嘉し、感嘆している。

この賞諭を送る。

卿はこれを理解せよ。

岳飛へ。

御押。

卿からたびたび奏が届き、廬州と舒州の間を往来している。

さぞ疲れていることだろう。

将兵が昼夜、風雨にさらされる苦労、道路を登り渡る労苦を、朕は決して忘れていない。

先ごろ韓世忠がなお濠州にいて賊と対峙し、一人では支えきれないとして何度も救援を求めてきた。

卿は智略に余裕がある。

朕のために計画を立て、利を選んで兵を率い、一度濠州と寿春の間へ出て賊の勢いを牽制し、世忠を援助せよ。

卿の忠義と国家を思う心からすれば、必ず宗社の大計を念頭に置き、彼我の区別なく行うことだろう。

劉琦の一軍にはすでに間道を通って先行するよう専命した。

張俊、楊沂中も兵を遣わしている。

これを卿にも知らせておく。

十七日。

岳飛へ。

御押。

張家、韓家、お前はたった一万人で踏みにじったではないか。

国家も大変なものだ。

官家も徳を修めない。

辛企、李次膺。

紹興八年、右正言から湖南提刑へ転任した。

船が武昌へ着くと、大将の岳飛が江亭へ来て挨拶した。

辛は「道中では客を迎えないことにしている」と言って断ったが、岳は去らなかった。

長い時間が過ぎ、仕方なく会うと、翌日食事を用意すると言った。

その態度は非常に熱心で、断ることができなかった。

宴が終わり、酒を三杯飲むと、辛を小室へ招き入れた。

そこで生涯に受けた宸翰をすべて取り出した。

数百通もあり、いずれも皇帝からの厚い寵遇について記していた。

辛の手を取って言った。

「先日の夜、私は夢を見ました。

棘寺で捕らえられ、獄へ引き出される夢です。

獄吏が言いました。

『辛中丞に詔が下り、取り調べることになった』

驚いて目を覚ますと、全身汗だくでした。

恐ろしくて疑いを抱き、誰にも話せずにいました。

ところが渡し場の役人が、公が来たと報告したのです。

公は諫官から外任へ出ました。

いつか必ず独任の御史中丞になるでしょう。

もし私が不幸にして獄へ入れられたなら、公にはどうか救っていただきたい」

盟書を立て、淮水の中央を境界とし、唐州、鄧州の境を割譲し、毎年銀二十五万両、絹二十五万匹を奉り、兵を休め民を安んじ、それぞれ境土を守ることを約した。

兀術は審議使の蕭毅、邢具瞻を魏良臣らとともに遣わした。

揚武翊運功臣、太保、京東淮東宣撫処置使兼河南北諸路招討使、節制鎮江府英国公韓世忠、

安民静難功臣、少師、淮南西路宣撫使兼河南北諸路招討使、済国公張俊を、ともに枢密使とした。

少保、湖北京西路宣撫使兼河南北諸路招討使岳飛を枢密副使とし、宣して本院へ赴き政務を執らせた。

諫官の羅汝楫らは相次いで上奏し、飛の罪状を論じた。

そこで御史台に逮捕拘束を命じた。

その後数年、飛は副枢を罷められ、奉朝請となった。

かつての部将王貴は、時の宰相の意向を迎え、その謀反を告発した。

飛は大理寺の獄に拘束された。

新たに御史中丞となった何伯寿、何鋳にこの事件を取り調べさせた。

そのときになって、かつての夢に出てきた「辛中丞」が、新任の中丞ではなく、実は新しい中丞の何鋳であったことに気づいた。

そこで鋳を端明殿学士、簽書枢密院事とし、報謝使に任じた。

飛はまた、使臣の黄彦杰を行在へ遣わし、金五十両、銀五百両を持たせ、朝士たちへ分け与えさせたことがあった。

士㒟は力を尽くして弁明した。

「中原がまだ平定されていないのに、忠義の者に災いが及んでいる。これは二聖を忘れ、中原を恢復することを望まないということです。

臣は百人の命を賭けても、飛に他意がないことを保証します」

金人が淮南を侵したとの探報を得たため、前後十五回にわたり親札を受け、戦事を策応して処置するよう指揮されたにもかかわらず、勝敗を傍観して進まず、時を遅らせた。

その後、董先、張憲から「張俊の兵馬はどうなったのか」と尋ねられ、

「みんな敗れて帰っていった」

と答えた。

さらに御駕を指して非難した。

また張憲、董先に言った。

「張家、韓家の兵馬を、お前はたった一万人で踏みにじったではないか!」

兵権を罷められた後も、孫革に書を書かせ、張憲へ送って、

「別の策を講じて処置せよ」

と命じ、さらに、

「読み終えたら焼け」

と命じた。

また張憲に、

「四太子の大軍が上流へ侵攻してくるとの探報を得た」

と虚偽の報告をさせた。

それ以後、張憲は相談し、叛逆して襄陽を占拠し、江岸の両端を封鎖して、官私の舟船をすべて奪うことを待ち構えた。

さらにたびたび孫革に虚偽の報告を奏上させ、制勘において虚妄を行った罪などを問われた。

軽い罪を除いても、法寺はこう称した。

『律に曰く、「軍を率いて征討するとき、期日を三日遅らせた者は斬る」

また「御駕を指して非難し、その情理が重大な害をもたらす者は斬る」とある』

罪は重い。

岳飛は斬刑に相当する私罪として裁定すべきであり、重杖を加えた上で死刑とするのが相当である。

獄の審理結果が上奏されようとしたとき、韓世忠はこれに不服を抱き、秦桧を訪ねて真相を問いただした。

桧は言った。

「飛の子、岳雲が張憲に送った書には、事の実態が明らかではない。『莫須有』ではないか」

世忠は言った。

「『莫須有』の三文字で、どうして天下を納得させられようか?」

詔。

「岳飛には特に死を賜う。

張憲、岳雲は、ともに軍法によって処刑せよ」

主上は英武であり、そのため諸将を御することができた。

高い名号や顕著な称号を与え、極めて尊栄な地位に置いたとしても、干戈や斧鉞においては決して私情をもって赦すことがなかった。

そのため岳飛、范琼らも皆、跋扈を理由に死を賜った。

さらに楊沂中を監斬に任じ、多くの兵将を遣わして護衛させた。

岳飛、張憲の家族は広南、福建路へ分けて送り、拘管し、家産を没収した。

その子孫は皆、重なる湖沼と福建の嶺南へ移され、日々銭米を施して命をつないだ。

紹興年間、漳州知州となった者が進言した。

「叛逆者の子孫を残しておくべきではありません。どうかその生活を絶ち、残りの人生を終えさせることのないようにしてください」

秦桧はその文書を得ると、岳氏へ札を送りつけた。

士大夫が官爵に釣られ、ここまで心を失うとは、犬や豚でさえその残り物を食べまいというほどである。

その姓名をあえて明らかにせず、官僚たちへの戒めとした。

田七頃八十八畝一角一歩、

地十一頃九十六畝三角、

水磨五か所、

房廊、草屋、瓦屋合わせて四百九十八間。

外署大庁の左側に小庁があり、岳武穆の像一幅を祀っている。

庁の後ろには煉瓦の影壁があり、狻猊などの獣や、狄公が虎を裁いた故事が彫られている。

これを残したことには、まことに深い意味がある。

大庁の西には祠堂があり、その中には歴代の掌廠職名の牌位を祀っている。

前には「百世流芳」と記した牌坊がある。

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