三十九
「次はあそこへ連れていってやる」
岳飛は二本の指で赤い「炮」を挟み、川の中に浮かぶ涙の雫のような形をした島を指した。
「榕樹の林だ――見えるか? 下では根っこがみんなつながっている。島には珍しい動物や植物が数え切れないほどいてな。見ればきっと目を見張るぞ」
パチン、と乾いた音が響いた。
岳飛が駒を置いた。
「双炮将軍!」
そして言った。
「小宝、子供の頃はお前が俺に象棋を教えてくれたのに、今じゃお前のほうが俺より棋力が下じゃないか」
韋小宝は川の中洲をちらりと眺めると、席を立って欄干のところまで歩いた。
冷たい風に鼻がむずむずする。
武昌楼のこの楼閣から欄干越しに遠くを眺めれば、鄂州の市街地の半分以上が一望できる。
韋小宝は席へ戻った。
「鵬挙、官家がお前に江州へ行けと急かしているんだろう? 完顔宗弼は廬州まで攻め込んで、張俊、楊沂中、劉琦もすでに兵を出して迎え撃っている。俺たちもそろそろ出発したほうがいいんじゃないか? 軍機を遅らせて、後で官家に咎められたらどうする?」
「小宝、お前、『将軍、外に在れば、君命も受けざることあり』という言葉を聞いたことがあるか?」
「何だ、それ?」
「『将、外に在れば、君命に受けざるところあり』だ」
岳飛は言った。
「今、二つの可能性がある。官家の命令に従えば、戦に負ける。官家の命令に従わなければ、戦に勝つ。お前、戦に負けたとして、官家は命令に従ったことを理由に褒めてくれると思うか? それとも――戦に勝ったのに官家の命令に従わなかったとして、罰せられると思うか?」
「それは……」
そこへ護衛が報告した。
「使者が到着しました!」
貉の毛皮を袖にあしらった衣を着て、黒い頭巾をかぶった三十歳前後の駅卒が、木の階段をドンドンと踏み鳴らしながら駆け上がってきた。
右手には令牌が高々と掲げられ、その表面がきらきらと光っている。
「金牌の急脚逓です!」
駅卒は息を切らしながら叫んだ。
階段口の護衛兵は止めようともせず、彼をそのまま岳飛の前まで走らせた。
「臨安からの急報です」
駅卒は趙構直筆の密書を差し出した。
岳飛が手紙を読む。
「……韓世忠は濠上へ出兵した。卿も道を倍加して急ぎ、機に乗ずべし。先に遣わした親札を卿が受け取ったなら、すでに出発していることと思う。今、張去為を遣わして朕の意を伝えさせる。卿はさらに急行し、後悔を残すことのなきようにせよ。卿が忠義と知略を天性として備えていることは朕も承知している。多くを説く必要もあるまい」
「はあ……小宝、お前が羨ましいよ。官職がないから身軽でいい。俺なんて重い風邪をひいて、頭はぼんやり、鼻は詰まり、耳鳴りまでしているのに、それでも官家に戦場へ行けと急かされるんだからな」
岳飛が言った。
「風邪だって死ぬことがあるんだぞ! 病気のまま戦場へ行ったら、敵に首を差し出しに行くようなものじゃないか。鵬挙、いっそ――あと数日休んだらどうだ?」
韋小宝が言った。
岳飛は鼻をすすり、黄色い痰を一口吐き出した。
韋小宝は木の床に落ちた痰を観察した。
「岳飛、お前、かなり重症だぞ。黄緑色の膿性痰……その風邪、細菌感染が原因かもしれない」
「細菌?」
「仏教では、水の中には『八万四千の虫』がいると言うだろ」
韋小宝は説明した。
「水の中に肉眼では見えない小さな虫がいるというなら、空気の中にも目に見えない小さな虫がいるはずだ。お前は、空気中にいる『細菌』という小さな虫に感染したんじゃないかと思う」
三日後。
宣旨官の張去為が岳府の門前に到着したところへ、馬に乗って猛然と突っ込んでくる駅卒と鉢合わせした。
「金牌の急脚逓! 官家の御札だ!」
駅卒は岳府の家僕に向かって叫んだ。
「早く岳飛を呼んで、書状を受け取らせろ!」
岳飛が庭の小石を敷いた道をゆっくり歩いてきた。
石獅子のそばに立っていた張去為が手を伸ばして御札を受け取ろうとした。
ところが、最後まで馬から降りなかった駅卒が尋ねた。
「お前が岳飛か?」
張去為ははっと我に返り、慌てて何歩も後ずさった。
岳飛が門をまたいで出てきて御札を受け取った。
まだ封を切る間もない。
駅卒は馬首を返すと、あっという間に遠くへ駆け去っていった。
御札にはこう書かれていた。
「先に卿の奏を得た。諸帥の兵を合わせて敵を破らんとする意、忠義をもって国に尽くそうとする心、つぶさに見て大いに嘉し、感嘆している。今、虜が淮西を犯し、張俊、楊沂中、劉琦はすでに力を合わせて賊と対峙している。卿がこの機に乗じて急ぎ兵を率いて合流すれば、必ずや大功を成そう。朕の見るところ、卿の兵が薪州、黄州の境から敵の後方へ出て、腹背からこれを攻めるのが良策と思われる。卿もさらによく考えよ。兵は神速を貴ぶ。機を失ってはならぬ。重ねて親札を遣わす。卿、よく意を体せよ」
「おやおや、岳相公。まだ出発していないのですか?」
張去為は懐から一枚の黄色い絹紙を取り出した。
「こちらにも皇上からあなたへの直筆の書状があります。言葉は切々、情は殷々、どうか出兵してくれ、と――」
「俺はすでに官家に事情を書いて送った。風邪をひいたんだ」
岳飛は不機嫌そうに言った。
「張憲、王貴、お前たち二人は八千騎を率い、俺と江州へ行け」
八千の兵が江州の郊外へ差しかかったところで、また新たな御札が届いた。
「朕が敵を破ることに成功すると考えるなら、卿をおいて他にない。もし一挙に功を奏すれば、昨年朕が寛大な詔を下したことも、空言ではなかったことになる。まして朕は常々、社稷の計を卿に託し、重く頼りとしている。今この機会を逃すわけにはいかぬ。朝夕、出師の報を待っている。重ねてこの札を遣わす。卿、よく意を体せよ」
江州城に入ると、臨安府から来た内侍官の毛敦書が県衙の門前で長いこと待っていた。
「ようやく来てくださった、岳将軍」
毛敦書は涙を浮かべていた。
「これは官家からの手札です」
岳飛は眉をひそめた。
「官家も気が急きすぎだ。一日に何通も手札を送ってくるから、読むだけでも追いつかん」
毛敦書が持ってきた御札にはこうあった。
「……卿は自ら精兵を率い、昼夜を分かたず蘄州、黄州へ来て、直ちに寿春へ向かい、敵の後方へ出て、力を合わせて凶渠を討ち滅ぼせば、天下は定まる。卿ならこれを聞けば、すぐにも出発することと思う」
「皇上が焦っているのを責めないでください」
毛敦書が言った。
「淮西の戦況は膠着しています。皇上は三万の淮北御営軍まで戦場へ送り込みました」
岳飛が横目で見る。
「楊沂中の禁軍まで参戦したのか? では、誰が官家を守る?」
「誰が官家を守るのか?」
毛敦書が言った。
「私が出発する前にも、大臣の一人が同じことを官家に尋ねました。『禁軍が出払ったところへ、もし不法な賊徒が皇宮へ攻め込んできたら、どう対処するのですか』と。岳将軍、官家が何と答えたと思います?」
「何と?」
「官家はこう言われました。『社稷の存亡は、この一戦にかかっている。そんなことまで構ってはいられぬ』と」
「岳将軍、あなたの岳家軍の名声は天下に轟いております。あなたが参戦すれば、完顔の老賊もきっと肝を潰すでしょう」
「ふん」
岳飛は言った。
「戦というものは、お前が思っているほど簡単じゃない。『兵馬いまだ動かざれば、糧草先ず行く』だ。今回の出征では、俺のところの糧秣が足りない。十分な糧秣を集めてからでなければ淮西へは行けん。兵法にも『謀定まりて後に動く』とある」
毛敦書が何か言い返そうと口を開いた。
岳飛が先に遮った。
「俺自身で官家に事情を書いて説明する。お前がここでがやがや言う必要はない」
おそらく駅卒が道中で手間取ったのだろう。
趙構が十七日の未の刻に書いた御札と、十九日の二更に書いた御札が、同じ日に江州府衙へ届いた。
最初の御札にはこうあった。
「卿の奏を得た。自ら薪州、黄州へ赴き、形勢の利害を見極め、九江に拘泥せぬようにしたいとのこと。卿は天性の忠義を備え、王室を心に置いている。朝夕策を練り、必ず国家の急を救う策を考えていることであろう。卿が蘄州、黄州から直ちに寿春へ突き進み、韓世忠、張俊と呼応すれば、大事は必ず成し遂げられよう。中興の基業は、この一挙にかかっている。奏を読み、大いに嘉し、感嘆している。重ねて親札を遣わす。卿、よく意を体せよ」
第二の御札にはこうあった。
「卿の九日の奏を得た。すでに十一日に出発し、蘄州、黄州、舒州の境へ向かうことを決めたと知った。卿がひどい寒咳に苦しみながらも、なお朕のために出征しようとしている。国のために身を忘れるとは、卿のような者がほかにあろうか。奏を何度も読み、大いに嘉し、感嘆してやまぬ。卿はもともと虜を滅ぼすことを志し、常に諸軍が力を合わせられぬことを苦しんでいた。今、兀術と諸頭領はことごとく廬州にあり、続けざまに南へ侵攻している。張俊、楊沂中、劉琦らは力を合わせてその陣営を破り、百里余り退かせた。韓世忠はすでに濠上に至り、精鋭を出してその退路を遮っている。劉光世は全軍をもって、李顕忠、呉錫、張琦らに命じ、敵が奪った人馬や家畜を奪い返させている。卿が舒州から出て韓世忠、張俊らと呼応すれば、卿がかねてからの志を遂げられよう。何よりも神速を貴ぶ。敵がすでに逃走の策を講じていることを恐れる。一度機を失えば、後から悔やむだけとなる。江西漕臣は江州へ至り、王良存とともに銭糧を手配するよう命じている。すでに卿の求めた通りにした。趙伯牛を任じた。伯牛は以前、湖外の官職を務めたことがあり、卿の軍とはよく通じているからである。春も深まり、寒暖定まらぬ時節ゆえ、卿は病を慎み、国家の事を成し遂げよ。この親札を付す。卿、よく意を体せよ」
淮西の戦場で完顔宗弼と激戦を繰り広げていた張俊と劉琦も、岳飛と書簡を交わしていた。
張俊の手紙にはこう書かれていた。
廬州の戦いは三日二晩に及び、楊沂中は全軍を失い、韓世忠も退却の意を抱き始めている――。
毛敦書は岳飛に必死で訴えた。
「皇上はすでに将軍の後顧の憂いを取り除いてくださいました。どうか岳将軍、すぐに淮西へ赴き、韓将軍を救援してください」
「韓将軍……へへ」
岳飛は振り返り、王貴に言った。
「以前、韓世忠は俺たちを寄せ集めの軍だと罵ったよな。実際に中国人と正面から一戦やれば、あいつの正体がすぐに分かる。王貴、お前は一万の兵だけを派遣すればいい。韓家軍を踏み潰すにはそれで十分だ」
王貴は黙って俯いた。
張憲が口を挟んだ。
「一万の兵があれば、張家軍を踏み潰すにも十分です」
「岳将軍、どうかすぐに出発して、淮西の韓将軍を救援してください……」
毛敦書は顔を覆って泣いた。
「軍機に関わる大事だぞ。宦官のお前が口を挟んでいいことなのか?」
岳飛が言った。
「どうか岳将軍、国家を水火の中から救い、官家を倒懸の苦境からお救いください」
「まだ言うのか?!」
岳飛は言った。
「国家……国家がそんなに大したものか? 官家? 官家がどうした? 官家だって徳を修めているわけじゃない!」
愚痴は愚痴として、行動は結局、行動に移った。
岳家軍八千騎は二日一晩をかけ、江南西路の江州から淮南路の池州へ進駐した。
すると趙構の御札がまた届き、岳飛に一刻も早く兵を率いて廬州へ向かうよう催促した。
「卿の奏を得た。命を聞いた卿は、ただちに廬州へ向かうとのこと。陸路の行軍は困難で、糧秣の輸送も険阻であるのに、卿はそれを顧みず、必ず急いで進むという。ひたすら国に尽くす心がなければ、誰がこのようなことをするだろうか……」
韋小宝は岳飛に尋ねた。
「官家から、お前が戦場へ行けと催促する金牌の御札、何通届いたんだ?」
「覚えていない。十数通はあったと思う」
岳飛は言った。
軍備を整えている間、韋小宝と岳飛は池州の清渓河畔を歩いた。
岳飛が言った。
「小宝、俺はよく眠れないんだ。同じ悪夢を何度も見る」
「どうりで、元気がないと思った」
「お前、夢占いはできるか?」
「どんな夢だ?」
「この悪夢を断続的に見るようになって、もう一年以上になる。おかしいと思わないか? 夢の中で俺は牢獄に入れられていて、獄卒から『辛丞相がそなたの事件を審理する』と言われるんだ。目が覚めてからよく考えてみた。朝廷で名の通った官僚の中で、辛という姓といえば辛次膺のほかに誰がいる?
「もっと奇妙なのは、官家が本当にそいつを俺の岳家軍へ転運使として派遣したことだ。俺は親切心からそいつの機嫌を取って、金元宝まで贈った。それなのにあいつは受け取るどころか、官家の前へ行って御状を訴えた。このことで俺は心配でたまらない」
「鵬挙、お前、『夢は逆夢』って言葉を聞いたことがないか?」
「夢は逆夢?」
「そう。牢に入る夢を見たなら、つまりお前は昇進するかもしれないってことだ。今はそんなことより、淮西へ行って友軍を救援するのが先だ」
「小宝、どうか本当にお前の言う通り、『夢は逆夢』であってほしいものだ」
軍備を整え終えると、岳家軍は集結の号を吹き鳴らし、これより淮西へ直行して戦場へ突入しようとしていた。
その時、張俊から一通の手紙が届いた。
完顔宗弼が突然兵を退き、淮西の廬州から淮河沿いの寿春府まで後退したという。
岳飛一行は、さほど驚かなかった。
こういうことは初めてではない。
おそらく、最後でもないだろう。
続いて臨安府から知らせが届いた。
中国皇帝の完顔亶が、趙構との二度目の和議を始めようとしているという。
その和議の条件は――
宋国は中国の藩属国となる。
中国と宋の両国の境界を淮河および大散関とする。
宋国は毎年、中国に白銀二十五万両、絹二十五万匹を納める。
陝西と河南の両地は、中国の管轄下に置く。




