三十一
王継先は官職に就いて間もなく、臨安城北の望仙橋のそばにある二階建ての住宅へ引っ越した。毎日通勤する翰林医官局から、わずか半炷香ほどの距離だった。
韋小宝が叔父を訪ねる回数は、日に日に増えていった。
秦桧は、一人で潮干狩りをするのはひどく寂しいとこぼした。
韋小宝は言った。
「慈渓県は人口が減って、商人も少ない。まるで漁村みたいなところだ。賑やかで面白い臨安府には、とても敵わないよ」
罪悪感を少しでも軽くするため、韋小宝はよく臨安産の新鮮な龍井緑茶を買って秦桧に届けた。また、あちこちで聞き集めた朝廷の出来事や宮中の秘聞を、しょっちゅう秦桧に話して聞かせた。
龍井茶は秦桧の大好物だった。
そして国事や宮中の秘聞は、それ以上に彼の心を惹きつけた。
朝廷を今まさに悩ませている洞庭湖の農民軍の話になると、秦桧は言った。
「一国の君主が仁政を行えば、どうして農民の反乱など起こるでしょうか」
韋小宝は言った。
「斉国にも、紅旗や紅巾を目印にして、自分たちを『紅軍』と名乗る農民たちが反乱を起こしている。つまり、劉豫も仁政を行っていないってことだな」
三月、春が訪れた頃。
秦桧の家に、思いがけない客がやって来た。
客は秦桧を宮中へ召し出す手詔を見せた。さらに話の端々から、皇帝が秦桧を再び官職に就けようとしていることも分かった。
「そんなはずはない」
秦桧は言った。
三年前、皇帝自らが書いた「永不叙用」の四文字が、今でもまざまざと目に浮かぶ。
生涯、忘れることはない。
皇帝直々の召しとあれば、行かないわけにはいかない。
秦桧は午前中に拝謁し、午後には宮中を出た。
その身には、果たして二つの官職が加わっていた。
観文殿学士、そして温州知州。
「いったい、どういうことなんだ?」
韋小宝が秦桧に尋ねた。
秦桧は首を横に振った。
二人の疑問を解いたのは、叔父の王継先だった。
金太宗完顔晟が亡くなった後、金太祖の弟である完顔昌と、金太祖の四男である完顔宗弼が朝政を掌握した。
完顔昌は使者を宋へ送り、その使者が趙構に秦桧の近況を尋ねた。そして、秦桧はめったにいない人材だと絶賛した。
そのため趙構は、以前の言葉をあっさり覆し、秦桧を再び登用したのだという。
「温州は辺境の地で、罪人を流す場所としてよく使われている。温州知州なんて、ろくな役職じゃないわ」
王媽媽は言った。
「皇上だって、まだ俺に対してわだかまりがあるんだ。どうして俺にいい役職をくれるものか」
秦桧は言った。
「俺のほうだって、まだわだかまりが残っている」
秦桧が温州へ赴任することになったが、韋小宝はついて行かず、臨安府の叔父の家に居候することにした。
王継先は医書の改訂を命じられ、毎日、目の回るような忙しさだった。
韋小宝が尋ねた。
「叔父さん、医書の改訂なんてできるの?」
王継先は『大観本草』を一冊、ぽんと放り出した。
「これを見ながらやればいい」
「じゃあ、医理は?」
韋小宝がまた尋ねた。
「叔父さん、本当に医理を分かってるの?」
王継先は言った。
「薬には五性がある。金性、木性、水性、火性、土性。薬性には相生相克があり、陰陽は互いに根となり、互いに作用する。そんなに難しいか?」
王継先は医書の整理や抜き書きに没頭し、韋小宝を相手にするのも面倒になった。
韋小宝は大金を払って馬を一頭借り、荊湖南路にいる幼馴染の岳飛を頼って行った。
「いよいよ決戦だ」
岳陽楼の湖景房で、岳飛が言った。
窓の外には、霞がかった広大な湖面が広がっている。
数十艘の岳家軍の戈船が湖面に横たわっていた。竹簾のような覆いは紫紅色に塗られている。
岸辺に停泊するその姿は、ぱっと見れば奇妙な姿をした蛙のようだった。
湖を囲むように珙桐の木が生え、枝いっぱいに咲いた珙桐花は、羽を広げた白鷺のように見えた。
「誰と決戦するんだ?」
丸椅子に腰掛けた韋小宝が尋ねた。
「決まっているだろう。あのくたばるべき楊幺だ」
韋小宝の隣に座り、焼いたガチョウの脚をかじっていた衛茂恂が、横から答えた。
「あの悪党は邪術を使い、人心を惑わし、農民を煽って反乱を起こさせている。岳家軍は精鋭ぞろいだ。楊幺なんぞ、蟻を踏み潰すより簡単に片づけられる」
岳飛は衛茂恂に酒を勧めた。
二人は杯を交わし、酒を酌み交わして歓談した。
衛茂恂と韋小宝は同じ日に、岳家軍が駐屯する荊湖南路岳州の大本営へ到着した。
衛茂恂は内侍省に仕える者で――奇遇なことに、彼も臨安府から来たのである。
長沙酒を何杯か飲むと、衛茂恂の顔や首筋は赤黒くなり、
「俺はもう寝る」
と叫んだ。
二人の兵士が彼を支えて酒卓から連れ出した。
岳飛はいつもと変わらない顔をしており、酔っている様子はまったくない。
韋小宝は小声で尋ねた。
「岳飛、どうして宦官なんかにそこまでへりくだるんだ? 衛茂恂のあの媚びへつらう顔、本当に気持ち悪いぞ」
「官家自ら彼を岳家軍に送り込み、帳簿を調べさせているんだ。粗末には扱えないだろう」
「調べるなら調べさせればいい。悪いことをしていなければ、鬼に戸を叩かれても怖くないだろ」
「単なる帳簿調査じゃない」
岳飛は言った。
「楊幺の妖軍は荊湖一帯に広がり、十万人にも達している。こんな反乱軍がいるんじゃ、官家も夜、安心して眠れないだろう。
官家が衛茂恂を俺の軍に送り込んだのは、帳簿を調べるのが表向きの目的で、本当の目的は督戦だ。
ひょっとすると、衛茂恂には御下賜の尚方宝剣まで与えられているかもしれん。もし俺が戦に負けたら、衛茂恂がその剣で俺の首を斬ることだってあり得る」
「俺は衛茂恂と何日も一緒に旅をしたが、宝剣なんて持ってるのを見たことがないぞ。まさか、ケツの穴に隠してるわけじゃないだろうな?」
韋小宝は言った。
「ところで、その楊幺ってのは一体何者なんだ? お前も衛茂恂も、一人は邪術を使うと言い、一人は妖軍だと言う」
「小宝、曹成の匪賊軍を覚えているか?」
岳飛は言った。
「匪賊ってのは、普段から命を懸けて生きているから、死を恐れないのも不思議じゃない。
だが、考えてみろ。楊幺のこの農民出身の匪賊どもは、曹成の匪賊軍よりもさらに死を恐れない!
農民だぞ?
一生、まじめに暮らし、県令の前では息をするのも憚るような農民だ。
それが楊幺に何言か吹き込まれただけで、すっかり惑わされてしまった。
お互いを『小爺さん』と呼び合い、戦になれば命など惜しまず前へ突っ込んでいく。
これを邪術と言わずして何と言う?
ただな……」
岳飛は言った。
「死を恐れるかどうかと、実際に死ぬかどうかは別の話だ。
頭が固く、首が硬い農民がどれほど勇猛で死を恐れなくても、所詮は生身の人間だ。
俺が刀を振り下ろせば、二十万ほど殺した」
韋小宝の体がぐらりと傾き、丸椅子から転げ落ちた。
慌てた拍子に食器や酒杯をいくつもひっくり返し、皿や杯が床に落ちて、
ガチャガチャガチャン!
と一面に砕け散った。
「お前、二十万の反乱軍を殺したのか?」
韋小宝が尋ねた。
「正規の反乱軍じゃない。楊幺と結託し、支援していた農民二十万人だ。それに、全部俺が殺したわけでもない。一人でどうやって殺しきれる? 刀が鈍る前に、俺の手が先に駄目になる」
岳飛は言った。
「二十万の農民を殺したのは、岳家軍の全将兵が力を合わせた結果だ。
楊幺の妖軍は荊湖南路と荊湖北路の至るところにいる。農民がいるところには妖軍がいる。農民は妖軍に金や食糧を送っている。
根元から断たなければどうにもならん。
どこかの村で楊幺の妖軍を支援している者がいると分かったら、村の家屋をすべて焼き払う。
そうしてこそ、農民が朝廷に対して二心を抱かなくなる」
「楊幺の配下には三十四人の大将がいる。俺はそのうち二人を大金で買収した。
そして決定的な時に偽情報を流させ、妖軍を死地へ誘い込んだ。
そうして岳家軍で洞庭湖の中に包囲した。
これぞ、甕の中の鼈を捕らえるってやつだ」
「また同じ手か!」
韋小宝が言った。
「曹成を討ったときも、偽情報を流して罠にかけただろ。鵬挙、お前、本当に知略に富んでるな。まるで妖怪並みだ」
「小宝、俺がこの匪賊どもをどう片づけるか、見ていろ」
楊幺と岳飛の両軍が戦った。
楊幺軍は船で攻め出し、岸へ向かって雨のように矢を射かけた。
休息の際には、船と船を連結し、船首と船尾をつないで水寨を築き、湖面に停泊した。
岳家軍は何度も攻撃を仕掛けたが、そのたびに撃退された。
岳飛は昼夜を問わず岳陽楼に陣取り、泰然自若として君山茶を味わっていた。
彼は韋小宝を安心させた。
「焦るな。岳家軍の勝利はもう目前だ」
韋小宝は干した銀魚を口に入れながら言った。
「俺はただ見物してるだけなんだから、何を焦るんだよ」
それから十日もすれば、立夏だった。
およそ二千人の岳家軍兵士が、鋤や鉄鍬を手に、洞庭湖の北岸、西岸、南岸にある四十か所あまりの堤防を掘り崩した。
湖水が周囲の農地や村落へ流れ込んだ。
五日間で、洞庭湖の水位は十尺余りも下がった。
「ははは、時も勢いも、すべて我が岳家軍の味方だ!」
岳飛が言った。
「包囲を始められるぞ」
岳家軍は湖へ藁や枯れ木を大量に投げ込み、水路を塞いだ。
何百、何千という楊幺軍の船が一か所へ押し寄せ、湖の中の島のようになった。
いや、それ以上に、水上の墓場のようだった。
包囲作戦が三日目に入ると、水位はそれ以上下がらなくなった。
次々と船が岸へ向かってきた。
降伏しに来る船もあれば、死に物狂いで戦いを挑んでくる船もあった。
岳飛の命令は明快だった。
降伏する者は岳家軍に編入する。
戦う者は、その場で斬り捨て、赦さない。
包囲作戦七日目の夜。
満月が空高く輝く中、船を連ねて築かれていた楊幺の水寨が、突然、崩壊した。
湖面に次々と太鼓の音が響く。
船は帆を上げ、岸へ向かって突進した。
だが、藁や枯れ枝に行く手を阻まれる船もあれば、泥沼にはまり込む船もあった。
数え切れないほどの楊幺軍兵士が湖へ、泥沼へと飛び込み、澄み切った月光の下で斬り合い、殺し合った。
戦闘は翌日の正午まで続いた。
岳家軍は大勝した。
洞庭湖には死体が至るところに浮かんでいた。
湖水は黒く濁り、流れる血で櫓が漂うほどだった。
岳飛は命じた。
戦場を掃討する際には、まず楊幺軍の将領を探せ。
生死は問わない。
戦場の掃討は四日後に終わった。
楊幺軍三十四人の大将のうち、七人が投降、二十五人が戦死、二人が行方不明となった。
岳家軍に捕らえられた楊幺軍の兵士は、実に五万人に及んだ。
そして、その最高指揮官である楊幺も、岳家軍副統制の王貴によって生け捕りにされた。
岳飛は捕虜たちに向かって演説した。
「俺はお前たちを全員殺し、洞庭湖へ放り込んで魚の餌にすることもできた。
だが、俺は生まれつき情に弱い。
お前たちに一度だけ、悪を改め善に戻る機会を与えてやる。
お前たちを岳家軍に編入することにした」
勝利の知らせは臨安へ届いた。
趙構は数人の近臣を連れ、岳州へ赴いて岳飛と面会した。
近臣の中には、監察御史の何鋳、内侍官の衛茂恂、そして韋小宝の養父、秦桧もいた。
趙構は岳飛に、弓身三尺二寸、弦長二尺五寸の偏架弩を贈った。
「洞庭湖の一戦で、岳将軍の功績は実に大きかった」
趙構は言った。
「この神臂弩は朕が自ら作ったものだ。狙いも実に正確だ」
「ありがとうございます、皇上。聖恩、決して忘れません」
岳飛が言った。
趙構は笑い、拳を握って岳飛の胸を軽く叩き、その両肩を抱いた。
「皇上、岳将軍が楊幺を討ち滅ぼし、国家に功を立てたことは間違いありません」
監察御史の何鋳が言った。
「ですが、岳家軍が空の兵員にまで給与を支給させ、偽の帳簿を作って朝廷から軍費を騙し取っていることも、また事実です」
「何だ、お前は岳将軍を弾劾するつもりか?」
趙構が振り返った。
「何鋳、お前はどうしていつも、言わなくてもいいことばかり言うんだ? 岳将軍は血を浴びて敵を斬り、国家にこれほど大きな功績を立てたんだぞ。こんな時にそんな話をするとは、どういうつもりだ?」
「皇上、私はただ台諫官としての職責を果たしているだけです」
何鋳は袖から二つ折りの紙を取り出した。
「これは朝廷の数名の大臣が書いた告発状です。私が勝手に隠し持つわけにはいきません。
本日は岳将軍の面前で、この告発状を読み上げましょう。そうすれば、岳将軍に陰で誹謗したなどと思われずに済みます」
何鋳は紙を広げ、読み上げた。
「軍中における冒請とは何か。朝廷がやむを得ず民から財を取り立て、一銖、一縷、一粒に至るまで、兵士を養うために使っている。
ところが今、一軍の中で実際の兵士ではない者が三分の二を占めている。
偽名を使って軍糧を請求する者がいる。一人の名義で数人分を請求する者もいる。
使臣の名義を借りて請求する者もいる。一人の使臣の俸禄だけで、実に十人の兵士を養う費用に相当する。
しかも軍中の使臣の大半は、十万の兵を養う名目で、実際には一万の兵にしか使われていない。
また、官職の補任を借りて請求する者もいる。以前なら、借補するにも朝廷へ上申し、真命を得る必要があった。
ところが今では、四方から集まった無職の者が、誰も彼も軍中に偽名を潜り込ませている。
いったん主帥から借補の許可を得れば、すべて官吏と同じように俸禄を受け取り、その上限もない。
聞くところによれば、岳飛の軍中にはこのような者が数百人もいるという。
州県の役人はその勢いを恐れ、誰一人として問いただそうとはしない。
彼らが不正に受け取った物資は、到底数え切れないほどに上っている。
しかも、それだけではない――」
何鋳は告発状を趙構に差し出した。
趙構は受け取らなかった。
何鋳は今度は岳飛に紙を渡した。
岳飛は手を伸ばし、その紙を叩き落とした。
何鋳は床に落ちた告発状を拾い上げた。
「皇上、以前、衛内侍を派遣してこの件を調査させたではありませんか……」
「衛茂恂は、朕に一通の奏札を書いている。その件について報告してきた」
脇に控えていた衛茂恂が、小さくうなずいた。
「衛茂恂!」
趙構が大喝した。
衛茂恂は、
「ドサッ!」
とその場に跪いた。
「衛茂恂、朕がお前を岳家軍へ派遣したのは、帳簿と支出を調べ、軍紀を正すためだ。大鼠になれと言った覚えはない!
お前が何をしていたのか、朕が知らないとでも思ったか?
朕の目と耳は、いくらでもあるぞ!
者ども、衛茂恂を捕らえよ!」
五人の禁軍兵が部屋へ飛び込み、衛茂恂を地面に引き倒した。
「皇上、臣は罪を知っております。岳将軍の金銭攻勢に耐えきれませんでした」
衛茂恂は言った。
「臣は岳将軍から賄賂を受け取りました。皇上に申し訳なく、また皇上の厚いご恩を裏切ってしまいました……」
「臨安へ戻ってから、お前の始末をつける」
趙構は衛茂恂に言った。
韋小宝は、趙構がこれほど凶々しい口調で話す姿を、それまで一度も見たことがなかった。
岳飛は趙構の足元に跪いた。
「臣、皇上に忠節を尽くし、死しても辞しません」
「その言葉を聞いて、朕も安心した」
趙構は言った。
「岳将軍、お前は楊幺を討ち滅ぼし、赫々たる功績を立てた。朕はお前を検校少保に封ずる」
岳飛の目が点になった。
「検校少保? 正……正一品ですか?」




