一
千年の時を越えて、一人の青年が宋の国へ迷い込んだ。
そこは、華やかな都・汴京が栄える一方で、戦乱の足音が日に日に近づいていた時代。王朝は揺らぎ、人々は不安に怯え、やがて北から金軍が押し寄せてくる。
その激動の中で、青年は一人の男と出会う。
岳飛。
まだ天下にその名を知られていない、一人の若者だった。
やがて彼は、国を守るために剣を取り、数え切れない戦いに身を投じていく。忠義とは何か。国とは何か。そして、人は運命に抗うことができるのか。
宋という国が滅びへ向かうその時代を、岳飛とともに駆け抜ける。
これは、英雄の伝記ではない。
激動の時代を生きた人々の、選択と運命の物語である。
千年前の中国で起きた出来事は、決して過去だけのものではない。
この物語を読みながら、中国の過去を知り、現在を見つめ、そしてその先にある未来を想像してほしい。
歴史の彼方から、岳飛の声が聞こえてくる。
四方がぼんやりとしている。
彼は力いっぱい瞬きをした。すると、視界が次第にはっきりしてきた。
床一面に暗い黄色の藁が敷かれている。壁際には、束ねて縛った薪の枝が何束も積み上げられていた。その脇には、どこか見覚えのある茶褐色の大きな水甕がある。
薄暗い光が、戸口から差し込んでいる。
その扉の造りは奇妙だった。上半分が透かしになっていて、白い紙――あるいは白い布だろうか――が張られている。
寺の仏堂で見たことのある、あの木製の扉に似ていた。
――ここはどこだ?
頭がぼんやりする。
――俺にはまだ配達しなきゃならない注文がある。まさか、また時間超過か?
彼は雨の中、十字路で赤信号を待っていた。
そこへ一筋の光が走り、彼を直撃した。
光?
ふと思い直す。
違う。光じゃない。
――雷だ。
自分は病院にいるはずではなかったのか?
それなのに、なぜこんな、床一面に埃が積もった、狭苦しい小屋の中で寝ている?
彼は床から起き上がり、水甕のそばまで歩いた。
鼻先が甕の縁に触れた。
ひやりと冷たい。
――おかしい。
そう思った。
自分は……小さくなっている。
彼はつま先立ちになって、甕の中を覗き込んだ。
水がいっぱいに張られている。
水面に映った顔を見て、彼はぎょっとした。
見知らぬ顔だった。
――子供の顔。
若返った?
彼は自分のぷっくりとした頬を触った。
そして、もう一度、水面に映った姿をじっと見つめる。
間違いない。
子供だ。
体つきも、顔立ちも、すっかり変わっている。
一重だった目が、二重になっていた。
では、この服とズボンはいったい何だ?
淡い黄色の前開きの上着。
触ってみると、粗くまばらで、まるで藁半紙のように薄い。
――麻の服?
両親の葬儀で自分が着た喪服も、麻でできていた。
彼は扉を押し開け、よろよろと敷居をまたいだ。
ようやく足元が落ち着いた、その瞬間だった。
耳に、鋭い痛みが走った。
まるで鉄のペンチのような指が頭上から降ってきて、耳たぶを握り潰そうとしている。
灰色の長袍をまとった三十歳そこそこの男が、彼の横に立っていた。
男は凶悪な顔つきで彼を睨みつけている。
男が指を離した。
「韋小宝! 俺とおばさんでお前をずっと探してたんだぞ。外でくたばったのかと思ったら、薪小屋に隠れてのんびりしてやがったのか!」
「韋小宝? 俺の名前が、韋小宝?」
男の手が飛んできた。
避ける間もなかった。
頬の半分が、平手打ちで腫れ上がった。
「寝ぼけてるのか? 自分が誰なのかも分からなくなったのか」
――俺は、誰だ?
俺は崔凱。
湘雅医学院の中西医結合専攻に通う大学二年生。
二十歳。
身長一メートル七十。
健康そのものの、頑健な身体。
では、本当の問題は何だ?
この子供――
俺の意識が入り込んでいる、この身体。
こいつはいったい誰なんだ?
――俺はタイムスリップした。
韋小宝の時代へ。
……韋小宝って、何時代の人間だ?
「反清復明」。
最初に頭に浮かんだ言葉だった。
韋小宝の足の裏には「反清復明」の四文字が刻まれている。
つまり、韋小宝が生きていたのは清朝だ。
清朝と中華人民共和国の間には、どれくらいの年月がある?
そして、今の二十一世紀からいったい何百年前なんだ?
彼は子供のころから歴史に興味があった。
だが、歴代王朝の順番を暗記したことなど一度もない。
――待て。
彼はそこで、自分の思考が袋小路に入り込んでいることに気づいた。
韋小宝は金庸の小説に登場する人物だ。
現実世界には存在しない。
……ということは、自分は仮想世界にいるのか?
そうだとすれば、では自分の思考はいったい何なのだ?
自分もまた、仮想世界の人間なのか?
「我思う、ゆえに我あり」。
仮想世界の人間が、自分自身の存在を疑い、さらには世界そのものの真実性まで疑うことがあるのか?
頬に残る痛み。
耳に残る痛み。
それは、確かに現実のものだった。
男は死んだ魚のような目で、彼をじっと見つめている。
そして、もう一度腕を振り上げた。
「まだ殴られたいのか?」
「今は何年だ? 誰が皇帝なんだ?」
「勉強したことを全部犬の腹にでも食わせたのか」
男は大きな手で、彼の後頭部を軽く叩いた。
「寺子屋の先生は教えなかったのか? 韋小宝、よく覚えておけ。今は宋徽宗・趙佶が天下を治めてるんだ」
趙佶?
あの亡国の君主、趙佶?
彼は以前、露店で売られていた本を一冊買ったことがある。
そこには歴代皇帝たちの淫蕩な暮らしが描かれていて、その中に、木工が好きで、絵を描くのも好きだった宋代の皇帝がいた。
……この男が言っている宋徽宗というのは、そいつのことだろうか?
二十歩ほど離れたところに、背の低い太った女がいた。
土壁の家の戸口にもたれかかり、声を張り上げる。
「王継先! 甥っ子を呼んで夕飯にしな!」
四角い卓の天板は、でこぼこしていた。
その上には、白米の入った木椀が三つ。
そして、炒めすぎて黒くなり、何の葉野菜なのかも分からない料理が一皿。
卓の中央には陶器の鉢が置かれている。
油が浮かび、香りが立ち上る鶏スープだった。
彼は男と女と一緒に、薄暗い家の中で食事をした。
女は長い上着に長ズボンという服装だった。
「王継先」と呼ばれた男の服装とほとんど変わらない。
ただ、色が少し違う。
女の服は土色がかった黄色で、皺だらけ。
だらしなく、見栄えも悪い。
目の前の光景は、彼が知っている時代劇とはまるで違っていた。
彼がこれまで見てきた時代劇では、男も女もみな美男美女。
服装だって、誰もがきらびやかで清潔だった。
「小宝、お前はまだ育ち盛りなんだから、もっと肉を食べな」
女は鶏のもも肉を一つ取り、彼の椀に入れた。
彼はもも肉を一口かじった。
硬い。
味もしみていない。
まるで綿を噛んでいるようだった。
「おいしいかい?」
女が尋ねる。
「おいしくないわけがないだろう」
王継先が乾いた笑いを浮かべた。
「俺の給料四日分もしたんだからな」
「給料って、いくら?」
彼は尋ねた。
「――それで、あんたは何の仕事をしてるの?」
「口の利き方に気をつけな!」
女が叱りつけた。
「お前の叔父さんは診察して薬を売ってるんだよ。風の日も雨の日も働いて、それも全部お前のためじゃないか」
「だから言っただろう。いつか恩知らずの白眼狼を育てることになるって」
男が言った。
「甥っ子よ、叔父さんなんて大したもんじゃない。都の名医には敵わないし、ましてや太医なんかには到底及ばない。あいつらは一日の給料で鶏を八羽も買えるんだ。一羽二百文だからな。ほら、お前、自分で計算してみろ。どれだけ稼げると思う?」
「継先、あなたも太医になればいいじゃない」
女が言った。
「こんな江東の、鳥も糞を落としに来ないような村に引きこもってたって、何の出世があるの?」
「太医ってのは、なりたいと思ったらなれるもんなのか? 太医局に入るには試験があるんだ。入るなら必ず試験だ。俺は自分が向いてないって分かってる。試験用紙を見るだけで頭がくらくらするんだから」
「継先、うちの母さんが言ってたよ。あなたは頭の回転が速くて、大きなことを成し遂げられる人だって」
男と女は、互いに一言ずつ言葉を交わしていく。
――俺は夢を見ているのか?
これは自分の夢なのか。
それとも、誰か別の人間の夢なのか?
舌で口の中の米粒を唾液と一緒に転がす。
かすかな甘みを感じた。
――夢の中でも、米の甘みを味わえるものなのか?
「小宝、叔父さんから一つ相談がある」
男は女と視線を交わした。
「明後日から、お前は学校へ行かなくていい。お前が勉強嫌いなのは叔父さんも知ってる。来月から張員外のところへ行って、張公子の書童にならないか? 書童のほうが、勉強するよりずっと楽しいぞ」
崔凱は何も言わなかった。
男が手を伸ばし、彼の頭を撫でる。
「叔父さんの言うことを聞け。お前のためなんだから。お前を悪い目には遭わせない。張員外は大金持ちの家だ。これからはうまいものを食って暮らせる。そうなったら叔父さんのほうがお前に取り入らなくちゃならなくなるんだからな」
夜の帳が下りた。
家の外は、真っ暗だった。
女は食卓を離れ、竈のそばへ歩いていく。
焦げた木片を一本引き抜き、それで食卓の上の油灯に火をつけた。
橙色の炎が、細く丸い灯芯の上で揺らめく。
その明かりだけでは、食卓をかろうじて照らすのが精いっぱいだった。
崔凱は箸と椀を置き、腰掛けから飛び降りた。
「小宝、もっと食べなさい。ほら、お前なんて痩せっぽちじゃないか。お前の両親があの世で知ったら、私がお前をちゃんと面倒見てないって怒られるよ」
女は箸で椀の縁を軽く叩き、米を一口口へ運んだ。
――俺は崔凱だ。
――韋小宝じゃない。
「お前、俺とおばさんの部屋に何しに行くんだ? 早く寝床に入らないか」
背後から男の声がした。
彼は壁に手をつきながら、北側の部屋へ入っていった。
「灯りはないの?」
部屋の外へ向かって叫ぶ。
「金を出して油を買ってくれたら、灯りをつけてやる」
男の声が返ってきた。
彼は扉を閉めた。
壁には、三十センチ余りの小さな窓が一つあった。
壁際には木製の寝台が置かれている。
寝台の表面には、無数のささくれが立っていた。
彼は、まばらに藁が敷かれただけの木の寝台に横たわった。
背中がひんやりと冷たい。
――いったい、これはどういうことなんだ?
――本当に宋の時代へタイムスリップしてしまったのか?
彼はこれまで、タイムスリップを題材にしたドラマや小説を数えきれないほど見てきた。
物語の主人公たちは過去へ戻り、さまざまな冒険を経験し、古い世界で王になったり、天下に名を轟かせたりする。
だが、誰が自分のように、タイムスリップした途端、何の力もない子供になるというのだ?
彼は手を伸ばし、両脚の間に触れてみた。
――予想どおり。
子供のものだった。
腹がぐうぐう鳴った。
彼は後悔した。
さっきは、あの自分を甥と呼ぶ叔父夫婦の世間話を聞くことばかりに気を取られて、まずい米をもっと食べておけばよかった。
米粒は細長く、硬く、歯ごたえがない。
もしこれがタイムスリップではなく、ただの夢なら――
これは間違いなく悪夢だ。
……宋徽宗・趙佶。
彼は、男が口にした言葉を思い出した。
「宋徽宗」って、確か皇帝の廟号じゃなかったか?
中学の国語の授業で習った。
廟号とは、皇帝が死んだあとに、後世の人々がその皇帝につける呼び名だ。
――バグってる。
――設定が破綻している。
やはり、ここは現実世界ではない。
ならば残された可能性は一つだけだ。
――自分は夢を見ている。
目が覚めればいい。
そう自分に言い聞かせる。
何もなかったことになる。
彼は身体をよじった。
藁が、ぎしぎしと音を立てる。
敷物の下に何か硬いものがあり、腰と背中に食い込んでくる。
――どうすれば、この夢から目を覚ますことができる?
夢の中の感覚は、なぜこんなにも現実的なんだ?
腰と背中の痛み。
空腹の痛み。
それどころか、耳までもまだじんじんと痛んでいる。
彼は眠りへ落ちていった。
――夢から目覚める、その瞬間を願いながら。




