序章
序章
「チーン――」
エレベーターの扉が壁の中へと引っ込んだ。
彼はエレベーターホールへ入り、振り返って階数表示を見た。間違いない、13階だ。
そのとき、スマートフォンの画面に通知が表示された。
「お届けが遅れている注文があります。ご確認ください」
画面には、絶えず数字が減り続けるカウントダウンのアニメーション。
あと二分で、彼が手にしているこの料理の配達時間が超過する。
食事をホテルのフロントに預けて、配達ロボットに届けさせることだってできる。なのに客は、わざわざ彼に部屋まで直接届けるよう要求してきた。
13階、711号室。
まっすぐに伸びた細長い廊下。褐色の絨毯が敷かれ、足を乗せるとふわふわしている。
もしもう少し時間に余裕があったなら、彼は歩調を緩め、両側の壁に掛けられた装飾画をゆっくり眺めていただろう。
どの絵も名画家の作品だった。
ピカソ、モネ、ゴッホ、ジョット……。
もちろん、これらが本物ではないことくらい彼にも分かっている。
たとえここが、スタンダードルームの宿泊料金だけで三千元もする五つ星ホテル――彼がアルバイトで一か月働いてようやく稼げる金額に匹敵するホテル――だったとしても。
彼はまだ大学生にすぎないが、その程度の常識は持ち合わせている。
レーピンの名作『ヴォルガの舟曳き』の脇に立つと、711号室の半開きになったドアをノックした。
「こんにちは。出前、お届けに来ました」
彼は中へ向かって、そっとドアを押し開けた。
玄関ホールには暖かな黄色い照明が灯っていた。クローゼットのラックには、ベレー帽と白いウールのコートが掛かっている。
「どなたかいらっしゃいますか? お届け物です!」
すると、ドアの向こうから突然、頭が半分だけひょいと覗いた。
彼はびくりとした。
若い女の顔だった。
彼女は彼と同じくらいの年齢に見えた。目をぱちぱちさせながら、申し訳なさそうに彼を見上げている。
彼の鼻先に、彼女の髪から漂う香水の匂いが届いた。
ジャスミンと……パイナップルの香り。
「お兄さん……」
彼女はドア枠とドアノブに手を添えながら言った。
電話越しに聞いた声よりも、ずっと心地よい。
――「呉地方の柔らかな話し言葉」。
彼の脳裏に、真っ先にそんな言葉が浮かんだ。
「ごめんなさい。スープが少しこぼれちゃって。途中、風がすごく強かったから」
彼は容器に入った麻辣湯を、ビニール袋三ついっぱいにして差し出した。
すると、白く滑らかな手のひらがドアの外へ伸びてきて、彼の手首に重なった。
彼が吐いた息が、ヘルメットの風よけシールドの上で白く曇る。
――彼女は、何をするつもりだ?
彼女の柔らかな指が、彼の虎口――親指と人差し指の付け根――を押さえた。
――彼女、俺に気があるのか?
嵐の夜。
突然訪れた、思いがけない恋の出会い。
まるで蒲松齢の小説に出てくるような場面だった。
夜の闇に紛れて現れた美しい妖怪が、灯火の下で孤独に過ごす書生を慰める――そんな物語。
女の子は鼻筋がすっと高く、両頬には赤みが差していた。髪はしっとりと濡れている。もしかすると、ついさっきまで浴室にいたのかもしれない。
「ああっ――」
彼女は甘えるような声を漏らし、頭を俯けた。
右手を上へ伸ばし、彼の腕を押さえる。
その顔は苦痛に耐えているかのように歪んでいた。
「あっ――」
再び、彼女の喘ぐような声がした。
どこか具合が悪いのだろうか。
病院へ連れて行きましょうか?
彼はそう言った。
手を引き抜こうとする。
もし彼女を病院へ連れて行くのなら、まずヘルメットを脱いで、自分の顔を見せなければならない。
すると彼女は右手を離した。
頭が上下に揺れる。
彼女は顔と同じくらい白く、光を放つような腕を下ろした。指には、彼が渡したビニール袋がぶら下がっている。
「気持ちいい?」
ドアの向こうから、男の声がした。
太く、低い声。
荒い息遣いが混じっている。
女の子は「ん……んん……」と、途切れ途切れの声を返した。
その瞬間、彼はようやく理解した。
目の前で、何が起きているのかを。
彼は二歩後ずさった。
そして、逃げるようにエレベーターへ向かって駆け出した。
豚のような男の呻き声が、廊下に響き渡った。
* * *
一階のホテルロビーは、明るい照明に照らされていた。
彼は回転ドアへ踏み込むべきかどうか、ためらった。
午後三時。
空はまるで黒灰色の幕で覆われたかのようだった。
植え込みのヤシの木は、荒れ狂う強風に吹き倒されそうなほど一方向へ傾き、葉は乱れた長髪のように宙を舞っている。
脳裏に、さっきの女の子の顔が浮かんだ。
どうしても消えてくれない。
彼女の容姿は、まさに彼の好みにど真ん中だった。
彼が思い描いていた「理想の恋人」が、そのまま人の姿になって現れたかのようだった。
彼だって、綺麗な女の子を見たことがないわけではない。
同じクラスの女子にも、可愛い子や美人は何人もいる。
心を動かされるほど綺麗な子だっていた。
だが――誰一人として、さっきの女の子には及ばなかった。
明らかだった。
彼は人生で初めての「一目惚れ」を経験したのだ。
ただし、その「一目惚れ」は彼一人のものだった。
彼女は、ひょっとすると彼の顔さえまともに見ていなかったかもしれない。
彼女の心も、意識も、すべて別の男に奪われていた。
これが、残酷な社会というものなのか?
それとも――これこそが社会の残酷さなのか?
崔凱。
二十歳の誕生日を迎えたばかりの、大学進学を控えた青年。
夏休みの空いた時間を利用して、出前配達員のアルバイトをしている。
次の学年の生活費を稼ぐため。
そして、社会に出て経験を積み、見聞を広めるため。
ところが今、彼は自分自身を疑い始めていた。
――自分には、本当にこの複雑な社会を理解するだけの心の成熟があるのだろうか?
手のひらに振動が伝わってきた。
出前アプリから通知が届く。
今回の注文が時間超過で配達されたため、アカウントから10元が差し引かれた。
彼は回転ドアをくぐり、ホテルを出た。
朝から吹き荒れていた台風が、今もなお轟音を立てて通り過ぎていく。
身につけたビニール製のレインコートが、ばさばさと音を立てる。
雨粒が目に入り込む。
もし彼が泣き始めたとしても、顔を伝うものが雨なのか涙なのか、誰にも見分けはつかないだろう。
だが、彼は泣いていなかった。
周囲には誰もいない。
道路までは四、五メートルほど。
時折、乗用車が猛スピードで走り抜けていく。
こんな天気の日に、いったい誰が外へ出るというのだろう。
彼はルームメイトたちの姿を想像した。
エアコンの効いた寮の部屋に引きこもり、コンピューターゲームをしているか。
あるいは、彼女と電話で長話をしているか。
彼はいまだに独身だった。
それどころか、これまで一度も彼女ができたことがない。
また、さっきの女の子を思い出した。
もし、別の時間軸だったら――
たとえば、自分が通っている大学のキャンパスで彼女と出会っていたら。
――自分は、彼女の恋人になれる可能性があっただろうか?
また自惚れている。
さっきの教訓では、まだ足りないのか?
仮に彼女と知り合っていたとしても、自分には彼女をあんな高級ホテルへ連れて行くことなどできない。
――崔凱、もう少し大人になれ。
成熟するんだ。
もう二度と、女の子に心を奪われたりしない。
スマートフォンが震えた。
画面に新しい通知が表示された。
出前システムから、新しい注文が割り当てられたのだ。
画面には二つのボタンがある。
「拒否」と「受け取る」。
彼は迷うことなく「受け取る」をタップした。
今日のような異常気象の中で配達を成功させれば、追加で8元の報酬がもらえる。
「天が大任をこの人に降さんとするや、必ずまずその心志を苦しめ、その筋骨を労せしめ……」
彼はそんな言葉を呟きながら、ホテル前の広場にある旗台の脇へ停めてあった電動バイクへ歩いていった。
鍵を鍵穴に差し込む。
彼は向かい風の中を走り出した。
出前アプリによれば、注文の品を準備している店までは二十分かかる。
赤信号。
まず左ブレーキ、次に右ブレーキ。
彼は白い停止線の手前でバイクを止めた。
「風雨の中、この程度の痛み――何を恐れることがある」
彼は心の中でそう唱えた。
信号が青に変わる。
彼はアクセルをひねった。
白い光が、一閃した。
彼は地面に倒れた。
頭上から、「ゴロゴロゴロ……」という音が聞こえてきた。
それは、途方もなく遠いところから響いてくるように感じられた。
彼は静かに目を閉じた。




