十八
夜が明け始めた。
南熏門の城楼では、朝日に照らされた瓦がきらきらと輝いている。城壁の麓では旗がはためき、人々がひしめき合っていた。
韋小宝は城壁の胸壁の上に立った。
汴梁の街並みが一望できる。
御街を行き交う人影はまばらで、小さな街路や路地には人っ子一人いない。
盛装した金軍の将官たちが、城楼の月台に集まっていた。
やがて、遠くまで響き渡る長い唱和の声が上がった。
「大宋皇帝、趙桓陛下のお出まし!」
趙桓はゆっくりと城頭へ上り、金軍の将官たちの前まで歩み出ると、迷いなく跪いた。
両手を高く掲げ、一巻の巻物を差し出す。
髭を生やした金兵の代表者がそれを受け取り、机の上に広げた。
降表を黙読する。
ところが、ほどなく巻物を趙桓へ返した。
「出来が悪い。書き直せ」
趙桓は傍らの数人の大臣に小声で二言三言指示した。
大臣たちはたちまち慌ただしく動き始め、机を用意する者、金兵に筆と墨を借りに行く者、降表の文言をああでもないこうでもないと相談する者で、辺りは騒然となった。
降伏文書は四度目の書き直しを経て、ようやく金兵の代表に受け取られた。
完顔昌は巻物を手にすると、ゆっくりと身を巡らせ、城楼の広場にいる金軍の将兵と、瓮城から様子を見守る人々に向かって朗々と声を張り上げた。
「趙氏の父子は徳がその位に及ばず、奸臣を重用し、幾度となく盟約を破り、信義を棄てた。まことに憎むべき所業である。さらに趙氏の父子は国内では苛斂誅求を重ね、租税や賦役をむやみに取り立て、民を塗炭の苦しみに陥れた。天帝もこれを哀れんでおられる。今、大金は天に代わって道を行い、民を吊い、罪を伐つ。よって趙氏に罰を下し、趙佶、趙桓を庶民に落とす!」
「趙佶、趙桓を庶民に落とすぞ!」
金兵たちが城壁の下へ向かって叫んだ。
城壁の麓では、雷鳴のような歓声が沸き起こった。
「大金万歳!」
完顔昌は腰を屈め、いつまでも跪いたままの趙桓に言った。
「お前も親父と一緒に、俺たちと金国へ帰るんだ」
そう言って背筋を伸ばすと、金軍の将兵たちに向かって大声で叫んだ。
「さあ、俺たちは家へ帰るぞ!」
城楼上の金兵たちの顔に喜色が浮かんだ。
「帰るぞ!」
「帰るぞ!」
皆が声を揃えて何度も叫ぶ。
数人の兵士が完顔昌の周囲に集まり、彼を持ち上げると、空中へ放り上げ、また受け止めた。
金軍が汴梁から撤退する前に、完顔昌は宋国の官吏たちに期限を定めた。
十日以内に、新たな皇帝を選出せよ。
宋国の文武百官は崇政殿に集まった。
最初に口火を切ったのは、吏部尚書兼開封府尹の王時雍だった。
「皇帝には、張邦昌になってもらいましょう」
一石を投じれば千波が立つ。
群臣はそれぞれ勝手な意見を言い始め、たちまち場は収拾がつかなくなった。
王時雍は声を張り上げた。
「張邦昌を皇帝にするのは、金人の意向だ!」
群臣は一斉に口をつぐんだ。
張邦昌は顔を真っ赤にし、しきりに両手を振っている。
王時雍はしばらく待った。
誰も口を開こうとしないのを見ると、再び言った。
「張相公――いやいや、これからは皇上とお呼びせねばなりませんな。皇上、これからこの天下は張家のものですぞ。ははは! それで、国号ですが、『大楚』としましょう。皇上、いかがです?」
「うむ……それがよかろう」
張邦昌は答えた。
「ええ……そなたの言うとおり、国号は『大楚』としよう」
「反対!」
人々の中から秦桧が歩み出た。
「反対だ!」
「何が反対だ?」
王時雍が秦桧を睨みつける。
「王尚書、『大楚』という二文字も金人が決めたのですか?」
秦桧が言った。
「『楚』は木が二つ。これまで大宋には木偏が一つしかなかったのに、今度は一度に二つだ。これでは金国に克され足りないとでもいうのか?」
「それに、張邦昌を皇帝にするのが金人の意向だと言うが、その証拠となる書簡でもあるのか? 我々はどうして、あなたが『天子を擁して諸侯に号令する』ような真似をしていないと分かる?」
「私は趙氏の宗親から皇帝を選ぶことを提案する」
群臣は沈黙した。
韋小宝を含む数人が、頷いて賛意を示した。
「金人から私に届いた書簡だが――」
王時雍はにこにこと笑いながら言った。
「秦会之、お前のような小さな御史中丞に見る資格があると思うか?」
「おい、者ども。秦桧を捕らえ、大理寺へ送って収監しろ」
刀の柄に手を置いた禁軍二十人ほどが二手に分かれて殿内へ駆け込み、秦桧を連行していった。
「お前たち、何をしているんだ?!」
韋小宝が叫んだ。
「禁軍は皇帝の命令にしか従わないんだぞ! 王時雍、お前が皇帝なのか?!」
王時雍は韋小宝を見た。
まるで、その目だけで韋小宝の顔から肉を一片えぐり取ろうとするかのような視線だった。
韋小宝はぞっとした。
すぐに口を閉じ、人混みの中へ身を隠した。
張邦昌が大楚国の皇帝に選ばれた。
この知らせを受けた完顔昌は、新皇帝の即位式は「速やかに、簡素に」行うべきだと提案した。
即位式の前夜。
北から狂風が吹き荒れ、風には砂粒が混じっていた。
風の音は、まるで鬼が泣き、狼が吠えているようだった。
翌朝になっても狂風はやまない。
黄砂が太陽を覆い、空は薄暗く陰鬱だった。
宦官が張邦昌に進言した。
「日を改めて即位式を行われてはいかがでしょう」
「金軍は、こちらの用事が済まなければ国へ帰れないんだ」
張邦昌は言った。
「今日、空から刀が降ってこようと、私は即位しなければならん」
午前中だけで、即位式は終了した。
大宋の礼制では、新皇帝は紫宸殿に座して百官の朝賀を受けることになっている。
しかし張邦昌は殿に座ろうとしなかった。
王時雍が諭す。
「皇上には、皇上らしい姿をしていただかねばなりません。そうでなければ、人から『見たところ、まるで人君には見えない』と言われますぞ」
「王時雍、ずいぶん大胆なことを言うな。皇上が何をしたいかは皇上の勝手だ。お前がここでぶつぶつ口を挟む必要があるのか?」
韋小宝が言った。
王時雍は髭を逆立て、目をむいて、今にも怒鳴りつけようとした。
そのとき、冊封書を届けに来た金国の使者が口を挟んだ。
「大金が大楚皇帝に冊封してやったのに、殿に座らねえとはどういうことだ? 俺たちの決めたことに不満でもあるのか? 張邦昌、お前はいったい何を考えてる?」
「私が殿に座ればよいのだな」
張邦昌はそう言うと、紫宸殿の東側にある文徳殿へ入った。
そして次々とやって来る官員たちの朝賀を受けた。
「皇上のご長寿をお祈り申し上げます! 万歳、万歳、万々歳!」
王時雍が真っ先に跪き、大声で叫んだ。
百官も一斉に膝を折る。
張邦昌は東を向き、横顔だけを百官へ向けていた。
張邦昌は約束した。
大楚国は毎年、春の終わりになると、決められた量の歳幣を宗主国たる大金上国へ滞りなく納める、と。
完顔昌は言った。
「お前が約束を違えないと、俺は信じている」
金軍は陣を払い、荷物をまとめて帰国の準備を始めた。
汴梁外城は大いに賑わっていた。
銅鑼や太鼓が鳴り響いている。
韋小宝が内城から出てきて様子を見ると、汴梁の民衆が、夜通し急いで作った万民傘を手に、金軍を見送っているのだった。
南熏門を通り過ぎたところで、韋小宝は大勢の人が掲示板の前に集まっているのを見つけた。
人混みをかき分けて中へ入る。
そこには、「大金」の名義で出された紅榜が一枚、ひときわ目立っていた。
榜文は三つの段落と一枚の名簿からなっていた。
第一段には、金軍は三日以内に北へ帰還すること、ここ数日、汴梁の民を驚かせ迷惑をかけたことを深く詫びる、と記されていた。
第二段には、汴梁全城の職人、医工、儒士に対し、軍に同行して金国へ来るよう呼びかけていた。
そして第三段になると、文面の調子が一変した。
名簿に名前が載っている者は、三日以内に金軍の陣営へ出頭せよ。
期限を過ぎても来ない者は、乱臣賊子として処罰する。
名簿の中には、「秦会之」の三文字が、ひときわ大きく目立っていた。
韋小宝は大理寺へ四度も足を運んだ。
養父に一度だけ会わせてほしいと、大理寺評事に懇願した。
だが、四度とも断られた。
「こいつは大金が名指しした重罪人だ。もし何かあったら、お前に責任が取れるのか?」
評事は鼻で笑った。
「秦桧に会いたいなら、こいつと一緒に金国へ行けばいいじゃないか。へへへ」
金軍が出発する日。
二、三人ずつ横一列に並んだ金兵たちは、曲がりくねった長い列を作っていた。
その先頭を馬で進む完顔昌、完顔宗翰、完顔宗望の三人は、もはや小さな点にしか見えない。
韋小宝は何とも言えない寂しさを覚えながら、長い列の中に養父・秦桧の姿を探した。
金兵たちの後ろには、もう一つの長い行列が続いていた。
荷物を背負う者。
荷袋を担ぐ者。
輿に乗る者。
大八車や一輪車に乗る者。
その多くは、金軍について北へ行くことを決意した汴梁の民だった。
趙佶、趙桓とその家族、召使い、内侍、それに本人の意思とは関係なく、あるいは自ら進んで随行することになった宋室の旧臣たちも、隊列の後方を歩いていた。
完顔昌は宋室の大臣たちが乗り物を使うことを許した。
七品以上の官員は輿に乗ってよい。
女眷は驢馬車に乗ってよい。
ただし趙佶と趙桓だけは、徒歩でなければならなかった。
韋小宝は輿の窓の幕をめくり、秦桧が中にいないか確かめようとした。
すると一人の兵士が長剣を振り上げ、怒鳴った。
「失せろ! さもなきゃ、お前の体に穴を開けるぞ!」
韋小宝は、その男が禁軍の一員であることに気づいた。
数歩先では、都巡検使の范琼が刀を手に、太上皇・趙佶のすぐ後ろについている。
趙佶と趙桓は褐色の粗末な布衣を着ていた。
頬も両手も外気にさらされ、寒さで真っ赤になっている。
二人はうつむいて歩いていた。
前を趙桓、後ろを趙佶が歩いている。
范琼が脚を上げ、趙佶の尻を思いきり蹴飛ばした。
「老いぼれ、何をぐずぐずしてやがる!」
趙佶はよろめきながら数歩前へ出た。
趙桓が振り返り、怒りに満ちた目で范琼を睨みつける。
范琼は白い痰を一塊吐き出し、それを趙桓の顔に吐きかけた。
「まだ自分が皇上だと思ってるのか? もう一度そんな目で俺を見てみろ。目玉をえぐり出してやる」
趙桓は立ち止まり、歩こうとしなかった。
そこへ後ろから追いついてきた趙佶が、息子の両肩をつかんだ。
そして、目で合図を送った。
趙桓はうつむき、振り返って、黙々と隊列に戻った。
北へ向かう隊列の最後の者たちが平野の彼方へ消えていくまで、韋小宝は養父と一言も言葉を交わすことができなかった。
日が西へ傾き、夕暮れが迫る。
韋小宝は振り返り、汴梁の城門へ向かって歩き出した。
城門の門洞を通っていると、誰かが自分の名を呼ぶ声がした。
顔を上げる。
騎兵の小隊を率いた韓世忠だった。
「韓秉義郎、もうすぐ日が暮れるのに、こんな時間に城外へ出るんですか?」
韋小宝が尋ねた。
「もちろん、食い扶持を探しに行くのさ」
韓世忠は言った。
「汴梁は大きいが、俺の居場所はない。官家の寵臣が俺を気に入らないらしい。いずれ俺にも手を出してくるだろう」
「官家の寵臣って、誰です?」
「他に誰がいる?」
韓世忠は言った。
「王姓の奴に決まってる。官家は王時雍を知枢密院に抜擢し、尚書事まで兼ねさせた。大楚国の文官も武将も、全部あいつ一人の手の中だ。『権力が朝廷を覆っている』と言っても過言じゃない。いやあ、大した威勢だよ!」
「韋大夫、王時雍は人を秦桧の家へ遣わして、お前を探させたそうだ。だが見つからなかったらしい。俺が思うに、韋大夫、お前に官職や爵位をくれてやろうって腹なんじゃないか」
「韓相公、俺は戻らないよ」
韋小宝は言った。
韋小宝は韓世忠の騎兵隊から一頭の駿馬を借り、韓世忠と一緒に城外へ出た。
「韓相公、これから誰のところへ身を寄せるつもりです?」
韋小宝が尋ねた。
「当ててみろ」
「まさか金国じゃないよな。金人と一緒に行くつもりなら、今ここで出発する必要なんてない。さっき一緒に行けばよかったんだから」
韋小宝は言った。
「かといって、山賊になるわけでもない……」
「今の天下で、軍を養えるだけの力を残しているのは、趙氏の遺児、康王だけだ」
「お前、康王のところへ身を寄せるつもりだな」
「お見事!」
韓世忠は感心したように言った。
「韋大夫、一緒に行かないか?」
「俺は康王のところへは行かない」
韋小宝は言った。
「俺が行くのは、岳飛のところだ」
「岳飛? どこの名門の出だ? そんな名は聞いたことがないぞ」
韋小宝は手を振って別れを告げた。
「今、聞いただろ」




