十六
「小宝、まさかこんなところでお前に会うとはな」
厚手の布の短い上着を着た岳飛は、韋小宝の杯に酒を注いだ。
「どうして汴京から相州まで来たんだ?」
「金軍がまた攻めてきたじゃないか。官家が康王を金軍との交渉に遣わしたんだ。俺もお前と同じで、たまたまここを通りかかっただけさ」
「金人ってやつは、本当に手のひらを返すのが早いな。本をめくるより早い」
岳飛が言った。
「鵬挙、実は今回のことには大きな裏があるんだ」
韋小宝は岳飛の耳元に顔を寄せ、声を落とした。
「どんな裏がある?」
「俺の推測だけどな。張浚が一通の手紙を金国の大臣、蕭仲恭に渡して、金国の武将、耶律余睹に届けさせようとしたんだ。耶律余睹を宋に招降するつもりだったんだろう。ところが蕭仲恭はその手紙を金国皇帝の完顔晟に渡しちまった。企みがばれたんだから、金軍がまたやって来て、説明しろって騒ぎ出すのも当然だろ」
韋小宝は皿の上から米糕を一切れつまみ、口に放り込んだ。
途端に、強烈な酸味が口いっぱいに広がった。
「ぺっ!」
韋小宝は顔を背け、口の中のものを吐き出した。
べちゃりと潰れた米糕は、隣席にいた劉光世の頬を直撃した。
「韋大夫――」
劉光世は顔を拭い、手を振りながら、怒った声を上げた。
「康王と仲がいいからって、俺がお前を殴れないと思うなよ」
「劉相公、悪かった」
そう言うと韋小宝は、康王・趙構と刑部尚書・王云のそばで酒を注いでいた店の小僧に手招きした。
腹の出た、五十過ぎに見える店の小僧――どうやら店主も兼ねているらしい――が、こちらへやって来た。
韋小宝は碗や皿の中の米糕を指差した。
「腐ったものまで売り物にするのか?」
「旦那、舌が肥えてますねえ。こんな貧乏な土地じゃ、食えるものがあるだけありがたいってもんですよ」
店の小僧は米糕をつまんで口に入れた。
「腐ってなんかいませんよ。甘くてうまいくらいだ」
韋小宝と店の小僧のやり取りに、隣の数卓にいた将兵たちも興味深そうに視線を向けてきた。
一緒になって茶や酒を飲んでいるものの、将兵たちの服の仕立てや色を見れば、そこに二つの集団がいることはすぐに分かる。
灰色の短い上着を着た二十人ほどは、都統制・王彦の配下。
青い袍に軟甲をまとった三十人余りは、康王を河北路まで護送し、金軍と交渉する使節団の者たちだった。
韋小宝は笑って店の小僧を帰した。
一行がいるのは相州安陽県の郊外。周囲には果てしなく荒野が広がっている。街道沿いのこんな小さな酒場で足を休められるだけでも、思いがけない幸運だった。
劉光世は箸で卓の上を弄びながら、ふさぎ込んだように言った。
「この白い糕がどれだけまずくても、蛆を食うよりはましだ」
「劉将軍、どうしてそんなことを?」
岳飛が尋ねた。
「土の中に埋められたら、蛆を食う羽目になるだろうが」
「何で俺の幼馴染みを縁起でもないことで脅すんだよ」
韋小宝が言った。
「お前を脅してるんじゃない。自分自身を脅してるんだ」
劉光世は言った。
「交渉がうまくいかなきゃ、俺たちはみんな死ぬ」
「お前は百歳まで生きるさ。死にゃしない」
韋小宝が言う。
「交渉なんて、戦場に行くわけじゃないんだから」
「俺の親父、劉延慶は戦場に出なきゃならないんだ! 汴梁城を守ってるんだからな。今の情勢を見れば、宋と金はいずれ必ず血みどろの戦になる」
劉光世は箸を卓に叩きつけた。
その言葉に、隣の卓にいた三十歳くらいの武将が同意した。
韋小宝はその男が、最近、武節郎に昇進した韓世忠だと気づいた。
「まったくだ。宋と金が和平の盟約を結んでから、まだ一年も経っていないのに、金賊はもう盟約を破った。恥知らずにもほどがある! いずれ奴らとは一戦やらなきゃならん」
韓世忠は憤然として言った。
「しかも今回、金軍は燕山府を通った。燕山府留守の郭薬師は戦わずして降伏したばかりか、そのまま金賊について南下しやがった。あんな郭薬師は死んで当然だ!」
「三姓の家奴め!」
「俺の目の前に郭の姓の奴が現れたら、ただじゃおかんぞ!」
「裏切り者は殺せ!」
将兵たちは口々に郭薬師を罵り始めた。
罵声は次第に激しくなり、卓を叩き、腰掛けを蹴り、酒杯まで投げ始めた。店の小僧が止めようとしても、とても手に負えない。
やがて康王が一喝すると、ようやく騒ぎは静まっていった。
「小宝、俺はもうすぐ戦場に出る」
岳飛が言った。
「王彦王統制は、新郷で金軍を迎え撃つつもりらしい」
「新郷?」
韋小宝は何かを思いついた。
そして劉光世に言った。
「劉相公、ちょっと別のところに座ってくれないか? 幼馴染みと二言三言、内緒話をしたいんだ」
「また内緒話かよ! 男二人で!」
劉光世は鼻を鳴らした。
「好きに話せ。俺は聞かないから」
「劉相公、まだどかないなら康王に訴えるぞ。親父の劉延慶の威光を笠に着て、人をいじめてるってな」
「病気だな、お前」
劉光世はぶつぶつ文句を言いながら、数歩離れたところにある店の幟のそばへ移動した。
「岳飛、よく聞け」
韋小宝は手を伸ばして幼馴染みの手を握った。
掌と掌を合わせる。
ざらざらして硬く、無数の胼胝ができている。まるでひび割れた樹皮に触れているようだった。
泥の中を掘り返して食を探す手。
農民の手だ。
「新郷での戦い、この戦では何とかして逃げろ。お前たちは金軍には勝てない」
「まだ戦ってもいないのに、どうして分かる?」
「岳飛、お前、みんなが金人をどう評してるか聞いてないのか? 『金人百に満たざれば恐るるに足らず、百に満てば敵なし』って言うだろ。まして今回は完顔宗翰と完顔宗望、二つの大軍が一緒に来るんだ」
韋小宝は言った。
「無駄死には絶対にするな。完顔の軍と王彦の軍がまだぶつからないうちに、さっさと逃げろ」
「何年も兵士をやって、一官半職にもありつけず、母さんに大きな家を買ってやることもできない。それなのに戦の直前に逃げたところを捕まったら、軍籍を剥奪されるじゃないか」
「岳飛、俺がお前を騙したことが一度でもあるか? 人にお前の命運を占ってもらったんだ。王彦の下じゃ、お前は出世できない」
「じゃあ、誰の下につけば出世できる?」
「お前には天命がある。いずれ必ず大出世する。ただ、時機を待つ必要がある。『易経』に何て書いてあったっけ……そうだ、『潜龍、用うるなかれ』だ」
「全隊、集合!」
道端に立っていた王云が腕を振って叫んだ。
「これ以上ぐずぐずしてたら、今夜は野宿だぞ!」
「おお――そうだ!」
韋小宝は思い出したように、もう一度岳飛の耳元で囁いた。
「新郷の戦いだけじゃない。もう一つ、別の戦いでもお前は逃げろ。どこで戦うのかは、俺もよく覚えてない……とにかく、機を見て動け。命が一番だ。絶対に忘れるな、絶対だぞ」
そう言うと韋小宝は駆け出し、人数を確認している使節団の列へと紛れ込んだ。
河北路へ向かう道中、王云が趙構に尋ねた。
「康王、皇上は私をあなたに同行させ、金人と交渉せよと仰せになりましたが、交渉の内容については何もお聞かせになりませんでした。皇上からあなたに一通の蝋書が渡されておりますが、そこに交渉の内容が書かれているのでしょうか? 差し支えなければ、少し教えていただけませんか」
「今回、北へ向かう本当の目的は、交渉ではない」
趙構は言った。
「交渉ではない?」
「王相公、さっき皆が言っていただろう」
馬上の趙構は後ろを振り返り、使節団を見た。
「金国は燕山府留守の郭薬師を招降した。金国はこれまで、『招降納叛』をひどく嫌ってきた。それは数か月前に宋と金が結んだ和平条約にも、『互いに招降納叛を行わない』という条項として盛り込まれている。ところが今回は、金国のほうから盟約を破った。王相公、なぜだと思う?」
「金人が盟約を破ることなど、今さら珍しくもありますまい」
趙構は首を横に振った。
「王相公、金軍が今回の南下を何と呼んでいるか、知っているか?」
「『民を吊い、罪を伐つ』――そう言っている」
「『仁義の兵を興し、民を吊い、罪を伐つ』……」
王云は呟いた。
「王相公、まだ分からないか?」
趙構は言った。
「金国はもう大宋を兄弟の国とは見なしていないんだ」
王云が頷く。
趙構は続けた。
「だから我々は交渉に行くのではない。和を請いに行く――しかも、腰を低くして、金軍に兵を収め、戈を止めてもらうために、こちらから頭を下げに行くんだ。そんなことを大々的に知らせて、事前に言い触らすわけにはいかない。知る者は少なければ少ないほどいい」
「粛王・趙枢も官家に金軍のもとへ遣わされたそうですが……前回も彼ではありませんでしたか?」
王云が言った。
「皇上が一言命じれば、我々臣下は足が棒になるまで走らされる。王相公、私はどうも今回の旅は前途多難な気がしてならない。もし金軍がこちらの和睦の願いを受け入れなかったら、どうすればいい?」
趙構が言った。
「康王、あなたはまだ若い。若者は命を惜しむものだ。私のような老いぼれとは違う。私はこれまで、凶事だの危険だのという場面をいくつ見てきたと思う?」
王云は笑った。
「高麗国にまで行ったことがあるんですよ。康王は行ったことがありますか?」
「首を斬られたところで、碗ほどの傷跡が一つ増えるだけだ。何を怖がる!」
使節団は五日かけて黄河の岸辺まで進み、磁州磁県に入った。
黄河の対岸には、金軍の陣営が広がっている。
ちょうど夕暮れ時で、金兵たちは三々五々、川辺にしゃがみ込んで水を汲み、飯を炊いていた。陣営の上には煙が立ち込め、炊事の匂いが川の両岸まで漂ってくる。
康王は一行に丸一日休息を取るよう命じた。
「英気を養い、明後日に河を渡る」
一行は磁県の県衙のそばにある宿屋に泊まった。
夜が明けたばかりの頃、康王は王云と韋小宝を連れて早朝の散歩に出た。
韋小宝は眠くて目もまともに開けられず、ふらふらしながら二人の後をついていった。
三人は一軒の城隍廟を見つけた。
身なりのぼろぼろな信徒が数十人、廟門の前に跪き、線香を手にして何度も頭を下げている。
「中へ入って、ちょっと見てみよう」
康王が言った。
「どけ!」
王云は信徒たちを押しのけ、康王のために道を開けた。
「都から来た王爺様が廟で線香を上げるんだ。庶民は道を空けろ!」
「都って、東京か? 西京か? 南京か? それとも北京か?」
「汴京だ。天子様のお膝元、汴京だ――天子が誰か、お前は知っているのか?」
王云が言った。
「天子様が来たって、城隍爺様には頭を下げなきゃならねえ」
「お前の戸帖はどこだ? 戸帖はあるのか? 戸帖を出せ! 皇上さえ馬鹿にするとは、牢屋にぶち込まれても知らんぞ! 何様のつもりだ!」
王云は大股で歩き、声を上げた男の目の前まで駆け寄った。
「お前こそ、何様だ?」
「俺は大宋刑部吏書、王子飛だ!」
「刑部の吏書が、こんな貧乏な土地に来るもんかよ」
男は吐き捨てるように言った。
「王子飛……俺はこいつを知ってるぞ……こいつが堅壁清野を命じたんだ……こいつの命令だ……『黄河以南を犠牲にして大宋を守る』ってな。俺たちに飯を食わせなくしたのは、こいつだ!」
餌に群がる犬のように、信徒たちが王云を取り囲んだ。
韋小宝にはよく聞き取れない方言で、口々に喚き、罵っている。
韋小宝は両腕を広げ、康王を庇った。
――しかし、誰一人として二人に目を向ける者はいなかった。
王云に最も近かった三、四人が、次々と拳を繰り出した。
王云は地面に倒れた。
それでも男たちは殴るのをやめない。
輪の外側にいて、直接手を出せなかった者たちは、狂ったように罵声を浴びせ、興奮して飛び跳ねていた。
やがて通りを歩く人も増えてきた。
廟の前に集まっていた信徒たちは、ようやく散っていった。
王云は廟門のそばにある大鼎の脇で、死体となって横たわっていた。
顔全体が血と肉でぐちゃぐちゃになっている。
口の端は大きく引き裂かれ、桃色の皮膚が上へめくれ上がって鼻を覆っていた。
左目の眼球はえぐり出され、眼窩だけが黒い穴となって残っている。
康王は顔を背けた。
「小宝、遺体を収めてくれ」
韋小宝にそう命じた。
王云の胸元には、黒い布が二枚置かれていた。
王云は目を患っており、夜眠るときにはこの布で目を覆っていたのだ。
韋小宝がその黒布を持ち上げた。
その瞬間、初めて気づいた。
――手にしていたのは黒布ではない。
頭の皮だった。
王云は死んだ。
魂を抜かれたようになった康王は、金軍の陣営へ赴いて和睦を請う計画をいったん延期し、使節団を率いて相州まで南へ撤退した。
相州の地に入ったところで、康王は皇上から送られてきた金字牌の急脚逓を受け取った。
中には一通の御札が入っていた。
金軍は破竹の勢いで進撃し、すでに汴梁城の城外まで迫っている。
――特にそなたを天下兵馬大元帥に任ずる。兵馬を糾合し、急ぎ京師を救援せよ!
御札には、趙桓がそう記していた。
同時に天下兵馬副元帥に任命された磁州知州・宗沢は、趙構に懇願した。
「今回の包囲は、これまでとはわけが違います。完顔宗翰、完顔宗望に加え、金太祖の弟、完顔昌までが三方向から大軍を率いて集結し、汴梁城を水も漏らさぬほど完全に包囲しております。康王、あなたが一言お命じくだされば、この六十を過ぎた老いぼれ、命を懸けてでも趙氏を水火の苦しみから救いに参ります!」
「宗相公、どうかお静かに。昔から言うでしょう。事は急がず、ゆっくり進めれば丸く収まる、と」
趙構は言った。
「今のところ、私の指揮下に集まっている勤王軍は一万余りにすぎません。もう少し待ちましょう。各地の勤王軍が揃ってから動けばいい」
――その「もう少し」が、一か月にもなった。
韓世忠、劉光世のほか、遠く大同府から武義大夫・張俊も駆けつけた。
趙構の指揮下に入った勤王軍は、実に八万人にまで膨れ上がった。
「康王、いったい何をなさっているのです!」
諸将の面前で、宗沢は怒鳴った。
「いつまで経っても動かん! まだ汴京を救援するために兵を出さないおつもりか?!」
「宗将軍、私にどうしろというのです?」
趙構が尋ねた。
「兵を澶淵へ向け、金軍の後方を塞ぐのです!」
「よし。宗相公、二万の兵を率いて澶淵へ行ってください」
「では、あなた自身は?」
「私はまず大名府へ行く」
趙構はしばらく考えた。
「その後、京東路の済州へ向かう」
宗沢の老いた顔は真っ赤になった。
怒りのあまり、逆に笑いが漏れる。
「済州だと? あそこには金兵などいないではないか! そんなところへ行って何をするつもりだ?」
康王は答えなかった。
韋小宝が一歩前へ出た。
「俺は汴梁へ行きたい。元帥、お許し願えませんか」
康王は手のひらを、ほんの少し二度ほど返した。
その意味を察した韋小宝は、広間を出ていった。




