十四
蒸し暑くて、息も詰まりそうな陽気だった。
遠く、曲がり道の先に見えていた騎兵隊の姿が、次第に小さくなり、やがて視界から消えていった。
「ここの府尹は、なかなか気が利くじゃないか。兵を出して、赣州の境までずっと護衛してくれたぞ」
棗色の馬にまたがった童貫が、腰を左右に揺らしながら、隣を馬で進む張澄に言った。
「この方に太上皇がおられるんです。気を利かせないわけにはいかないでしょう」
張澄が答えた。
「そりゃそうだ。俺たちは太上皇のおかげで得をしてるってわけだな」
童貫は左手にある馬車へ目をやった。
馬車の窓は、上下に滑らせて開閉できる檀木の板で塞がれている。
趙佶が南へ下ってから、この三か月あまり。
その間に韋小宝は、趙佶の生活習慣をすっかり把握していた。
今ごろはきっと、車の中で昼寝をしているはずだ。
「韋小宝、お前が懐に抱えている木箱には、何の宝物が入ってるんだ?」
童貫は、ゆらゆら揺れる二人乗りの小さな輿に座っている韋小宝に尋ねた。
韋小宝は張澄を見た。
「これは皇上が私に下さったものです。むやみに人に見せるわけにはいきません」
張澄が言った。
「時が来れば、王爺にも分かりますよ」
「七弦琴か?」
張澄は、肯定も否定もしなかった。
「張澄、お前たち台諫官は、どうしてみんな判で押したように同じなんだ?」
童貫が言った。
「全員、仏頂面で、生気がない。一緒に旅をしてるのに、俺はお前が笑ったところを一度も見たことがないぞ」
「交渉はまだ続いている。汴梁を包囲している金軍も撤退していない。社稷の存亡が懸かっているのに、笑えるわけがない」
「『社稷の存亡』だと――けっ」
童貫は鼻で笑った。
「我が大宋の社稷は盤石だ。基礎は万年、運勢だってまだまだ長い。今は金賊が威勢を張っているように見えるが、それも一時のことだ!」
「誰だって分かるさ。南蛮のこの土地を押さえてさえいれば、金国が俺たちとどうやって戦う? 金は出る、食糧も出る。引き延ばしていれば、そのうち向こうが先に干上がるさ」
「童貫――」
「ギイッ」
軽い音を立て、馬車の窓板が上へ引き上げられた。
趙佶が顔を覗かせた。
「お前、口を休ませることができんのか?」
童貫は、いたずら小僧のように舌をぺろりと出した。
前方には、青々と茂った竹林が広がっていた。
その中に、一軒の屋敷がある。
灰色の竹垣に囲まれた菜園では、十数羽の白いガチョウが片足で立っていた。
突然、隊列が停止した。
趙佶が馬車を降りた。
「少し休もう」
そう言って、竹垣のそばにあるクスノキの下へ歩いていく。
そして股間から小便をした。
「太上皇、あの大きなガチョウをご覧ください」
童貫が言った。
「太上皇が初めて狩りに出たとき、射止めたのも、あんな大きな白ガチョウでしたね」
趙佶は木の幹に手を何度も擦りつけながら、誰もいない屋敷をぼんやりと見つめた。
「ずいぶん昔のことなのに、お前はまだ覚えているのか」
「皇上、何羽か射て遊んでみませんか?」
童貫が提案した。
「よくない」
張澄が言った。
「庶民が飼っている家畜を、勝手に射殺してよいものではありません」
「何羽かのガチョウどころか――太上皇がお喜びになるなら、庶民一家を皆殺しにしたって、庶民にとっては光栄なことさ」
童貫が言った。
「監察史の言うことを聞け」
趙佶は、玉砂利を積んで造った木の根元の囲いに腰を下ろした。
「先を急ぐぞ」
「童王爺、こちらへ」
屋敷の門前にある井戸のそばで、張澄が童貫に手招きした。
韋小宝は慌てて木箱を抱え、張澄のそばへ駆け寄った。
「何だ?」
童貫が不機嫌そうに尋ねた。
「水の中から人の話し声が聞こえます」
「どこにそんなものがある?」
「童太師、もう少し近くへ来てください」
童貫は両手で井戸の縁を支え、首を伸ばして中を覗き込んだ。
張澄は韋小宝が持っている木箱の蓋を開けた。
中から取り出したのは、長さ三尺、幅一尺もある斬馬剣だった。
刀身が冷たい光を放つ。
張澄は柄を握ると、童貫の首へ振り下ろした。
一太刀。
二太刀――。
五太刀目まで斬りつけたところで、
「ごぼっ」
井戸の水面から音がした。
童貫の首が井戸の中へ落ちていった。
張澄は剣を天へ掲げた。
「皇上より賜った宝剣は、上は昏君を討ち、下は佞臣を斬る。この剣を見ることは、皇上御自身にまみえることと同じである!」
声は、それほど大きくなかった。
叉手の礼をしたまま雑談していた二人の護衛が振り返り、怪訝そうな顔をした。
「この剣を見ることは、皇上御自身にまみえることと同じである!」
張澄がもう一度叫んだ。
韋小宝が真っ先に跪いた。
竹林のそばにいた馬車夫、木の下にいた護衛、そして同行していた侍女たちも、次々と跪いていった。
そのとき、土砂降りの雨が降り始めた。
趙佶はよろめきながら井戸のそばまで駆け寄り、童貫の遺体を抱きしめて泣いた。
「ううう……ううう……」
張澄は、肉片がこびりつき、切っ先から血が滴っている斬馬剣を鞘に戻した。
拭おうともせず、そのまま木箱へ入れる。
韋小宝は護衛たちに命じ、井戸の底へ沈んだ童貫の頭を引き上げさせ、それを包みに入れた。
二人は趙佶に別れを告げると、馬を駆って北へ向かった。
*
幾多の苦労と疲労を重ね、二人が汴梁郊外へたどり着いたころ、遠くに一隊の食糧輸送用の驢馬が見えた。
郊外の細い道を通って、宣化門から汴梁城へ入っていく。
――金国が撤退し、包囲が終わったのか?
張澄が喜ぶ暇もなかった。
今度は、往来を巡回する金軍の小部隊が目に入った。
張澄は意を決して近づき、声をかけた。
金軍の隊長が教えてくれた。
宋と金の交渉は、ほぼ終わった。
あとは両国が協約に署名し、印を押すだけだという。
汴梁への包囲も、完全に解かれたわけではない。
金軍の現在の方針は、「入るのはよいが、出すな」。
ただし、完顔宗望と完顔宗翰の主力部隊は、すでに汴梁の西北にある孟州まで後退して駐屯しているとのことだった。
張澄は、交渉でどのような条件が成立したのかを尋ねた。
金兵の隊長は答えた。
「中山、河間、太原は金国へ。燕山府は宋国へ」
*
福寧殿は灯火が煌々と照らされていた。
文官と武将たちは大声で言い争い、今にも殴り合いになりそうな有様だった。
韋小宝は見慣れない顔を何人も見かけた。
秦桧が言った。
「この者たちは、各地から勤王のために都へ駆けつけてきた将軍たちだ」
「交渉はもうすぐ終わるんだろ? それなのに、こいつらは何を揉めてるんだ?」
韋小宝が尋ねた。
秦桧は韋小宝を脇へ引っ張り、声を潜めて言った。
「偽りの交渉だ!」
「官家の時間稼ぎだよ!」
韋小宝がさらに尋ねようとしたとき、すぐそばから、熱のこもった声が聞こえてきた。
滄州知州の杜充が、群臣の先頭に立っていた。
「……賊を捕らえるなら、まず首魁を捕らえるべきだ。我々が全軍を繰り出し、完顔の二賊を一気に包囲して殲滅する――范瓊、お前は殿前諸班を率いて先陣を務めろ!」
「全軍を繰り出す? 口で言うだけなら簡単だ」
范瓊が言った。
「では誰が汴梁を守る? 誰が皇上を守るんだ?」
「兵法では、これを『釜を破り、舟を沈める』という」
杜充が言った。
「なら、お前が先陣を切ったらどうだ?」
范瓊が言い返した。
「釜を破り、舟を沈める? 杜充、お前は他人の舟だけ沈めて、自分は漁夫の利を得ようって魂胆じゃないのか?」
「禁軍を外へ出して戦わせるなど、どうして許される?」
龍椅に端座した趙桓が言った。
「その案はあまりにも荒唐無稽だ」
「ならば、奇襲です!」
杜充が言った。
「皇上、完顔の二匹の犬が警戒を緩めた隙を突き、不意打ちを食らわせて、後々の禍根を完全に絶つのです!」
「皇上、戦うなら正々堂々と戦うべきです」
その夜になってようやく汴梁へ到着した登州通判の宗沢が言った。
「陰で奇襲など……あまりにも、あまりにも卑怯ではありませんか」
「賛成します!」
種師道が言った。
「お二人とも、『兵は詐を厭わず』という言葉を知らんのか……」
杜充が言った。
「誰も考えなかったのか?」
秦桧が口を挟んだ。
「康王はまだ金軍の陣中で人質になっているんですよ」
「奇襲が成功するかどうかはさておき、仮に成功したとして、康王と張邦昌はどうする? もし誤って二人まで傷つけたら……」
「康王だと?」
趙桓は目を白黒させた。
「女に育てられたような奴だ。母親だって人のところで足を温める下女をしていたんだぞ。そんな奴が王爺になれたのは、先祖の墓から青煙が立ったようなものだ」
「万一、我が軍の刀の下で不幸にも死んだところで、それも天命というものだ。そのときは追って官爵を与えてやればいい」
「完顔宗翰、完顔宗望――この二人は一人で百人を相手にできるほどの猛将だ。この二人を殺せば、金国は必ず大打撃を受ける」
「断つべき時に断たなければ、かえって乱を招く。ここは思い切って大仕事をやって、二人とも殺してしまえばいい」
奇襲の決行は、三日後の夜半に決まった。
実行するのは、種師道の配下にいる姚希晏という部将である。
完顔兄弟に疑念を抱かせないため、趙桓は使節団を孟州へ派遣した。
「和約書にいくつか修正しなければならない箇所があるので、完顔のお二人と相談したい」
そう偽って、時間を稼ぐことにした。
韋小宝は使節団に加わり、昼夜を分かたず孟州へ急いだ。
*
康王・趙構は、金兵たちと弓比べをしていた。
張邦昌と大勢の金軍将領たちが、首を伸ばしてそれを見物している。
百歩ほど先の柳の木には、藁で作った的が吊るされていた。
背の低い、がっしりした金軍の弓兵が矢を三本放った。
三本とも見事に的へ命中した。
「おお――!」
見物していた金兵たちが歓声を上げた。
趙構は矢をつがえ、弦を引き、弓を押し開いた。
狙いを定めることもなく、いかにも無造作に手を放した。
三本の矢が空気を切り裂いて飛んでいき、三本とも赤く塗られた的の中心へ突き刺さった。
「おお――! おお――!」
金兵たちは拍手し、感嘆の声を上げた。
完顔宗望は趙構の肩へ腕を回した。
二人は空き地まで歩いていった。
「康王、お前のことはずっと観察していた」
完顔宗望が言った。
「弓の腕が見事だ。どこで習った?」
「それに聞いたところでは、昨日は大力士と相撲を取って、それにも勝ったそうじゃないか」
「お恥ずかしい限りです」
趙構が言った。
「子供のころ、田畑で麦束を担いでいたもので、そのおかげで多少の力がついただけです」
完顔宗望は腰から短刀を抜き、趙構の喉元へ突きつけた。
「口を滑らせたな?」
「宋国の王爺が麦束を担ぐ? そんな話、聞いたこともない!」
完顔宗望が言った。
「宋国の王公貴族は何不自由なく暮らしている。それなのに、お前ほどの見事な弓術を身につけているとはどういうことだ?」
「お前は本物の王爺ではないな」
「どういうことですか!」
張邦昌が足を踏み鳴らした。
「完顔将軍、彼は本当に王爺です。本物の王爺ですよ!」
「我が教主道君太上皇の九番目の息子、正真正銘の本物です。偽物でも何でもありません!」
「俺が普段から精進して仏を敬い、人から『菩薩太子』と呼ばれているのを見て、俺が騙しやすいと思ったのか?」
完顔宗望が刀を振り下ろした。
張邦昌の肩が裂け、血が噴き出した。
「俺の手にかかって死んだ奴は、少なくない」
「お前たち二人、まだ本当のことを言わないなら、今すぐ西方極楽世界へ送ってやるぞ」
張邦昌は涙と鼻水を流しながら、草地に這いつくばって命乞いをした。
「張邦昌、立て!」
趙構が言った。
「男子たるもの、死ぬときは死ぬんだ。祖先に顔向けできない真似をするな」
「完顔将軍、私の言葉が信じられないのなら、斬ればいい」
「ただ――残念なことがある」
「何が残念なんだ?」
「せっかく宋と金の和平協定が、もうすぐ調印できるところまで来ているのに、完顔将軍、あなたの疑念のせいで、これまでの努力がすべて水の泡になることです」
「和平が成立しなければ、戦乱で命を落とす民がどれほど出ることか」
「この世にどれほど新たな罪業が生まれ、そしてどれほど多くの人がその業に従って輪廻し、その罪業のために畜生や餓鬼へと生まれ変わることか」
完顔宗望は刀を鞘へ収めた。
顔を鉄青色にして、その場を離れていった。
韋小宝は機会を見計らって趙構のそばへ忍び寄り、奇襲計画を小声で伝えた。
「人を派遣して奇襲だと?」
趙構は疑わしげに韋小宝を見た。
「兄上が、そんな恥知らずな真似をするはずがないでしょう? しかも、まだ両国は交渉中なんですよ……」
「康王、俺とお前の兄貴――どっちを信じる?」
韋小宝が尋ねた。
*
奇襲決行の夜。
趙構、張邦昌、韋小宝の三人は天幕の中に身を潜めていた。
外から、乱れた馬蹄の音と人の足音が聞こえてくる。
三人は混乱に乗じて軍営を抜け出し、夜陰に紛れて汴梁へ逃げ帰った。
三人が汴梁城へ入った直後、姚希晏の奇襲が失敗したとの知らせが届いた。
金国の使者が城壁の下に立ち、大宋を「廉恥を知らぬ国」「威を恐れるくせに恩を忘れる国」と激しく罵り、軍を率いて城を攻めると脅した。
趙桓は種師道を城外へ派遣し、金国の使者に謝罪させた。
「姚希晏が勝手に奇襲を仕掛けたのであって、朝廷は何も知らなかった」
という言い分である。
「我が大宋の官家も、何も知らされていなかったのですよ!」
種師道は言った。
「城壁の狭間に並んでいる死体が見えるでしょう? あれは今回の襲撃に参加した者たちです。官家は全員、絞首刑にしました!」
「ほら、あそこ――あれは首です。童貫の首ですよ!」
「童貫こそ今回の奇襲の総指揮を執った張本人です。しかも王爺だった!」
「王爺だから何だというのです? 王爺だって、金国を怒らせていいわけではないでしょう?」
「官家は一言も文句を言わず、童貫を斬首しました」
「ただ残念なことに、姚希晏という首謀者が一人だけ逃げてしまったのです」
種師道はそこで尋ねた。
「――ところで、お二人の完顔将軍にお怪我はありませんでしたかな?」
「三流の腕前で、完顔将軍を傷つけられると思うか?」
金国の使者が言った。
「奇襲の兵は来るのが速かった。だが、我が金軍の反応はもっと速かった」
「一時間も経たぬうちに、奇襲してきた賊どもは殺され、散り散りに逃げていった」
「各地から来た勤王軍でしょう。烏合の衆です」
種師道が言った。
「完顔将軍がお怪我をなさらなかったのは、何よりでした」
「今回の奇襲について、我が大金は決してこのままにはしない」
「もちろんですとも!」
種師道が大きくうなずいた。
「我が大宋朝廷も、聖意に背いたこのような輩を心の底から憎んでおります。皇上はすでに全国へ命じ、事件の犯人である姚希晏を指名手配しております」
「このような卑劣な小人は、見つけ次第、斬り捨てるべきだ」
金国の使者が言った。
「その通りです。見つけ次第、斬り捨てましょう」
種師道が調子を合わせた。
「ところで、交渉のほうは……」
「完顔将軍は言っている。交渉は続けてもよい」
金国の使者が言った。
「ただし、お前たちは別の者を寄越せ――本物の王爺を一人、我々との交渉に出せ」
「本物の王爺?」
種師道は驚いた。
「康王・趙構は本物の王爺ですよ。私はこの老種の命に懸けても保証します」
「仮に本物の王爺だったとしても……」
金国の使者が言った。
「昨夜、我が軍営が襲撃を受けた際、混乱に乗じて康王は行方が分からなくなった。それに張邦昌も姿を消している」
「我々は、二人を殺してはいないぞ」
種師道は深くうなずいた。
「金人は純朴で誠実、決して嘘をつかない――それは天下の誰もが知っていることです。あなたが殺していないと言うのなら、殺していないのでしょう!」
*
翌日。
趙佶の第五皇子、粛王・趙枢が命を受け、城外へ出て和平交渉に臨むことになった。




