放課後の決闘
それは、放課後の出来事だった。
授業が終わり、芳賀は帰り支度を始めていた。他の生徒たちは、仲間同士で語り合いながら教室を出ていく。クラス内では、既に幾つかのグループができていた。しかし、芳賀は人見知りで引っ込み思案である。そのため、まだ友達がいない。未だに、教室でも寮でも寂しい思いをしていた。
そっと隣の席を見てみた。だが、只野は既に消えていた。あの男、授業が終わると瞬時に帰ってしまう。しかも、動く気配を一切感じさせない。気がつくと消えているのだ。
まあ、仮に只野が残っていて一緒に帰るとしても、彼のわけのわからない話に付き合わされて疲労状態で寮に到着する可能性が高い。
なぜか、今日の只野はおとなしかった。おかげで、こちらも普通に授業を受けられた。できれば、このまま終わって欲しい……などと思いつつ、芳賀は教室を出ていった。
しかし、彼女の願いは叶わなかった。
寮に帰るため校庭を歩いていた芳賀だったが、彼女の視界におかしな動きをする者が入ってきた。只野である。中腰の姿勢で、地面をじっと見つめながら歩いているのだ。その姿は、昆虫記を書いているファーブルのようである。
しかも、寮とは違う方向に進んでいるのだ。忘れ物でもしたのか? と思ったが、その進行方向は校舎裏である。
その時、芳賀の脳内に天使が現れた。天使は、こう言っている。
「今日は、何事もなく平和に終わったじゃないか。あのような変人に関わるのはやめようよ」
しかし、同時に悪魔も現れた。悪魔は、こう言っている。
「ヒャッハー! お前は寮に帰っても、することねえじゃん! だったら、只野がどんなアホやらかすのか見てみようぜ! 日常生活には、刺激も必要だぜベイベー!」
芳賀は迷った。だが、一秒もしないうちに悪魔が勝利してしまった。彼女は、そっと只野の後をつけていく。
見ていると、只野はポケットから何かを取り出した。長い紐のようなものだ。それを首から下げ、さらに歩いていく。
芳賀は緊張してきた。これまでの只野との交流で、彼が悪人でないことはわかっている。しかし油断はできない。なにせ、暴走族総長のバイクにサイドカーをくっつけてしまう男なのだ。やっていることは、そこら辺のヤンキーより遥かにアナーキーである。
まさか、校舎裏を改造してしまうのか……などと思っていた時、不意に只野の足が止まった。芳賀は、すぐさま隠れる。なんだか尾行する探偵になった気分だ。
さて、只野は何をやらかすのか……と、固唾を飲んで見守っていた。だが、特に何をする気配もない。ただ、先ほどまでと違い、気をつけの姿勢で立っているだけだ。背筋はピンと伸びており、表情も真面目である。
ついに頭がおかしくなったのかと思いきや、すぐに状況は変わった。突然、一匹の猫が姿を現したのだ。毛は茶トラで、大柄な体つきだ。可愛げはなく、どこかの町のボスという風格を漂わせている。
茶トラは、悠然とした態度で歩いてきた。そのまま只野の前を横切るか……と思いきや、只野の前でピタリと立ち止まったのだ。ただし、顔は彼に向けられていない。その目は、こちらに接近してくるものを見つめていた。
いったい何を見ているの……と、芳賀も視線を移す。
そこにも猫がいた。こちらはハチワレで、体の大きさは茶トラに負けていない。茶トラよりズングリとした体型で、尻尾がかなり短かった。体全体の威圧感はかなりのもので、歴戦の猛者という感じだ。
ハチワレもまた、悠然とした態度で歩いてきて、茶トラの真ん前で止まった。どうも、ただならぬ気配だ。格闘技の試合における、フェイスオフの状態に似ている。
さて、何が始まるのか……と思っていたら、いきなり只野が声を発する。
「ファイト!」
その途端、両者いや両猫の威嚇が始まった。凄まじい声で唸り、互いの周りをぐるぐると回り出したのだ。
ちょっと待って?
今の何?
芳賀は呆気に取られていたが、猫の決闘は始まったばかりだ。ハチワレが一歩間合いを詰め、鋭い猫パンチを放つ。だが、茶トラはさっと身を引いて躱す。
その時、チャンスと見たかハチワレが猛然と襲いかかった。一気に跳躍し、上からの攻撃を仕掛ける。
茶トラは引かず、真正面から受け止める。たちまち取っ組み合いになった。
すると、ピィー! という音が響き渡る。只野が、首から下げていたホイッスルを吹いたのだ。
さらに、只野が叫ぶ。
「ブレイク!」
驚くべきことに、その声を聞いた途端、茶トラもハチワレも攻撃を止めた。パッと離れ、静かに睨み合っている。威嚇の唸り声は消えており、完全に借りてきた猫である。
只野は首を動かし、双方の状態を見た。その顔は真剣そのものである。授業中のふざけた態度は、教室に置いてきてしまったかのようだ。
数秒の間を置き、只野が手刀を振り下ろす。
「ファイト!」
次の瞬間、再び威嚇の唸り声が響き渡る──
芳賀は、口をポカンと開けたまま立ち尽くしていた。
こんなことがあるのだろうか。気まぐれの代名詞とも言える猫が、只野の指示通りに動いている。全力で闘ってはいるが、只野がストップをかけると瞬時に止まるのだ。
茶トラもハチワレも、かなりの修羅場をくぐってきたツワモノのようである。にもかかわらず、只野の指示には完璧に従っていた。
芳賀は、その不思議な光景に魅入られ動けなかった。
しかし、その不思議な光景にも終わりが訪れる。突然、只野がピィー! とホイッスルを鳴らす。
二匹の猫は動きを止めた。すると、只野が近づいていく。
次の瞬間、茶トラの右前足を挙げた──
「ニャー!」
元気よく鳴いたのは茶トラだ。一方、ハチワレは耳を伏せ悲しそうな様子である。どうやら、勝敗が決したらしい。どちらの猫も、只野の判定に文句も言わず従っている。
芳賀の体が、ワナワナ震え出した。
猫には、人間界の肩書きや収入なんか関係ない。
ただ、その人の本質を見ている。
猫にとって、只野くんは従わざるを得ない存在だった……。
しかし、その感動は長く続かなかった。尊い空間に、いきなり乱入してきた者がいる。
「こら只野、もうすぐ下校時間だぞ。こんなところで何をやっているんだ?」
そんなことを言いながら、近づいて来たのは教師の玉川だ。猫たちは、面倒くさい奴が来た……とでも言わんばかりの様子で、のそのそ歩いて去っていく。
一方、只野は立ち上がり頭を掻きながら答える。
「まあ、いろいろと」
「何がいろいろだ。本当に懲りん男だな。いいか、お前にひとつ大切なことを教えてやる」
「ほう、大切なことですか。なんでしょうか?」
「人間に残された時間は有限なんだよ。お前みたいな奴は、三十歳になろうが四十歳になろうが、こう言い続ける。俺の人生の本番は、まだまだ先なんだと」
玉川の態度が、演説する宗教家のようになってきた。恍惚とした表情を浮かべ、只野をビシッと指さす。
「だがな、人生はあっという間に過ぎていく。気がつけば老人となり、そして死んでいく……その時、お前は気づくんだ。自分の人生が、ただただ時間を空費していたものだったとな! そして、惨めに死んでいくんだ!」
「はあ、そうですか。僕が老人になる頃に、不老不死の技術が誕生してないですかね?」
とぼけた表情で聞いてきた只野に、玉川の顔が赤くなる。無論、怒りゆえだ。
「お前、ふざけてんのか!」
「いや、ふざけてはいないです。では、下校時間も近いので失礼します」
そう言うと、只野はそそくさと去って行った。その様子を見ていた芳賀は、そっと呟く。
「先生は間違っています。只野くんは、死ぬ間際に笑うと思いますよ。僕の人生、本当に楽しかったな……って」




