まじリスク・王牙忍法帖(1)
その日の朝、只野はいつにも増しておとなしかった。担任の玉川の訓示を、普通に聞いている。
この時点で…芳賀は確信していた。今日は、とんでもないことが起こるであろう……と。
「いいか諸君、もうじき期末テストだ。言うまでもないことだが、この期末テストで最低点を取った者はクラスを異動させられる。Aクラスの者は、Bクラスに。Bクラスの者は、Cクラスに。Cクラスの者は、Dクラスに。そして、Dクラスで最低点を取った者は……」
そこで、玉川は只野へと視線を移す。
只野はというと、珍しく真面目に聞いている。玉川は、フッと笑みを浮かべた。
「この学園を、退学処分となる。まあ、それ以前にクラス異動という時点で恥の意識に耐えきれず自ら辞めていく者もいるだろう。だが、これは当然のことだ。人間、恥の意識を無くせば……校庭でテントを張って住むような者へと成り下がるのだ」
その時、不快そうな表情で立ち上がった者がいる。幸田尊だ。
「先生、何が言いたいんですか? 要点だけ言って早く終わらせてくださいよ。しょうもない個人攻撃みたいなの聞きたくないです」
思わぬ所からの反撃に、さすがの玉川もうろたえる。
さらに立ち上がったのは宮本静香だ。
「あの、期末テストで最低点取れば退学なんて、みんなわかってるんですよ。露骨な個人攻撃は、見てて見苦しいです」
「な、何だと貴様ら! 俺に逆らう気か!」
ようやく気を取り直し、言い返した玉川だった。だが、幸田も宮本も答えない。口を開けたまま、玉川を凝視している。
いや、正確には玉川の背後に出現せし者に、驚愕の視線を送っていたのだ──
しかし、玉川は気づいていない。自分のひとにらみで、反抗的な生徒ふたりを黙らせたと思い込んでいるのだ。
勝ち誇った表情で口を開く。
「フン、お前らなどそんなものだ。俺のように生きるか死ぬかの瀬戸際で戦ってきた人間からすると、君たちの精神はまるで病人だ。薬の治療では、救われぬほど心性が病んでいる。その病気とは、どんな事態になろうととことん真剣になれぬということだ」
その時、背後から声がした。
「悪いがどいてくれ」
次の瞬間、玉川は横方向に吹っ飛ばされた。教室の床に叩きつけられ、呻き声をあげる。
そして、背後にいた者が一歩前に進み出た。年齢は二十代半ば、長く伸ばした髪を後ろで束ねている。黒の上下に身を包み、その瞳には冷ややかな殺意が浮かんでいた。
この男、ドアから入って来ていない。何の前触れも予兆もなく、いきなり玉川の背後に出現していたのである。テレポーテーションでもしたかのようだ。
普通のクラスならば、教室内はあまりの出来事に反応すらできずにいただろう。だが、この一年D組は違っていた。
「うわ、また只野が何かやったのかよ……」
「あいつ、今度は何したんだ」
「ウチのクラス、こんなのが多いな」
ひそひそと囁き合う中、男はおもむろに口を開く。
「俺の名は王牙剣之助、王牙万事谷の頭領だ」
いや、王牙万事谷って何だよ? という空気を無視し、王牙は只野の方を向いた。
「只野聖斗! 貴様に話がある!」
「はい?」
言いながら、とぼけた表情で立ち上がった只野。たちまちクラス全員から、やっぱりな……という視線が飛んでくる。
王牙はというと、ジロリと只野を睨みつけた。
「只野……貴様、我ら王牙族と風魔族の間において、二百年に渡り不戦の条約が結ばれていたことは知っているな?」
「へっ? ああ、そういえばそんなこと言ってたような気がしますね」
只野は、とぼけた表情で答えた。
横で聞いている木杉は、頭が混乱しそうになるのを必死で堪えつつ、脳内で状況を整理する。つまり、この只野は王牙族なるわけわからん集団に深くかかわっているということか。
さすが只野、こんな得体のしれない集団とまで交流しているとは……などと感動すら覚える木杉であったが、事態はそんな生易しいものではなかったのだ。
「只野……貴様は先日、我が一族の大長老・王牙万丈様に招かれ屋敷に行ったな?」
「はい、行きました。面白かったですよ。アメリカのベネディ家のパーティーより、よっぽど楽しめました。また行きたいですね」
そう答えた時だった。
剣之助の表情が一変する。直後、背後の教壇めがけ手刀を打ち込んだ。
次の瞬間、教壇は真っ二つに割れてしまったのだ。
「ちょっとお、何してるんですか。教室を破壊しないでくださいよ」
のんびりとした口調で抗議する只野を、剣之助はジロリと睨みつけた。
「只野……貴様、大長老様の屋敷で何をやった? 正直に言ってみろ」
「えっと、ご馳走が出たので美味しくいただきました。あと、歌ったり踊ったりした記憶があります」
歌ったり踊ったりしたのか。とんでもない奴だな、などと思う木杉であったが、状況はそんなものでは終わらなかった。
剣之助は、ビシッと人差し指を突きつける。
「貴様! 屋敷の池で泳いだな! なぜだ!? なぜそんなことをした!?」
「いえ、泳いではいません。ただ、ちょっと潜ってみただけです」
「同じことだ! なぜ潜った!? あの池にはな、何千万もする鯉がいたんだぞ!」
怒鳴った剣之助を、只野はン? という表情で見つめた。
少しの間を置き、ゆっくりと口を開く。
「あの、あなた方は忍者ですよね? 闇に生まれ、闇に消える……それが忍者の運命なんですよね?」
「その通りだよ。だからどうした?」
「なんか悲しいですね。闇に生まれ闇に消えるはずの人たちが、そんな何千万円もする鯉を池に飼っているなんて……バカ映画に出てくる悪役政治家みたいですよ。ちょっと嫌ですね」
途端に、クラス全員の視線が剣之助に放たれる。それはどういうことだ? 説明しろ……という無言の圧力だ。
剣之助はたじろぎながらも、必死で言い返す。
「こ、この痴れ者がぁ! そんなバカ映画の政治家と、我らの大長老を一緒にするなぁ! 現に、大長老は怒ってはおらん!」
「えっ? じゃあ誰が怒ってるんですか?」
「俺だ! 俺が怒ってるんだ!」
「はあ、そうですか。となると、あなたは怒っていないはずの大長老の代わりに、僕を怒るためにわざわざ来たのですか。ずいぶんと暇な人ですね」
いや、それを言っちゃマズいよ只野……と木杉は心の中でツッコんだ。
そして木杉の予想通り、剣之助はプルプル震えている。怒りで頭がカーッときている証拠であろう。
直後、凄まじい形相になった。
「誰が暇だぁ! いいか、愚かな貴様にもわかるよう説明してやる! まず数千万円の鯉の件だがな、我ら王牙一族は……この二百年の間、不戦の条約が結ばれていた! その平和な時間を利用し、忍者として培ったスキルを用いて、様々な商売に手を伸ばして利益をあげていたのだ! 数千万円の鯉は、その過程で購入したものだ! 何か文句があるのか!?」
「なるほど、忍者のスキルを利用し利益をあげたのですか。実に大したものだ。これも、頭領のあなたの商才ゆえです。何はともあれ、平和でウィンウィンというわけですね」
只野が真面目くさった表情で言うと、剣之助は照れたような顔つきになる。
「いや、その、そんな大したものでは……我らの鍛えられし術を用いての要人警護や、産業スパイなどをして稼いだのだ」
頬を赤らめ、頭を掻きながら語っている。
見ている木杉は、思わず渋い表情になる。忍者といえば、シリアスでハードな世界に生きる者たちだ。その頭領ともあろう者が、只野のお世辞にこんなに照れまくっていいのだろうか。
いや、待てよ。逆に、これこそ一年D組の知らない只野の凄さなのかもしれない。只野に褒められるということは、裏の世界では恐ろしい栄誉なのかも知れないぞ……。




