ツープラトン
その日、一年D組では数学の授業が行われていた。教師の綾部は口うるさいことで評判の男である。したがって、皆はおとなしく授業を受けている……はずだった。
しかし、星川は授業など完全無視だ。その目は、あるものに釘付けになっていた。
なんでだよ?
なんで、またハムスターがいるんだよ!?
そう、彼の斜め前にいる只野の足元を、ハムスターがチョロチョロと動いているのだ。まるで星川を挑発するかのように、時おり立ち止まっては星川を見つめる。
クソ、なめんなよ。
俺は星川コンツェルンの跡取りだ。
お前なんか相手にしてられるか!
心の中で呟き、必死で無視しようとした。しかし、頭の考えとは裏腹に目はついついそちらを向いてしまう。
駄目だ……星川は、パッと目をつぶった。十秒ほど数え、ゆっくりと目を開ける。
すると、目の前に綾部が立っていた。
「なんだ星川、眠いのか?」
「はい?」
「今、目をつぶっていたな。眠いのか? なあ、私の授業はそれほど退屈か? なあ? なあ?」
ネチネチと責めてくる綾部に、星川は仕方なく目を逸らした。が、その目にとんでもないものが入ってくる。
なんと、ハムスターが二匹に増えているのだ。どちらも後ろ足で立っており、片方のハムスターが前足で相方を指し示している。まるで「紹介します。こいつ、俺の彼女です」とでも言っているかのような動きだ。
そして、もう一匹はペコリと頭をさげる。「どうも。私、彼と付き合っているんです。よろしくお願いします」と言っているかのように見える。
星川の顔に、なぜか笑みが浮かんだ。
お前、彼女できたのか。
わざわざ俺に紹介してくれるとは光栄だよ。
だが、その微笑みは綾部をさらに怒らせたらしい。綾部のこめかみがピクピクしだした。
「貴様、何がおかしいんだ? 今、笑うような状況なのか? なあ、私に教えてくれ。何がおかしいのか、私にもわかるように筋道立てて話してくれ。な あ? なあ?」
綾部の、全然気持ち良くない言葉責めが始まった。だが、そこで立ち上がった者がいる。
「先生、そのへんにして授業を進めてくれないですか? 僕、先生の授業をきちんと受けたいんですよ」
木杉である。最底辺のDクラスとはいえ、それでもトップの成績を誇る木杉である。その彼に言われては、綾部とて悪い気はしない。
「そ、そうか。まあ、お前がそう言うなら私も凪になるしかないな。星川、お前も木杉を見習って真面目に授業を受けろ」
そう言うと、綾部は授業を再開した。
星川はホッとして、チラリと只野の足元を見てみる。だが、ハムスターは姿を消していた。どうやら、教室以外の場所でふたりきりのデートを楽しむことにしたらしい。
少し残念な気分になりつつも、星川は授業を受けることにした。
綾部が黒板に数式を書き始め、星川はノートに写す……が、彼の視界に妙なものが入る。
只野の頭の上に、ハムスターが乗っているのだ。それも二匹。並んで寄り添い、頭の上でまったりとしている。
当の只野は、全く気づいていないらしい。表情こそ見えないものの、ノートをじっと見つめている。珍しく真面目に授業を受けているのか、はたまた普段と同じく自分の世界に浸っているのか。
だが、そこで異変が起きる。
突然、ハムスターの様子が変わった。いきなり向かいあったかと思うと、じっと見つめ合っている。
お、いいムードなのか……と思いきや、突然ぶつかり合ったのだ。そのまま、頭の上で取っ組み合いを始めた。
マズい。どんな仲のいいカップルにも喧嘩する時はある。だが、血を見るような喧嘩になっては駄目だ。
何とか止めなくては……星川は、只野に合図を送ろうと試みた。だが、只野は気づく気配がない。そもそも、頭の上で二匹のハムスターが取っ組み合いの大喧嘩をしているのに、全く気づかないほどの大物なのである。
こうなっては仕方ない。まずは、自分が嫌われ者になる。ここで消しゴムを投げ当てることができれば、両者にとっての敵は目の前の相手から星川へと移ることになる。敵の敵は、すなわち味方である。星川という共通の敵を前に、二匹は再び恋人同士へと戻れるのだ。
代わりに、星川は二匹にとっての敵となる。だが、それでも構わない。二匹の仲さえ戻るなら──
星川は、消しゴムを思い切り投げつける。だが、その瞬間に二匹のハムスターはもつれ合い、頭から転落していった。
そして、投げられた消しゴムは只野の頭に炸裂する──
「いた!」
授業中にもかかわらず、大きな声で叫んだ只野。
星川は、マズいと思い顔を伏せた。すると、綾部がつかつかと近づいて来る。
「何だ只野? 今、いたと言ったな? 何がいたんだ? 先生に教えてくれ。なあ、何がいたんだ? なあ? なあ?」
しつこく迫る綾部だったが、只野は怯まなかった。
「はい? 何を言っているのですか? 何もいませんよ」
「何だと……貴様、私に口答えするのか!?」
「口答えも何も、何もいないからいないと言っているのですよ。それとも、先生の目には何か見えているのですか?」
「キーッ! 何だその態度は! 今、お前は私に反抗している! 教師への反抗が許されるとでも思っているのか!? なあ!? なあ!?」
「教師への犯行? それはおかしいですね。僕が何か罪を犯したとでも言うのですか? それこそ冤罪ですよ。僕は犯罪に手を染めたことはありません」
すました表情で答えた只野を、綾部は真っ赤な顔で睨みつける。その体はプルプル震えており、拳は固く握りしめられていた。このネチネチと責め続ける男にしては、珍しい展開だ。
少しの間を置き、ゆっくりと口を開く。
「お前、私をなめてるな。バカにしてるな。なあ? なあ?」
「してませんよ。それも冤罪です。先生は、なぜそうやって悪い方に悪い方にと物事を考えていくのですか? それは良くないですよ。物事なんてね、なるようにしかならないんですから。ウィンウィンでいきましょう」
両者がそんなやり取りを繰り広げている間、星川は困った表情で顔を伏せている。何せ、原因は自分にあるのだ。
このままでは、只野がひどい目に遭わされてしまう。
クソ! なめんじゃねえ!
俺は星川コンツェルンの次期総裁だ!
こんなことでビビってたまるか!
「先生、すみません!」
言いながら立ち上がった星川に、綾部は不快そうな顔を向ける。
「何だ星川! 先生は今忙しいんだ! この不埒な男に、今すぐ愛と正義の鉄槌をだな──」
「只野くんは悪くありません。悪いのは僕です」
「はあ? 何だそれは? どういう意味だ? なあ? なあ?」
標的を星川に変え、語気強く迫る綾部。星川は下を向きながら、どうにか言葉を絞り出す。
「あ、あのですね、僕の消しゴムが、運悪く只野くんの頭に当たってしまいました……」
星川の言葉は、そこで止まった。何と、あのハムスターコンビか、また足元に現れたのだ。しかも、今回は綾部の足元である。
何をするかと思えば、両側から同時に綾部の足に噛みついたのだ──
「あいて!」
思わず叫んだ綾部に、さっと反応したのは只野であった。
「相手ですか? 今、先生は相手と仰っていましたね? どういうことですか? 独身の私は、結婚相手が欲しいということですか? 授業中にわけわからんことを言わないでください」
「はあ? そんなこと言うわけないだろバカ者が! 私は今、何者かの攻撃を受けたのだ! 足元に潜む何かに!」
言いながら、綾部は血走った目で足元を睨む。しかし、そこには何もないし、何もいない。
「う、嘘だ。私は確かに感じたのだ。何者かの悪意ある攻撃による痛みを……」
呆然となっている綾部に近づいて来たのは木杉だった。
「先生は疲れてるんですよ。人間、時には勇気を出して休むことも必要です。さあ、保健室にいきましょう」
「そ、そんな……私は大丈夫だ」
「無理をしてはいけません。弱さを見せられる、これこそが強い人間の証です」
そんなことを言いながら、木杉は綾部を連れ出してしまった。




