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ペンステモン ―神父とシスターの、隠しきれない不誠実な祈り―  作者: 佳月


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 翌朝、小鳥のさえずりで目を覚ました私は、驚くほど体が軽くなっていることに気づいた。

 熱など初めからなかったのだ。ただ、神父様のあまりに強い視線に中てられて、知恵熱のようにのぼせていただけだった。


「大変、寝坊してしまったわ……!」


 あわてて身支度を整え、修道服の襟を正して部屋を飛び出す。

 教会の裏手にある小さな台所へ駆け込むと、そこにはすでに、お湯の沸く白い湯気と、香ばしい焼き立てのパンの匂いが満ちていた。

 そして、朝の柔らかな光を浴びながら、スープの鍋を木べらで静かにかき混ぜている、高潔な後ろ姿。


「ソロン様……! 申し訳ありません、朝の支度をお手伝いするはずが、寝過ごしてしまって……!」


 私が息を切らせて頭を下げると、神父様はゆっくりと振り返った。いつものように慈愛に満ちた、けれどどこかホッとしたような微笑みを浮かべる。


「おはようございます、クラリス。顔色は良さそうですね。謝る必要はありませんよ。昨日は私の命令で休ませたのですから」

「でも、ソロン様にこのような雑事までさせてしまうなんて、シスターとして失格です……」


 落ち込む私の前に、ソロン様が静かに歩み寄ってくる。大柄な彼の影が私をすっぽりと包み込み、それだけでまた心臓がうるさく跳ね始める。神父様は私の目線に合わせて少し腰を落とすと、ひどく真剣な、余裕のない瞳で私を覗き込んだ。


「失格などと言わないでください。……あなたの代わりなど、この教会のどこにもいないのですから」

「え……?」

「あなたが無理をして倒れるくらいなら、私がすべての仕事を代わりにやります。私がそうしたいだけなのです。だから、自分を責めないでください」


 その言葉は、あまりにも優しくて、同時に酷く張り詰めていた。まるで、私が少しでも視界から消えてしまうことを、本気で恐れているかのような。


(神父様は、本当に責任感が強くて優しいお方だわ。こんなダメな私のことも、見捨てずにいてくださるなんて……)


 胸を締め付ける恋心を必死に抑え込みながら、「ありがとうございます」と小さく笑ってみせる。ソロン様は私の笑顔を見て、一瞬だけ、救われたような、けれど同時にひどく飢えたような複雑な表情をしてから、すぐにいつもの表情に戻った。


「さあ、朝食にしましょうか。今日は街の子供たちが、教会の庭に遊びに来る日ですからね」



 昼下がりの教会の庭は、子供たちの賑やかな笑い声に包まれていた。

 私は子供たちと一緒に白詰草を摘んで花冠を作り、彼らの頭に載せて遊んでいた。


「わあ、シスター、ありがとう! 似合う?」

「ええ、とっても可愛いわ」


 子供たちの無邪気な笑顔に癒されながら、ふと、心地よい緊張感が肌を走る。

 見上げると、教会の2階にある司祭室の窓辺に、ソロン様が立っていた。窓枠に手をかけ、じっとこちらを見下ろしている。その視線は、昨日の夜と同じだった。子供たちと戯れる私の姿を、瞬きさえ忘れたかのように、吸い込まれそうなほど真っ直ぐに見つめている。


(……やっぱり、見られている)


 子供たちと遊ぶのが楽しくて、シスターとしての品位を欠いた行動をしていないか、確かめているのだろう。私はあわてて姿勢を正し、窓辺のソロン様に向かって、小さく一礼した。

 すると、窓の向こうのソロン様が、目に見えて動揺したのが分かった。自分が「見つめていたこと」に気づかれたのがそんなに不快だったのか、彼はハッとしたように身を引くと、まるで何か罪を犯した子供のように、バサリとカーテンを閉めて視線を遮ってしまったのだ。


「……あ」


 ぽつりと、胸の奥に冷たい痛みが走る。


(やっぱり、私の不真面目な態度に呆れて、目を背けられてしまったんだわ……)



 庭での一件があってから数日、ソロン様はいつも通り優しかったけれど、どこか私と目を合わせるのを避けているような気がした。


(やっぱり、あの時じろじろと見てしまったことで怒らせてしまったのね)


 そうして迎えた、日曜日。

 この日は、街の人々が一斉に集まる、一週間で最も大切な朝のミサが行われる。

 礼拝堂の長椅子は、着飾った街の住人たちで満席だった。私は信者席の一番後ろの壁際に立ち、賛美歌の聖歌集を胸に抱えて、静かにその時を待っていた。

 やがて、厳かなパイプオルガンの音が響き渡り、祭壇の奥からソロン様が姿を現す。真っ白な祭服に身を包んだソロン様は、まるで本物の聖者のように神々しく、美しい。街の人々が感嘆の息を漏らし、一斉に頭を垂れる。

 ソロン様が祭壇の中央に立ち、穏やかで朗々とした声で聖書を読み始めた。誰もがその高潔な言葉に耳を傾け、ソロン様を見つめている。私もまた、胸の高鳴りを抑えながら、遠くからそのお姿を瞳に焼き付けようとしていた。


 ――その時だった。


 大勢の群衆を等しく見渡していたはずのソロン様の視線が、ふっと、一番後ろの壁際にいる私の方へと向けられた。


(あ……目が、合った)


 気のせいなんかじゃない。何百人もいるこの広い礼拝堂の中で、ソロン様の切れ長の瞳は、真っ直ぐに私だけを射抜いていた。

 その視線の、あまりの強さに息が止まる。

 穏やかに聖書を読んでいたはずのソロン様の声が、ごく僅かに、かすれるように震えた。ソロン様は喉を小さく鳴らし、何かを堪えるように、ギリ、と白い歯を噛み締める。群衆を導くはずの聖なるお方が、およそ聖職者とは思えないほど、飢えた、張り詰めた眼差しで私を凝視し続けている。

 時間にして、ほんの数秒のことだったろう。ソロン様はハッとしたように小さく息を吐くと、強引に視線を群衆へと戻し、何事もなかったかのように朗読を再開した。

 けれど、私の心臓は、羞恥で狂ったように脈打っていた。


(どうしよう……。あんなに神聖な場所で、私がソロン様に不謹慎な視線を送っていたからだ……)


 ソロン様は、神に仕える身でありながら、邪な恋心を抱いて自分を見つめてくる私の存在が、不快でたまらないのだ。


(だから、あんなに恐ろしい、咎めるような目で私を睨みつけたのね。)


 「不真面目な態度は慎みなさい」と、大勢の前で無言の警告をされたのだ。

 

 ミサが終わったあと、私は逃げるように礼拝堂を飛び出した。

 胸の奥が、ちぎれそうなほど痛い。もう、限界だった。これ以上、ソロン様を不快にさせたくない。けれど、自分の不純な恋心をどうやって消せばいいのか分からない。

 涙が溢れそうになるのを堪えながら、私は薄暗い廊下の奥にある、小さな木の扉へと向かった。神様に、自分の罪をすべて告白して、お許しを乞うために。



 告解室の中は、息が詰まるほど狭く、薄暗かった。

 座席に腰を下ろし、小さな木箱のような空間に閉じ込められると、トク、トク、と自分の頼りない心臓の音だけが大きく響く。

 壁の向こう――目の前にある小さな格子窓の向こうには、厚いビロードのカーテンが垂れ下がっていて、中にいる「聴き手」の姿を見ることはできない。私は震える指先を胸の前で組み、祈るように額を預けた。


「……神様。罪深い迷える羊を、どうぞお許しください」


 かすれた声で呟くと、格子窓の向こうから、衣擦れの音が小さく聞こえた。やがて、格子窓の向こうから、不自然なほど低く、地底から響くような、奇妙に歪められた男の声が返ってくる。聖職者のプライバシーを守るために、声を変える魔術か道具が使われているのだ。


「お話しなさい、シスター。神はいつでも、あなたの言葉を待っていますよ」


 その完全に無機質な、誰だかも分からない冷たい声に背中を押し出されるように、私はボロボロと涙を流しながら、一気に言葉を紡ぎ出した。


「私は……身の程知らずな恋をしてしまいました。神に身を捧げた身でありながら、天上の神様ではなく、地上にいらっしゃる、ある高潔なお方ばかりを目で追ってしまうのです」


 格子窓の向こうの空気が、ピキッと凍りついたのが分かった。


「……その方は、誰なのですか」


 歪められた男の声が、あきらかに、さっきよりも低く、ドスの利いた重苦しい響きに変わっていた。その冷たい圧迫感に身体をすくませながらも、私は必死に告白を続ける。


「お名前は、決して口にできません。……ですが、そのお方はあまりにも聖く、美しく、私のすべてを見透かすような眼差しを持っていらっしゃいます。今日も、大勢の人が集まる中で、私はそのお方の姿に、どうしても……見とれてしまったのです。神様を一番にお慕いしなければならないのに、私の頭の中は、その方のことばかりで……っ」


 そこまで一気に吐き出した時、格子窓の向こうの空間が、にわかには信じられないほど、しんと静まり返った。

 呼吸の音さえ聞こえない。それどころか、空気そのものが凍りついて消えてしまったかのような、不気味なほどの「無音」が仕切りの向こうに広がっている。あまりの沈黙の深さに、私は自分の心臓の音がうるさく感じられるほどだった。


(……呆れさせて、しまったんだわ)


 神に仕える身でありながら、邪な恋をした私に、言葉を失っていらっしゃるのだ。その静寂が、どんな叱責よりも恐ろしくて、私は身をすくませた。


「申し訳ありません、お許しください……! どんなお裁きでも受けます、ですから……っ」


 私の泣き声が、狭い告解室に虚しく響く。

 どれほどの時間が流れただろう。やがて、格子窓の向こうから、衣服がわずかに擦れる音がした。


「……顔を上げなさい、シスター」


 返ってきたのは、相変わらず不自然に歪められた、誰だかも分からない冷たい男の声だった。けれど、その声は先ほどよりも、どこか奇妙なほど平坦だった。まるで、決壊しそうな感情を、鉄の理性で無理やり平らにならして喋っているかのような、そんな人工的な静けさ。


「あなたが誰を見つめようと、どれほど不誠実な恋に身を焦がそうと……神は、あなたを責めたりはしないでしょう。……だから、泣かないでください」


 機械的な声の、最後の最後――「泣かないでください」というフレーズにだけ、ほんの僅かに、掠れたような、痛々しいほどの優しさが滲んでいた気がした。格子窓の隙間から、ほんの一瞬、張り詰めた糸が切れるような、危うい熱がふわりとこちら側に漏れ出てくる。

 けれど、ハッと顔を上げた瞬間、格子窓の向こうの気配は、すでに音もなく消え去っていた。

 薄暗い告解室の中に、私一人だけが取り残される。


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