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ペンステモン ―神父とシスターの、隠しきれない不誠実な祈り―  作者: 佳月


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 あの日、告解室で不思議な赦しを得てからも、私の胸のうずきが収まることはなかった。

 けれど、教会の外の世界は、私の甘い悩みなど吹き飛ばすほどの不穏な空気に包まれ始めていた。


「最近、夜になると城下町の外縁に『黒い獣』が出るらしいのよ」

「ああ、隣の村の家畜が、一晩で骨だけにされたって……」


 お昼の施しの時間、街の信者たちが不安げにそんな噂を囁き合っているのを、私は耳にした。

 この数週間、街の周囲や近隣の森で、不気味な魔物の出没が急増しているという。これまでは教会の聖なる結界に守られて平和だったこの街にも、少しずつ、目に見えない闇の影が忍び寄ってきているようだった。


「クラリス? 街の者たちと、何を話していたのですか」


 背後からかけられた低く穏やかな声に、私は小さく肩を跳ね上げて振り返った。そこには、いつの間にか司祭室から下りてこられたソロン様が立っていた。

 噂のことをありのままに伝えると、ソロン様の切れ長の瞳が、一瞬だけ、ゾッとするほど冷たく険しいものに変色した。


「……そうですか。魔獣の影が、そこまで」

「はい。皆さん、とても怯えていらっしゃって……。ソロン様、私に何かできることはないでしょうか。例えば、結界を強めるための祈りを増やすとか、街の様子を見に――」

「必要ありませんよ」


 ソロン様は、私の言葉を遮るように、きっぱりと言い放った。

 その声は拒絶というよりも、何かにひどく怯えているかのような、異様な切迫感を孕んでいる。ソロン様は一歩、私との距離を詰めると、大柄な身体で私の視界を塞ぐようにして、その大きな両手で私の肩を強く掴んだ。


「クラリス。あなたは今日から、一歩も教会の敷地の外へ出てはいけません」

「え……? でも、街の病人のところへお見舞いに行く約束が……」

「駄目です。お見舞いなら、私が代わりに行きます。あなたが外へ出る必要は、これからは一切ありません」


 肩を掴むソロン様の手が、痛いほどに強くなる。

 その瞬間、彼の指先から、目に見えない微かな『熱』が私の身体へと流れ込んできた。それは服の上から、私の鎖骨のあたりにじんわりと広がり、一瞬だけピリッとした静電気のような刺激を残して消えていく。


(……? 今の、温かい空気はなんだったのかしら……)


 不思議に思う私をよそに、見上げるソロン様の表情は、聖者の微笑みなど完全に消え去り、まるで大切な宝物を奪われまいと牙を剥く獣のように、激しく張り詰めていた。


「……すまない」


 神父様は、私の消え入りそうな声を聞いて、ハッとしたように肩から手を離した。自分の余裕のない行動と、彼女に呪いを刻んでしまったことに激しい自己嫌悪を抱いたのか、彼はきつく唇を噛み締め、逃げるように司祭室へと戻っていってしまった。


 ――この日の夜、お風呂に入るために修道服を脱いだ私は、鏡を見て小さく息を呑むことになる。


 私の鎖骨の少し下、胸元の白い肌に、それまではなかった淡い紫色の「あざ」のようなものが浮かび上がっていたのだ。

 そのあざは不思議なことに小さな釣鐘のような花がいくつも身を寄せ合っているような、奇妙に美しい、花の形をした紋様にも見えた。


(いつの間に、こんなところをぶつけたかしら……?) 



 じっとりとした、嫌な風が吹く真夜中のことだった。

 不気味なほどの静寂に胸騒ぎがして目を覚ました私は、何かに導かれるように礼拝堂へと足を向けた。

 大理石の床を踏み締める自分の足音が、妙に高く響く。重い木の扉を押し開けた瞬間、私は恐怖で喉を詰まらせた。


「……あ、あ……」


 ステンドグラスが、内側から激しく乱反射している。

 そこにいたのは、どす黒い瘴気を放ち、何十本もの不気味な触手をもじらせた、巨大な魔物。教会の結界を破って侵入してきた、凶悪な大魔獣だった。

 魔獣の無数の赤い眼が一斉に私を捉え、壁を揺らすような低い咆哮を上げる。蛇のような触手が、逃げようとすくむ私の身体を目がけて、凄まじい速度で襲いかかってきた。


(神様――!)


 死を覚悟して目を閉じた、その瞬間。


「――我が庭に、不浄な泥を撒き散らすな」


 世界が、真っ黒な『炎』に包まれた。

 凄まじい熱風が礼拝堂を吹き抜け、私を襲うはずだった触手が、一瞬にして炭となって弾け飛ぶ。

 ゆっくりと目を開けた私の視界に飛び込んできたのは、見たこともない、禍々しくも圧倒的な背中だった。

 人間ではない。頭部からは猛々しい角が、背中からは漆黒の翼が生えている。その胸の奥からは、ドクン、ドクン、と、地響きのような「恐ろしい心臓」の鼓動が不気味に響いていた。

 教会に現れた、別の『上位の悪魔』。その悪魔は、私に背を向けたまま、眼前の魔獣を冷たく見下ろした。


「失せろ、下等生物。その汚い眼を、二度と彼女に向けるな」


 凄まじい死闘だった。

 悪魔は圧倒的な魔力で魔獣の肉体を蹂躙していく。けれど、死に物狂いになった魔獣の、最後の一撃――。

 鋭い爪が、悪魔の左腕を深く引き裂いた。

 悪魔の身体から、どす黒い光を放つ血が飛び散る。それでも悪魔は眉一つ動かさず、容赦なく闇の棘で魔獣の心臓を貫き、あっという間に黒い灰へと還してしまった。

 静寂が、再び礼拝堂を支配する。

 悪魔は深く傷ついた左腕を押さえ、荒い息を吐きながら、ゆっくりと私の方を振り返った。


「ひっ……」


 その恐ろしい形相に、私は思わず後ろにのけぞった。

 悪魔は私の恐怖に満ちた瞳を見て、ハッとしたように目を見開く。その瞳の奥に、なぜだか、言葉にできないほど痛々しい絶望が過った気がした。

 悪魔はそれ以上何もせず、大きな黒い翼を広げると、夜の闇の中へと音もなく飛び去っていってしまった。

 恐怖でガタガタと震えながら、私は一人、礼拝堂に取り残された。

 なぜ、悪魔が私を助けたのだろう。あの悪魔が去り際に浮かべた、傷ついたような表情はなんだったのだろう。結局、その夜は一睡もできないまま、朝を迎えることになった。



 翌朝。夕べの恐怖が冷めやらぬまま、私は朝食の準備のために台所へと向かった。

 そこには、いつも通りスープの鍋の前に立つ、ソロン様の高潔な後ろ姿があった。その姿を見ただけで、張り詰めていた心がすっと解けるような気がした。


「ソロン様……! お、おはようございます。実は夕べ、礼拝堂に――」


 そこまで言いかけて、私の言葉はピタリと凍りついた。

 スープをお玉ですくい上げようとした、ソロン様の左手。

 いつもなら綺麗な修道服に包まれているはずのその左腕に、痛々しいほど何重にも、白い包帯が巻きつけられていたのだ。


「……ソロン様。その、お怪我を……?」


 私が微かに声を震わせて尋ねると、ソロン様はゆっくりと振り返り、いつものように穏やかに微笑んだ。


「ああ、これですか? 恥ずかしいことに、夜中に司祭室の古い本棚を整理していたら、重い木箱を左腕に落としてしまいましてね。少し深く切ってしまったのです。心配いりませんよ、クラリス」

 

 ソロン様は、本当に何でもないことのように優しく笑う。

 けれど、私の心臓は、昨晩の魔獣を目の当たりにした時とは全く違う、冷たい恐怖でドクドクと跳ね上がっていた。


(本棚の、木箱……?)


 ソロン様の左腕の怪我の「位置」。

 それは、夕べ私を救ってくれたあの恐ろしい悪魔が、魔獣の鋭い爪で深く引き裂かれた場所と、寸分違わず同じだったのだ。

 まさか。そんなはずはない。ソロン様は街の人々から聖者と慕われる、誰よりも清らかなお方だ。あの禍々しい化け物と、この優しいソロン様が同じ存在であるはずがない。

 私は必死に自分の頭を振り、その恐ろしい疑念を打ち消そうとした。

 けれど、包帯を見つめる私の視線に気づいたソロン様が、一瞬だけ、笑みの裏側で「しまった」と言わんばかりに、酷く余裕のない、焦燥に満ちた瞳で私を凝視したのを、見逃さなかった。


 聖なる教会の中に、冷たい疑惑の霧が、静かに立ち込め始めていた――。


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