5-3 雑霊の脅威
日没を迎え、退魔師たちが街に繰り出す。
銅鏡川を挟んで、圭市中心部北側を早馬と聖菜が、南側を良也と鈴が巡回する。白い羽織姿の少年少女が、街の夜空を翔けていく。
北のペアは停止と移動を繰り返す。ビルの屋上で早馬が霊的存在の気配を探知し、問題が無ければ聖菜が彼を背負って飛び、二人で目視確認をしながら次の探知地点へと向かう。
南のペアは休むことなく移動を続ける。鈴が良也を背負って緩やかに飛び回りながら、住宅街を見回って雑霊の有無を探っていく。
二つの組はそれぞれの方法で、霊的な安全を確保する。地味な作業だが、悪霊の出現を防ぐためには必要不可欠な任務だ。
その警戒任務の途中、早馬と聖菜は担当エリアの北東端に向かった。
一番高いビルの屋上で、早馬は目を閉じて霊魂の感知に集中する。聖菜はその隣で周囲に目を光らせていた。
何の変哲もない、いつもの行為だった。
だがその時、早馬が異変を感じ、目を見開いた。
「雑霊だ!」
異様な気配を感じた方向に、早馬が目を向ける。
小さな山と、そのふもとにある大きな病院。十階建ての病棟が目印の、最近新しく開設された地域の基幹病院だ。
「乗って!」
聖菜はすぐに早馬の前に出て、中腰の姿勢をとる。
早馬は彼女の背中に飛びつく。次の瞬間には、聖菜は病院に向けて飛び立っていた。早馬は左腕で聖菜にしがみつきながら、右手を自分の頭に押し当てる。
「こちら山坂早馬! 良也、聞こえるか!?」
『……こちら月影良也、聞こえるよ、そー君』
「東の端で雑霊を感知した! 数は一体! なにかあったらまた知らせる!」
『わかった! 気をつけてね!』
早馬は良也との霊力通信を終え、右手を聖菜の肩に回して体勢を整える。
聖菜は飛行を続けながら、前を向いたまま声を上げた。
「標的はどこ!? 病院の中!? 外!?」
「外だ! 病院からは妙な霊力を感じない! ……おい! あれだ!」
早馬は右手で前方を指差す。
その先には、ヒトの形をした灰色のモノが宙を彷徨っているのが見えた。その輪郭はぼやけていて、そのモノからは意思の存在を感じられない。灰色の浮遊物はあてもなく周囲を行ったり来たりしているだけだ。
その雑霊を、聖菜も自分の目で確認した。
「浄化目標、発見! でも、あいつ病院に入ろうとしてない!?」
「わからねぇ! でも、少しずつ近づいてる! 急げ聖菜! 入られたら厄介だ!」
「急いでるって!」
聖菜は声を荒げながらも、できる限り速度を上げた。
空気抵抗が増大する。早馬は左腕で体を支えながら、右手を雑霊に向けて伸ばす。飛行による振動を受けながらも、彼は確実に狙いをつけようとする。
「あと、少し……あと少しで届く!」
射程範囲に入る直前、早馬が右手に霊力を込めた。
しかし、それと同時に雑霊の動きが変わった。これまでとは打って変わって、明らかに病院へと向かって飛び始めたのだ。
「させるか!」
早馬は咄嗟に霊力弾を放った。
雑霊の動きを予測した上での射撃だ。しかし、雑霊の飛行速度がわずかに上がり、光弾は雑霊の後ろをかすめる。
命中はさせられなかった。しかし、無駄弾にはしない。
早馬は右手を握り締め、その霊力弾を破裂させた。
雑霊の後ろで青い光が閃き、それと同時に衝撃波が雑霊を襲う。雑霊は前方に吹き飛ばされ、わずかに怯んだ。
聖菜が標的に向かって突進する。その背中を捉え、一直線上での追跡が始まった。早馬も、今度こそ直撃させようと再び右手で狙いを定める。
だが、雑霊は病棟のすぐ近くにまで迫っていた。
早馬は霊力弾を放ち、雑霊が屋内へ侵入するのを妨害しようとした。
しかし、間に合わない。雑霊は逃げるようにして病棟五階の外壁に突撃し、それをすり抜けて中へと入っていった。
早馬は咄嗟に霊力を破裂させ、聖菜は慌てて急ブレーキをかける。
霊力弾の爆発は建物に届く寸前に留まり、聖菜の体は足先が壁に触れたところで止まった。両者とも、余計な被害を出さずに済んだ。
しかし、一番大事なことができなかった。
「あああーーー! 逃がしたーーー!」
聖菜は悔しくて叫ぶ。
早馬は舌打ちをしながらも、冷静さを保っていた。
「下に降りよう! 入口から入って雑霊を追うぞ!」
「おっけーオッケー!」
聖菜は少し苛立ちつつも、早馬の言葉に従って急降下する。病院の正面出入口の前で速度を落とし、両足で着地した。
自動ドアの向こうに見える待合室は広く、ほぼすべての照明が灯っている。患者らしき人たちもそれなりに居て、まだ診療時間内だということがわかる。
早馬が聖菜の背中から降りる。
二人は頷き合うと、正面玄関に向かって走り始めた。
早馬と聖菜は勇んで自動ドアに接近する。しかし、透明な扉は動かなかった。二人は足で踏ん張って急停止する。
「って、開かないじゃん!」
「不可視の状態だと、機械にも認識されねぇのか!」
聖菜と早馬は、不動ドアの前で狼狽えた。
霊力を活性化させているといっても、霊体になっているわけではない。肉体を持つ者が特別な術も無しに物体をすり抜けることはできない。だが、ドアを破壊して中に入るわけにもいかない。このままでは正面からの突入は不可能だ。
「どこか、普通の扉を探すしか……」
早馬が苦い顔で呟く。
病棟には多数の患者が入院している。当然のように、身体の弱っている者ばかりだ。そんなところに、雑霊が入り込んだのだ。悪霊に比べれば危険度は遥かに小さいが、雑霊が患者を襲う可能性は十分にある。別の入口を探す時間が惜しい。
そこに、中からスーツ姿の中年男性がこちらに向かって歩いてきた。
男性は少年少女に目もくれず出入口に近づく。そして、自動ドアが開いた。
早馬と聖菜は咄嗟に左右に分かれて、出てきた男性を避けた。この幸運を逃すまいと、二人は自動ドアが開いている隙に病院内へ突入した。
二人は待合スペースの中央まで来ると立ち止まり、目を閉じて霊力の感知に集中する。
すぐに早馬が目を開けた。
「雑霊はほとんど動いてない! ついてこい聖菜!」
「わかった! 頼りにしてるよ早馬!」
二人はそう言葉を交わして、駆け出した。
病院内を走りながら、目の前に人が居れば即座に避ける。明らかに危険行動だが、今はそれを気にしている場合ではない。
二人は病棟につながる階段へと差し掛かり、ためらうことなく駆け上がる。
「すまない聖菜。ただの雑霊に、こんなに手間取っちまって」
「それはお互い様! 今は雑霊の浄化に集中しよ!」
「そうだな……雑霊は次の階に居るぜ!」
早馬と聖菜は息を切らすことなく階段を上り、病棟五階のフロアに躍り出た。
そこで聖菜が目を見開く。
「奥に居る! あたしにもわかるよ!」
「二手に分かれて、挟み撃ちにするぞ!」
標的に向かって、二人は別々に走り出した。
この病棟のフロアは回廊型だ。中庭の空間を取り囲むように白い廊下が四角を描いている。
早馬はナースステーションの前を走り抜け、聖菜は衛生設備の前を駆け、病室が連なる廊下を進んでいく。
この階層内はまだ明るいが、夕食の時間はすでに終わっているようだ。就寝前の入浴や歯磨きなどに向かう患者の姿がそれなりにあった。
早馬と聖菜は患者やスタッフを避けながら走り続け、同時に奥の廊下に辿り着く。
二人が遠く対面するその中央に、先ほど逃した雑霊の姿があった。退魔師たちが姿を見せた時には、雑霊はすでに病室へ飛び込もうとしていた。
この廊下では病院のスタッフがせわしなく行き交っていて、異様な空気が漂っている。
それでもかまわず、早馬と聖菜は全速力で病室へと走った。
だが、到底間に合うはずもなく、雑霊は扉の開いた病室へと侵入してしまった。それから数秒後、悲鳴が上がった。
「うわああああああああああ! なに!? なんなの!?」
女性の金切り声が聞こえるのと同時に、聖菜が病室の前で急停止する。その直後、老年女性の霊が病室から飛び出してきた。
「うわっ!」
聖菜は老女の霊を避けようとして無理な体勢をとり、そのまま転倒してしまう。ここから離れていく入院着の霊を、聖菜は目で見ることしかできない。
その隙に雑霊が病室から抜け出し、あの老婆霊を追い始めた。
一足遅れて早馬が病室前に辿り着き、聖菜の腕を掴んで彼女を立たせる。
二人は部屋に目を向けた。
病室の中では、数人のスタッフが慌ただしく動いていた。医師らしき男性が病床の患者に必死で声をかけながら、心臓マッサージを施す。周りの看護師は医師の指示に従いながら、機器の操作や薬剤の準備等に尽力している。
一瞥しただけで、早馬と聖菜は事情を察した。先ほど飛び出してきた女性の霊は、この病室の入院患者なのだろう。おそらく、肉体の命は雑霊が侵入する前に尽きていたはずだ。
だからこそ、退魔師の二人にはやるべきことがある。
「追うぞ!」
「あのお婆さんを助けなきゃ!」
早馬と聖菜は雑霊を追って駆け出した。
老婆霊は廊下に足をつけ、走って逃げる。雑霊は空中を翔け、獲物との距離を詰めていく。廊下を曲がった後も、霊同士の逃避と追跡は続く。
だが、階段に近づいたところで、老婆霊は雑霊に追いつかれてしまった。彼女は雑霊に殴られ、廊下を転がる。
「ああああああっ! 痛い! やめて! 殺さないで! うわああああああああ!」
老婆霊はすぐに立ち上がり、階段へと逃げる。
パニック状態の彼女は段差を踏み外し、盛大に階段から転がり落ちた。
女性の霊体は踊り場で止まり、彼女はそのまま伏してしまう。そこに雑霊が容赦なく迫ってくる。彼女は雑霊を見るや否や跳ねるように起き、階段を駆け下りた。
「誰か! 誰か助けて! 灰色の何かが! 私を! 助けてえええええええ!」
老婆霊の絶叫が病院内に響き渡る。
それに続くように、早馬と聖菜が階段に到着した。
「ばあさん! 落ち着け! 止まれ! 今すぐ助けてやるから!」
早馬が下の階に向けて声を放つも、何の返事もない。助けを求める声に応えても、求めている本人が救助者の存在に気付いていない。
「ダメ! 聞こえてない! あたしたちが追いつかなきゃ!」
聖菜はそう言って、階段を駆け下りる。それに早馬も続いた。
なんとしてもあの老年女性の霊を助けなければならない。雑霊に食われるようなことになれば、彼女の自我は消滅する。そうなれば、彼女は新たな雑霊として生まれ変わってしまうだろう。
この世に居る人間や幽霊の安全を守るためにも、そしてあの女性の尊厳を守るためにも、一秒でも早く標的を浄化しなければならない。
その老婆霊は無我夢中で階段を転がり下り、一階に辿り着く。彼女はそのまま正面の出入口に向かって走った。
ロビーの照明は、その半分以上が電源を落とされている。患者らしき人間も居ない。時刻は午後七時を回り、診療時間は終わったようだ。それでも、病院のスタッフは業務でその場に残っている。
老婆霊は藁にもすがる気持ちで叫んだ。
「ねえ! 誰か! 助けて! なんで! 聞こえていないの!? 殺される! 助けて! 誰かああああああああああ!」
できる限りの大声で求めた。それでも、周囲の人間は彼女に見向きもしなかった。
老婆霊は訳も分からないまま走り続け、出入口の自動ドアに衝突する。彼女は跳ね返されるかのように背中から倒れたが、すぐに上半身を起こした。
「開けて! 開いて! なんで開かないの! このままじゃ私……っ!」
彼女はドアを叩き、涙を流す。
その時、妙な悪寒が老婆霊の背中を走った。
彼女は後ろを向く。雑霊がすぐそこに迫り、その灰色一色の頭部が自分を見下ろしていた。
「あっ……ああ、あ……ああ……っ!」
老婆霊はあまりの恐怖で声が出なくなる。
もはや、助けを求めることすら叶わない。自分がどうして襲われているのかも、何に襲われているのかもわからないまま、皆に無視されて殺されてしまう。自分が誰だったのか、どうしてここに居るのかも思い出せないまま、死んでしまう。
そんな絶望の淵で、女性はただ襲撃者を見上げることしかできなかった。
雑霊が両腕を大きく振り上げ、彼女は目を見開く。
その瞬間、雑霊の胸部から何かが飛び出し、その動きが止まった。
「……え?」
突然の出来事に、老婆霊は呆然とした。
雑霊の胸を、銀色の蛇行した刃が後ろから貫いている。彼女がそれを認識した直後、刃が引き抜かれ、胸の傷口から大量の灰色の霧が噴き出した。漏れ出した霧は空中で急速に勢いを失い、そのまま消えていく。
そして、雑霊の姿が揺らいだ。
「浄化!」
少年の凛とした声とともに、灰色の霊が白い光に包まれる。雑霊の全身が一瞬で清浄な色に染まり切り、弾け飛んだ。




