三十五章 慈悲深き奇跡
―――カラン、ドサッ……。「はあっ……はあっ……!」
どうにか気絶させた感染者を前に、携帯でエルに連絡した所までは覚えている。だが余りの戦闘の緊張が祟って、次目覚めたのは中央病院のベッドの中だった。
―――全く、餓鬼を補導して樹から落ちるとは情けない。
起きるなり横でそう吐き捨てた学生の息子を全力で抱き締め、直後に全力で殴られた。その痛みが、ここが夢でも妄想でもないと如実に教えてくれた。
そんな訳で五百四十二分の一の奇跡が起こり、この世界線の俺は死闘を無事生き残った。
退院して早速ルマンディ博士の研究所へ赴くと、予想より早い悲鳴で出迎えられた。
『んー、もっとくっついてこいよー。俺達恋人同士だろー?』
『とっととベッドから出ろ、この変態!大人になって少しは成長したかと思えば』
『まあまあ。ハイネ君が無事で、私達本当にホッとしてるのよ。あ、チョコレートあるけど食べる?お腹空いたでしょ。採血はさっきしたし、コーヒー淹れてくるね』
『こいつも連れて行って下さいよ先生!僕をずっと貞操の危機に晒すつもりですか!?』
叫びつつ床の中で抱き着く親友を蹴飛ばし、どうにかベッドの外に追い出そうと奮闘。しかし十数年振りのロウ君も然る者。大人と子供の体格差を武器にしがみ付く。
『おはよー。元気そうで何よりだ』
『ジョウンさん……恨みますよ』
『?』
『僕には拘束を悲しむ時間すら与えられなかった事です。起きた途端にこれとか』肘鉄。『覚えておいて下さい』
そう言いつつも、最凶最悪のウイルスの感染者は何処か安らいだ表情をしていた。
その後、彼にはルマンディ博士の手に因る治療が開始された。だが最初の数年は試作ワクチンに芳しい反応が無く、病状は膠着状態。だが、
『ハイネ君、腕上がったわね。この卵焼き、すっごく美味しい!』『まあ宿屋で住み込みとかしてたから……』『へー。どんな所だ?』『そうだな、“白の星”の田舎街とか―――』
恩師と親友の心からの看病に、ハイネ君は病人とは思えない程明るさを取り戻していた。入院ばかりでは気が滅入ると時折三人で出掛け、病状はともかく精神は健康体そのものまで回復。俺やエルの見舞いにも学生時代同様溌剌と応対し、傍目にはすっかり普通の少年だった。だが、それでも致死率九十九パーセント以上の細菌保有者。研究所を長い間出るのはおろか、出世して環紗に一軒家を持つ父親の元へ帰る事は赦されなかった。
そんな状況が激変したのは、宇宙暦七百年春。シャバム中央病院で不可思議な力を使い、不治の病を癒す黒髪美人の噂を二人が聞きつけたのが発端だった。
『お願いします先生!』『頼むよ坊や。治らないと俺達エッチ出来な』ドンッ!『済みません。こいつの言う事はどうかお気になさらず』『は、はぁ……分かりました』
引き摺られるように連れて来られた息子の片想い人は、生返事と気弱な態度は裏腹にとんでもない力の持ち主だった。
『!?数値が……下がってる』
あれ程投薬に無反応だった『スカーレット・ロンド』が、彼が五分程身体に手を翳しただけで減少したのだ。その時の博士と言ったら、今思い出しても可哀相な面をしていた。
その後、僅か五回の治療でウイルスは根絶。命の恩人に、患者達は床に着く程頭を下げた。
『いえ、私の力なんて大した物ではありませんよ。お二人がずっと彼を支えていたから治った、それだけの事です』
あくまで控えめで慈悲に満ちた彼は、そう言ってペコリと一礼し去って行った。他の多くの患者を少しでも癒すため。そして―――自身の心臓を狙う者共すら救うために。
無事退院した翌日。彼等の母校のある“赤の星”ラブレの教会で、ささやかな結婚式が執り行われた。が、
『何でお前までいるんだ!?向こうに座ってろ!』
『そう言う訳にもいかないわ。式も指輪も、全部ロウ君が手配してくれたの』
『ついでに俺達の新居もな。往生際が悪いぞ。いい加減諦めな?』
成人済みの恋人達に左右の腕を取られて神父の前まで連れて行かれ、彼はとうとう観念した。
更に二年後。絆である賛美歌を元としたオリジナルソングでメジャーデビューを果たし、その澄んだ歌声と話題性で多くのファンを得、今日に至る。
眠い頭でつらつらとそんな回想をしていると、本宅の方から賑やかな声が近付いて来るのが聞こえてきた。
ダダダダッ!「こらっ、待ちなさい!!」「迎えが来たようだ」「だな」
あーあ、折角のぽかぽか陽気が……ま、いいか。




