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【未来への願い事】
お風呂で寝落ちしかけていた瑞葉さんを部屋まで送り届けて、私は一階に降りた。
「おや、寶川さん。まだ寝ないんですか」
楠木さんこそ、もう2時を回ろうとしているのに。
「お水を、飲もうかと…楠木さんは?」
「覚えているうちに、報告書をまとめようかと思いまして…今寝たら、明日は昼まで起きられない気がします」
楠木さんは悪戯っぽく笑う。
昨日からほぼ眠らず稼働していたらしい。今はお風呂からも上がって、飾りっ気のない楠木さん。
この事件に関わってから、楠木さんは少し、知らなかった表情をすることが多い。
きっと、私が知らない、でも、織星さん達は知っている、四年前の楠木さんが出てきているのだと思う。
それが、この事件の間、少し悔しかった。
私だって、少なくとも二年は一緒に過ごしているというのに。
その上、下手したら、私よりも最近一緒に暮らすようになった瑞葉さんの方が、打ち解けているのではという焦りもある。
「…寶川さん?」
俯いてしまっていたらしい。楠木さんが再度声をかけてくれた。
『…あんた、小さい方が碧の娘か。思ったより元気そうだ』
内田さんの言葉を思い出しつつ、私は言った。
「楠木さん、少し、お時間いいですか」
楠木さんは首を傾げつつ、「もちろん」と言っていつもの席を引いた。
お礼を言いつつ、座る。
何から話せばいいかわからず、10秒ほど間を空けてしまった。
楠木さんは気にした様子もなく、作業の手も止めて、静かに待ってくれていた。
「…楠木さんの四年前のこと、毛利さんや、織星さんから聞きました」
「…そうですか」
「…私が、楠木さんとマグノリアを始めたのは三年ほど前です」
「そうですね。あっという間でした」
…何が聞きたいのか。
自分でもはっきりしない。言葉にならない。
でも、モヤモヤしたものが、胸の中にあった。
「逸脱しかけた直後、ですよね」
楠木さんは少し考えて、首を振った。
「直後、が指すところによりますが、入院と経過観察などを一年弱じっくりやった後です」
「でも、覚えています。初めて会った時の楠木さん」
「…今思うと、自分でも酷かったとは思います」
私は中学も出ていない頃。
大学生の男性と一つ屋根の下、支部を経営しろと言われて、さすがに驚いた。
しかも、顔を合わせたらある意味で噂の人物で、表情は暗く、言葉は少なく。
やっとその理由の一端を知ることができたものの、私はなぜこういう采配になったのか、疑問に思っていた。
その疑問は、内田さんと海野さんを見て、少しはっきりと形作られた。
「…私は、楠木さんに守られるばかりで」
「っ…」
楠木さんは、何か言おうとして、止めた。
最後まで聞いてからと思っているのだろう。
「楠木さんもまだ完全に回復していない。私は、CAMチルドレンですし、世間を知らない。戦う力も持ってない…楠木さんが、過ごしたいように過ごす手伝いも、できない」
織星さん、瑞葉さん、いつか会った調停員の茅ヶ崎さん…皆さんみたいに、楠木さんを手伝うことが、できていない。
「楠木さんは、あんな大変な思いをしていたのに…その上で、私の面倒まで見させられて…わた、わたしは…」
視界がぼやける。
泣き出してしまう。また、楠木さんの時間を奪ってしまう。
楠木さんは立ち上がると、私の隣の椅子に腰掛け、こちらを向いた。
「…私は、寶川さんに常に救われています」
「でも…っ」
「寶川さんは、私が何故ここの店長になったのか、寶川さんと暮らすことになったのか、知っていますか?」
「…いいえ」
「全部、時音さんの考えです」
「…え?」
楠木さんは一度深々と座り直すと、遠くを見つめるようにして話した。
「三年前、時音さんに声をかけられるまでは、私は山の中で暮らそうかななんて考えていたほどでした。誰かといるのが怖い、誰かを怖がらせるのが怖い…そう思っていましたから」
逸脱を見た人は、そうなる…そう思う。茅ヶ崎さんだって、あまり誰かと過ごそうとしない。
「それなのに、時音さんがある日やってきて、「湘南支部作るから。碧は店長ね!私はマスターね!あなたはキャリアの中学生と住み込みね!」って、捲し立てられて。でも、神蔵家の天才に言われたことで断ることもできず…」
すごく、その場面が想像できた。その頃、時音さんは下手したら小学生だ。
「でも、きっと、時音さんは逸脱者を出したくない一心だったと思います。カフェなんて仕事は、絶対に誰かとの関わりができる。住み込みで誰かと過ごすのなら、血の通ったやりとりが生じる」
そこで、楠木さんは言葉を区切った。
一口、コーヒーをすする。
「寶川さんはさっき、守られるばかりで、とおっしゃっていましたが…大人から見たら、皆さんは守るべき対象です。でもそれは、社会的役割の話で、良くも悪くも、どうしようもないことです」
私は、その言葉をどう受け止めればいいのか、わからなかった。
「でも、寶川さんは、私に対しても、はっきりとものを言ってくれたり…覚えていますか?私がサイフォンで淹れた初めてのコーヒー…寶川さんは、ものすごい顔をして飲んで、「おいしくありません」って」
思わずと言った感じで、楠木さんは笑いながら言った。
「そ、そんな失礼なこと…言った…かも…しれません」
お店で出すのなら、と正直に言った記憶がある。表情については知らない。
楠木さんは、微笑んで、私を見た。
「それが、嬉しかった。あの頃、私に対しては顔色を窺う人が多かったから」
「楠木、さん…」
それは、きっと…楠木さんが私に向き合ってくれたからだ。
私は、自分の涙を拭う。
楠木さんは続けた。
「寶川さんは私とって大事な人だから、守るべき人ではなくて、守りたい人なんです」
まっすぐに、言ってくれた。
楠木さんは、多くは語らない。
多分、私が聞かなければ、一生聞くことがなかった言葉だ。
胸が、苦しい。
それほどに、嬉しかった。
「守りたいと思わせてくれる人がいるのは、とても幸せなことです。寶川さんがいてくれなければ、私はずっと前に、この社会で生きていくことをやめていた。寶川さんがいてくれたから、強く、しっかりした大人になろうと思えました」
「大人…?」
「この口調もそうです。寶川さんを預かる身として、周りからの見られ方も考える必要があると思いました。それに、こうしている方が、気分も落ち着きます」
そう言えば、内田さんも言っていた。楠木さんが口調が昔っぽくなったとかどうとか。
「どんな口調でも、楠木さんは楠木さんです」
私の言葉に楠木さんは首を振る。
「前に言った通り、これが、私の在りたい姿ですから、いいんですよ」
だから…と楠木さんは改めて姿勢を正す。
「寶川さんは、常に私を助けてくれています。もし、私に何か思うのなら、どうか健やかに育ってください。それが私の願いです」
どうにか止めた涙が、再度溢れる。
血のつながりの温かさなんて、もう望めないと思っていた。
家の中の安心感なんて、二度と触れることはないと思っていた。
それが、こんなに近くにあった。
「…楠木さん」
「なんでしょう」
私は、楠木さんをまっすぐに見た。
「…碧さんと、呼んでもいいでしょうか」
瑞葉さんとは、こうして距離が縮まった気がした。
私は、人との距離の縮め方なんてわからない。だから、瑞葉さんに倣おうと思った。
楠木さんは少し目を見開いたが、やがて柔和に笑った。
「寶川さんが、そうしたいのなら、どうぞ」
「では、そうします。…それで、その」
少し、わがままになってみようと思った。疲れと眠気で、少し変になっていた気もする。
「碧さんも、私たちを、名前で呼んでみませんか?」
「え」
楠木さんは珍しく驚いた様子を見せて、視線を泳がせた。
急に落ち着かなくなる。少し顔が赤い。
「…まぁ、その、皆さんからそう言うのであれば」
「はい。私から頼みました」
「では、そうしていきましょう…そうしていく努力をします。はい、善処――」
「…碧さん」
私はもう一度、碧さんの名前を呼んだ。
碧さんは非常に困った顔をした後、とても小さな声で、言った。
「…澪莉、さん」
「はい…!」
碧さんは、とても頼りになって、時々冷たくて、かっこいい。
少し、可愛い人だ。
………。
……。
…。
…めっちゃ寝た。
朝起きて、少しいつもより明るいなと思ったら、もう10時だ。
昨日の時点で、楠木さんも、澪莉も、今日は店を閉じることで意見は一致していたから、特に気にする必要はないのだが。
他人に見られても良い程度に軽く身支度をして、一階に降りた。
「…なんじゃこりゃ」
すごく珍しい景色だ。
リビングスペースのソファに、楠木さんが寝ている。
楠木さんの寝顔なんて見たことがない。
こうしてみると改めて少し幼く見える。これで内田より年上なんて、世界のバグだろう。
そして何より。
楠木さんを押し込むようにして、同じソファで澪莉が寝ている。
実に幸せそうにしている。
順番的に、楠木さんが寝ているところに澪莉が入ったのか。
少し視線を逸らすと、別のソファに毛布が残っていた。こっちが本来、澪莉が寝ていた方だろう。
「…幸せそうにしちゃって」
この光景が、少し、羨ましい。
このままにしておきたいと思った。
私は足音を立てないよう気をつけて振り返る。
…少し、考える。
さすがに、撮るのはまずい。バレたら怖い。
でも、多分、織星さんとか、絶対見たがる。
今回、織星さんにはお世話になった。情報共有は重要だ。
「んー、よし」
写真は撮った。
・3話まで毎日投稿。4話以降は1日おきに続きを投稿予定です。
・CASE FILE 02: 歌声は完結しています。全22話完結(8/22完結)予定。
・pixivで全編投稿済みです。先が気になる方はこちら(url: https://www.pixiv.net/novel/series/15989613)へ!
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